2018年3月28日水曜日

終兵器のミサ 邪馬台国論争のレクイエム3

 すなわち、古事記の対象地域は豊国以東の地域で、その対象外の地域が魏志倭人伝であり共通した地域が古事記の対象地域から国譲りで邪馬台国が得た地域の伊都・壱岐・対馬と思われます。
そして、三国志は「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」と邪馬台国と別国の倭種を述べ「舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」というとおり、倭種は70余国で三国志と同じ里程を使うと関門海峡あたり、陸地に沿っての航路なら宗像辺りからで、魏朝には使譯を通じていない冊封体制以外の国と言っている。
そして、漢書 地理志 吳地には「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國」と邪馬台国以前に20国をまとめた国が有り、後漢書には邪馬台国の東には「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」と書かれていて魏朝の時には邪馬台国の南まで迫っていたかその他の国によって縮小してきていたようです。
この様子はまさしく、日本書紀では朝廷が周防から京都郡や日向・肥後・筑後へと侵略して、筑後川北部や大宰府あたりは言及しないで浮羽から京都郡へ戻っている。
この国がまさに中国の冊封体制に入らない倭種70国の朝廷と考える以外にないし、拘奴国の勢力変化に合致していて、その範囲は大宰府を中心とした筑後川北岸地域が勢力範囲だとわかる。
さらに日本書紀を信じるならば、邪馬台国の東も、仲哀天皇は熊襲を討つために「參迎于周芳沙麼之浦」と同じく周防から鰐を押さえて、逆らう「大倉主」と「菟夫羅媛」を「倭國菟田人伊賀彦爲祝令祭」と伊賀彦に制圧させ熊襲の伊襲を占領して伊都と名を変えている。
まさしく、三国志の蘇が付く国は肥前のことと解り、 大倉主とやはり三国志で出てくる伊都国の官「爾支」と同じ冠位で制圧の方向は周防・穴門・伊都で京都郡に宮を作った勢力と同じだ。
制圧相手の熊襲が拘奴国で拘奴国はこうして大牟田市・八女市・浮羽市の北の地に押しやられてしまい、伊都国は邪馬台国と共同統治に近い名目上は周防から出発した勢力が上位に感じられます。
それに対して、邪馬台国女王に見立てた神功皇后は香椎から御笠(大宰府市)・夜須(小郡市)・山門縣(柳川市)を征服して松浦・伊都と巡行しています。
すなわち、神功皇后の領地は福岡平野、伊都を伊蘇と言ったように蘇の地域である佐賀県が領地で、朝倉市・久留米市・筑後市は解らないのとしか言えません。
 三国志は古田氏が論証した短里と壱岐・対馬を半周と読めば論理が成り立つと証明できるとしたが、半周なら水行で良く領内陸行なら半周する必要が無い。
邪馬台国に至る経過地全てが千戸で、領内は全て3・4百里と想像させた記述なのだから、経過地の対馬・壱岐・伊都・不彌の領内合わせて千4百里となる。
古田氏は奴国が伊都国を覆う地域で奴国の首都が伊都国の首都から東南100里と訳の分からない論理を考えたそうだ。
伊都国を覆ているのなら、別に奴国へを伊都国からの距離ではなく末盧国からの距離でよいし、囲っているのなら奴国のような2万戸の強国が、千戸のせいぜい半径2~3キロ程度の小国を占領できなかったのだろうか。

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