さて、少し話を変えて、日本の歴史家は何故か中国・朝鮮が中心で両国をものすごく有難がるのですが、顕著に現れたのが中国に認められ冊封体制に組み入れられた「倭国は畿内政権しかない」としているのですが果たしてそうなのでしょうか。
『日本書紀』には推古天皇より前に隋までは呉国で王朝名が出現しなくて授号記事が無く高句麗とも友好関係で、新羅などとは神功紀以外非常に友好的なのですが、中国の史書は倭が貢献したとか授号したと書き、『三国史記』には新羅や高句麗には倭に関してほとんど侵略記事しかなく、どう見ても倭と日本は別の国としか考えられません。
中国史書には倭が百余国貢献したと書いて後漢時代になると30余国と減るのですがあとの70国は中国の冊封体制に入らなかったと書かれていると読めます。
そして、倭国の東にはいつも『後漢書』の狗奴国や『三国志』の倭種や『隋書』の秦王国があって、さらに、20国を治める東鯷国や扶桑国も中国史書に書かれています。
扶桑国の信ぴょう性を疑う議論が有りますが、『隋書』で倭は里を知らないと言っている通り隋の里単位ではなく短里を使っていることに怒っているような叙述と理解できます。
『梁書』は魏・晋朝の里程をそのまま採用した倭伝を書き、梁は倭王とは会っているけど来日していないので、倭が申告した短里の里数を聞きそれを長里と思い込み短里に変換した里数を記述したと考えれば、分身国の7千里・それから5千里の大漢国までの里程に矛盾がなくなり、扶桑国の里程は沙門慧深の言葉で「荊州から短里で2万里」で大漢国の隣と述べていると考えれば理解できます。
冠位の對盧も高句麗と友好関係なのだから取り入れる可能性があり、景行紀には「彦狹嶋王拜東山道十五國都督」と中国の官位を取り入れています。
親魏倭王なら306年に高句麗に頼んで呉を訪れる必要が無いのに頼んでおり、370年にも「呉國。高麗國並朝貢」と高句麗と共に訪中している。
倭王武が日本の131国を支配したと宣言しているのですが、要望したのに百済が認められないということは中国に逆らう地域は統治していなくても支配地と認めることで中国が統治していない土地でも中国の支配下とする中華思想の一旦で、倭に形だけの地位を与えた。
そして、その中には扶桑国も含まれておらず、470年には「於石上高拔原饗呉人」と宋の使いをもてなし、『隋書』に「東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」と秦王国は中国人と変わらず夷蛮の国と思えないと感想を記している。
実際に『隋書』では阿蘇山近辺に倭の都が有り、この頃の肥後の支配者は欽明天皇の時に筑紫火君で筑紫国造磐井の孫にあたり、筑紫火君の子か孫がタリシヒコと考えられます。
そして、磐井は畿内政権に認められた国造でありながら、「磐井掩據火豐二國」と2国を、そして「誘致高麗百濟新羅任那等國年貢」と年貢を奪ったと記述して、倭王武が新羅など6国の支配者となったと認められたことと合致している。
磐井は畿内政権に敗れ殺されたのですが、なぜか子の葛子は出世して筑紫君と呼ばれたのだから、糟屋は盗られたものの、畿内政権に異変があって、異変に勝利した人物と葛子が協力して勝利したと考えられます。
そうでなければ、大敗した反乱分子が出世することは有り得ないし、大敗した磐井の墓が筑紫平野ではなく肥後の近くにあることと整合性がなくなります。
従って、隋書の倭(俀)国は磐井の子孫で畿内政権から見ると同盟国で配下の筑紫火君に過ぎず、その王であるから大王と呼ばれて当然で、聖徳太子も太子でありながら大王です。
そして、倭王を無理やり女帝にしなくてもよいのですから、タリシヒコは男王として間違いなく、もし、倭王の太子が聖徳太子ならリカミタフリがその候補となります。
さらに、倭王は自身を隋帝と対等な「日出處天子」と宣言しているのですから、皇帝の称号を持っていると考えられ、それが法興帝と呼んでも何の不思議がないと思いますし、もし、畿内政権の王が皇帝と考えていたのなら、遠慮なく日本書紀に記述すればよいのは当然です。
しかし、それでもタリシヒコが聖徳太子と主張する人物がいるかもしれないですが、聖徳太子の死後太子が不在と舒明天皇の皇位継承時に推古天皇が述べています。
ところが、上宮法皇の薨去の翌年に嶋大臣が彦人大王の年、男弟王に「隅田八幡神社人物画像鏡」を送っていて、彦人は天皇になっていなくて太子と日本書紀に記述されています。
すなわち上宮法皇薨去の翌年に彦人が太子になったと書いていることから、聖徳太子がタリシヒコなら聖徳太子が死んだら跡継ぎの太子がいて太子不在を嘆く必要が無く、上宮法皇も聖徳太子ではないことが解りましたし、また、山背大兄王は太子と呼ばれていないです。
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