2018年3月30日金曜日

終兵器のミサ 邪馬台国論争のレクイエム4

 日本書紀には国の境界を山や川で分けたと書かれていて、三角縁神獣鏡や前方後円墳の全国的広がりを考えると三国志の1世紀程前なので、伊都国と奴国の境界は山や川とおそらく高祖山山系が境界と思われ奴国が囲った説は否定せざるを得ません。従って、伊都国の東南百里に奴国、伊都国の東百里に不彌国なのだから50里近くは不彌国と奴国の境界が不彌国の南に重なり更に邪馬台国が南に境界が重ならなければならない。
千余家の不彌国の南に2万戸の奴国と7万戸の邪馬台国があるということは、不彌国は東西に細長い領域で伊都国の東になければならないのです。
すなわち、このような状態の国と言えば糸島半島から能古島・志賀島・海の中道の領域しか考えられません。
但し、更に船行・陸行で目的位置への行程をぼかす奇妙な論理は論外で、伊都や奴国・不彌国を記述する必要が無く、これが事実なら三国志は見向きもされませんし、このような但し書きを書かなければならない虚しさを禁じ得ません。
そして、不彌国の南には海を境界に福岡平野が広がり、西側に奴国・東側に邪馬台国が有るという結論以外考えられず、その境界は室見川か那珂川で邪馬台国は福岡市東区や糟屋郡となり、その南は拘奴国と三国志は周囲の国を特定しています。
すなわち、日本書紀が卑弥呼と指定している神功皇后の宮香椎も東区に、神功皇后が斎宮となった小山田邑も斎宮跡が糟屋郡の山田地区に有り、猪野地区に皇大神宮があり、漢委奴国王印も猪野と読めるし、出土地は志賀島で香椎に近いのです。
拘奴国も香椎から陸沿いに船を走らせると千里は宗像近辺になります。
 さらに、北部九州は甕棺墓が盛んであったのですが、甕棺墓は紀元前千年近く前の青銅器が埋納される以前から続き、邪馬台国支配の前から甕棺の祭祀儀礼を行っていて、邪馬台国の時代には甕棺が下火になって伊都国や筑後・肥後の地域に残るだけになっていました。
すなわち、邪馬台国は甕棺墓の祭祀儀礼を否定した政権で最初に甕棺墓が消失し、石棺や割竹形木棺に変わるのは糟屋郡近辺で、須玖岡本はまだ甕棺墓なので、卑弥呼では有り得ないのです。
以上のように、古事記・日本書紀・三国志を否定せずに、考古学的遺物にも矛盾が無かったのだから、この論を否定するためには、古事記・日本書紀・三国志に違うと書いてある事項を見つけ出すか、親魏倭王印を主張する場所で探し出すか、従来通り古事記・日本書紀・三国志は間違いと言い張る以外否定することができない。
しかし、古事記・日本書紀・三国志を否定すれば、新しい理論を証明する術をなくしてしまうことを覚悟して論じなければならず、その論で反対派を論破することは永遠にむつかしいと言わざるを得ないのです。
もちろん、この理論にも弱点があり、邪馬台国比定地に出土する鏡の出土が伊都国や奴国に見劣りするので、権力構造の弱さや大勢力の畿内政権の存在そして長らくの九州経済の中心として遺跡の破壊があったと言い訳する以外にないところです。
日本書紀は日本全体のことを畿内政権を中心に記述した史書であり、邪馬台国の事績も政権の配下が行ったこととするのは当然のことで、卑弥呼を畿内政権の皇后に割り当てても問題なく、権力というのはそういうものなのです。
それに対して、邪馬台国は自分の支配領域すら官位がバラバラで、伊都国は一大率があって統治していて、権力の弱さが解り、一大率が卑弥呼に王位を奪われた国をまとめることができなかった王家かも知れません。
従来の畿内説の論点はずっと天皇が畿内にいらっしゃったのだから邪馬台国も大和だという論理だったのですが、本来は、畿内政権は邪馬台国のように中国の冊封体制にはいらず、自主独立で、日本書紀を見れば、新羅や高句麗と友好関係を持ち、逆に、新羅や百済が日本の冊封体制に組み入れられていたような様相を示しています。
どうして、天皇家を持ち上げる歴史家が日本書紀にも書いていない、中国の冊封体制に入ったことを有難がるのか私には解らないのです。

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