2018年3月14日水曜日

終兵器のミサ 聖徳太子はタリシヒコか3

 ここで、従来説で「隅田八幡神社人物画像鏡」諱に「斯麻」を持つ百済の武寧王が隅田八幡神社人物画像鏡」を送ったとする説があるのですが、1国の王が他国の王に送るのではなく太子の男弟王に送り、しかも、大王を無視して開中費直の派遣を命じて日本国内で作鏡することは有り得ません。
本来なら、百済国内で開中費直と穢人今州利に作鏡させて百済の図案で大王に送るのが通常なことと思われ、すなわち、「斯麻」は日本人で大王抜きに開中費直と今州利を派遣して大王の弟に大王と同等に近い地位の人物が作鏡させたと考えなければならないのです。
そのような人物で「斯麻」と言えば蘇我馬子以外私の頭には浮かんでこないし推古紀に大河内直糠手や河内漢直が外交を行っています
さらに、大王がインフレ状態で、天皇も大王、太子も大王、筑紫火君の末裔タリシヒコも大王、タリシヒコは呼ばれるのは大王でも自称は皇帝だからよいでしょうが、上宮聖徳法王帝説』などでも推古天皇は大王天皇と記述されていて釈迦三尊を意識した記述なのでしょうか。
天皇号は飛鳥池遺跡から「天皇」と記された木簡が発掘され天智朝以降の開始とされますが、古事記では大王は一度も記述されずに天皇はいつでも天皇と記述されています。
また、日本書紀では明確に聖王・大王・天皇を書き分けていて、日本書紀全体では天皇ですが、会話や引用では神功皇后より前は聖王すなわちただの王で開化天皇のときから、古事記では王が複数出現した為、王の中の王が存在したはずでまずは大王だと思われます。
神功皇后以降に聖王と天皇が出現して、百濟記には全て大王ではなく天皇と記述されていて、大王は允恭・雄略・顕宗・継体・舒明天皇すべてが即位前に大王で即位後天皇と呼ばれて明確に差別化して、それは当然で、大王が大王に即位などという日本語は聞いたことが無いのです。
即位していない聖徳太子は太子でも大王で、朝鮮の王も任那の王も国の王も大王と呼ばれ、多くの大王の上に天皇が存在していることが解ります。
 そして、聖徳太子の推定でもう一つの可能性があって、本当は聖徳太子はリカミタフツリだけど、日本書紀が推古天皇の太子と盗用したという可能性です。
『船氏王後墓誌』のなかに、641年阿須迦天皇之末と記述され、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』のなかに、 646年池邊大宮治天下天皇が崩じ、667年に 小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王が像を奉納したと記述し、さらに、『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』には、667年に中宮天皇が大病していて日本書紀と全く合わない。
641年は舒明天皇の崩が遷都と思われるのですが、用明天皇が646年に崩じ、推古天皇若しくは皇極天皇が667年に生きていて、これらの天皇は日本書紀が書かれる以前の金石文で、学者が造作と切り捨てているけれども、おかしな話で、日本書紀より前にできた国宝の考古物が日本書紀と合わないから偽物と烙印を押すということはまかり通るものではなく、日本書紀の天皇以外に天皇が存在したのです。
645年には皇極天皇と孝徳天皇と池邊大宮治天下天皇が存在して、3人の天皇の記事が日本書紀に記述されている可能性があります。

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