2025年11月7日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 履中天皇2

  皇后黒媛に対し、履中六年春正月癸未朔戊子は正しい日干支で、奇異だが、皇后が変わる。「立草香幡梭皇女爲皇后」と草香の幡梭が皇后になった。『古事記』には波多毘能大郎子と波多毘能若郎女が記述され、波多毘能若郎女は亦の名が長日比賣や若日下部と記述される。すなわち、草香幡梭皇女が大草香の妃と考えられ、履中六年西暦405年から河内の天皇は大伴氏を背景にした大草香になった。

名だけの天皇だった大草香が河内で朝廷を打ち立てたのだろう。おそらく、草香幡梭皇女が比香賀君の娘の玉彦媛、夫が大草香・伊莒弗だろう。葛城氏と大伴氏に亀裂がはいったのだろう。

履中元年夏四月辛巳朔丁酉も正しい日干支で、「召阿雲連濱子詔之曰汝與仲皇子共謀逆」と、磐余稚櫻宮はまだ不穏だった。秋七月己酉朔壬子も正しい日干支で、「立葦田宿禰之女黒媛爲皇妃」は近江の女国の記録である。

履中二年春正月丙午朔己酉も正しい日干支で、「立瑞齒別皇子爲儲君」と記述される。立太子なので、倭国の賛の王朝が始まったのだろうか。儲君とされるのは瑞齒別、木梨輕、大友皇子の三皇子のみで、木梨輕は太子になって儲君と呼ばれ、瑞齒別は儲君になって太子と呼ばれた。儲君は本来、太子になるべきでない人物が棚牡丹で太子になったので、呼ばれたのだろうか。

 

立太子と倭国王

399 ― 漢直祖阿知使主

401 ― 瑞齒別皇子爲儲君(讃もしくは讃の父が即位)

428年 ― 倭国王()遣使獻方物

434年 ― 木梨軽皇子、太子に(弟珍が即位)

438年 ― 珍(讃の弟)、安東将軍に

451年 ― 倭済(珍の子)進號安東大將軍に

461年 ― 世子興(済の子)、安東將軍に

478年 ― 白髪皇子、太子に(弟・武が即位)

  ― 武王(興の弟)、宋へ上表文を送る

※親子相続の時、立太子が無い。

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