2025年11月5日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 履中天皇1

  八十七年春正月戊子朔癸卯は九州の日干支で、「天皇崩」とある王が崩じた。九州の日干支なのだから葦田宿禰達の記録で、磐余稚櫻宮の天皇が交代するので、五十琴宿祢の崩御である。冬十月癸未朔己丑は正しい日干支で、「葬于百舌鳥野陵」は場所が異なる。百舌鳥野陵は仁徳六七年(379)の「定陵地」で埋葬された息長帯姫ではないかと考えている。

五十琴宿祢の子が(履中)反正天皇の伊莒弗で、伊莒弗の子が天皇になり、反正天皇の子は天皇になっていない。すなわち、反正の義父の和珥臣許碁登の義子が伊莒弗と考えられる。伊莒弗は和珥大臣比布禮の娘婿の五十琴宿祢の子で、仁徳天皇大別は多遅麻の子となっているが、世代的に孫なので、従弟にあたる。和珥大連印葉(菟道稚郎子)の妃も仁徳天皇大別の妃も記述されないが、理には適う。

履中元年春二月壬午朔は正しい日干支で、「皇太子即位於磐余稚櫻宮」、『舊事本紀』「物部伊莒弗連為大連」とあるように、伊莒弗が名だけの天皇になった。近江女国の天皇は倭國造の祖の比香賀君の葦田宿禰(娘の黒媛)で、比香賀君の娘の玉彦媛が伊莒弗の妃なのだろう。

黒媛は婿が去來穗別、黒媛は皇后ではなく名目上の皇后玉彦媛が居るので皇妃である。履中二年十月に去來穗別は圓大使主と呼ばれ、雄朝津間稚子、更に木梨輕が圓を襲名したようだ。圓大臣は雄略天皇前紀の安康三年に殺害されている。木梨輕は大前安康大連に敗れ、伊豫に流されたとあるが、殺害されていて、流されたのは小前だった可能性が高い。

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