2025年11月26日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 安康天皇1

允恭四十二年春正月乙亥朔戊子は正しい日干支で、「天皇崩時年若干」と記述されるが、78歳で年若干は奇異である。木梨輕は圓大臣と考えられるが、大前の兄弟の小前は顕宗天皇(大連)で世代が異なる。すなわち、市邊押磐(小前)が453年允恭四十二年に崩じた允恭天皇の後継者だったが、雄略天皇に殺害され、即位期間が年若干だったと考えられる。皇太子は允恭天皇麥入の子の大前と荑媛の婿の小前が允恭天皇の後継者だったが、共に、雄略天皇に殺害された。

允恭四十二年冬十月庚午朔己卯も正しい日干支で、「葬天皇於河内長野原陵」と河内の天皇、すなわち、二代目大草香の陵墓である。十二月己巳朔壬午も正しい日干支で、「穴穗皇子即天皇位」と安康天皇大前が石上に遷都した。穴穂宮と呼ぶのは、大津の穴穂の姫の津媛の後継者の香火姫を妃にしたからと考えられる。

穴穂の妃は「去來穗別天皇女曰中蒂姫皇女更名長田大娘皇女也」とあるように中蒂姫・長田大娘である。しかし、長田大娘は允恭朝の姫なので別人で大前の皇后である。この時期は雄略天皇が記述しているので、近い時期、誤差は少ない。

ここまでの『日本書紀』の編者は真鳥の可能性が高い。天皇の名が葛城氏の系図なのだから。ただし、葛城氏の知っていた内容は『古事記』。物部氏と尾張氏や4つの国、倭、文身・大漢・扶桑の『四方志』から引用したのだろう。

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