西暦412年允恭元年の「寡人何敢遂辭乃即帝位」とあるように、允恭天皇が即位したが、日干支を記述しない。河内は427年まで大別、崩じた後は大草香が統治した。畿内は反正(伊莒弗)そして、伊莒弗の娘婿の伊莒弗の甥と考えられる麥入が統治した。これが允恭天皇、おそらく、首都は遠飛鳥宮大連なのだから明日香村の遠飛鳥宮と考えられる。そして、432年允恭二十一年壬申年正月三日に大雀の後継者の去來穗別が崩じたと『古事記』は記述する。
允恭二十三年三月甲午朔庚子、「木梨輕皇子立為太子以物部麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」とある。この日干支は九州の暦で、倭国の王朝交代の日付、さらに、遠飛鳥宮大連と石上穴穂宮大連が同時に即位するのは奇異だ。麥入は田井連の祖の娘婿で、田井比賣は弟媛なので、麥入は弟媛の娘の財皇女の夫である。434年の大連即位は安康天皇大前が即位したのだろうか。実際に434年に即位した人物は、倭王珍の即位だ。428年に倭国王讃が遣使、438年に讃の弟の珍が安東将軍になっている。434年の王位継承はピッタリだ。
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