履中三年冬十一月丙寅朔辛未は正しい日干支だが、「故謂磐余稚櫻宮其此之縁也・・・號膳臣余磯曰稚櫻部臣」と磐余若櫻の名前の由来を述べている。若櫻宮は242年に開かれていて、膳臣遠祖は景行天皇五三年・123年に「賜膳大伴部」と記述されているので、185年、もしくは、128年の九州の日干支の10月30日が相応しい。もちろん、402年も間違いとは言い切れない。
履中四年秋八月辛卯朔戊戌は九州の日干支なので、大伴氏が434年の記録を挿入した可能性が高い。「始之於諸國置國史記言事達四方志」と倭國、文身國、大漢國、女國の史書を記述させたのだろう。扶桑國は、自国なので、記録の必要も無いし、政権交代した新しい政権で4国史を纏めたものが『日本書紀』の原型となる。
履中五年春三月戊午朔は正しい日干支で、「筑紫・・・何奪我民矣吾今慚汝於是祷而不祠」とあり、筑紫と朝廷の不和を記述する。『好太王碑文』「十四年甲辰・・・刺倭寇潰敗斬殺無數」と倭は同年に大敗していて、朝廷の援助が無かったため、壊滅したと考えられる。扶桑国は高句麗の官位を導入するなど、友好的なので、当然の対応だろう。日向出身で倭と友好的な大伴氏が政権を奪った原因の一つかもしれない。
同時に大臣と大連が二人、女国と扶桑国ともう一つ政権があってもおかしくない。倭王武は「東征毛人五十五國」、難波・河内まで影響力があってもおかしくない。
年候補
丙寅10月晦日30日 4 128 195 221 252 345 469年
丙寅11月朔日 61 185 278 309 371 402 495年
辛卯8月朔日
186 217 243 310 367 434年
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