2025年11月12日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 履中天皇4

秋九月乙酉朔壬寅は正しい日干支で、伊奘諾神を祀り、河内飼部が従っているのだから、河内丹比の天皇の伊莒弗大連の説話だろう。冬十月甲寅朔甲子は九州の日干支で、筑紫車持君を断罪する説話で、筑紫(豊前・筑前)は和珥君の配下だったと考えられる。車持君は三月に畿内で天皇と会見し、九月に淡路島、10月に宗像近辺着の行程である。

履中六年春正月癸未朔戊子は正しい日干支だが、「立草香幡梭皇女爲皇后」の幡梭皇女は

穴穂の妃の義姉なので、431年允恭二十年が正しそうだ。伊耶本和気は「壬申年正月三日」432年に薨じているので、その直前の王位交代は相応しい。眉輪は7歳で安康天皇を殺害するので、351年生まれ、草香幡梭皇女の孫に相応しい年齢である。

履中六年二月癸丑朔の妃を召しいれる説話は正しい日干支だが、「讃岐國造阿波國脚咋別凡二族之始祖也」とあるように、吉備の説話と考えられる。吉備は九州の日干支を使用していた。死期を迎えた天皇が妃を迎えるのは奇異なので、410年1月30日に讃岐国造の祖なのだから、吉備王の説話と考えられる。吉備臣の初出は雄略妃の稚媛の父である。

神武東征は畿内を一変させた。宗像・宇佐・日向・安芸・吉備の軍が大挙してやってきた。これを、倭王武は東の「毛人五十五國」と呼んだのだろうか。少なくとも、履中天皇の後ろに、倭王阿知使主が、隼人刺領巾がいた。

年候補

 

癸未1月朔日 188 281 374 405 431

壬申年 312 372 432 492

癸丑1月晦日 317 348 410 441

癸丑2月朔日 374 405 467

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