2025年11月17日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 反正天皇2

  406年反正元年春正月丁丑朔戊寅は九州の暦で、「儲君即天皇位」は皇位を、伊莒弗が磐余から和珥氏に追われた記録だろう。427年まで大別が生存しているので、伊莒弗が大別から王位を奪ったのだろう。『舊事本紀』によると、仁徳天皇紀には「丁卯秋八月十五日天皇大別崩」、『古事記』も「丁卯年八月十五日崩也」と427年まで続いている。しかも、日付の表記法が畿内のものと違う。

伊莒弗の義父は倭国造、おそらく、圓大臣の祖父、伊莒弗の甥が圓大臣、圓の義父が和珥臣木事、圓の父の允恭天皇の妃は弟姫、忍坂大中姫の妹も弟姫、おそらく、忍坂大中姫も弟姫だ。圓の妃は木事の娘の津野媛の娘だろう。和珥臣と葛城氏の結びつきを示している。

反正元年秋八月甲辰朔己酉は正しい日干支で、「立大宅臣祖木事之女津野媛爲皇夫人」と、和珥臣の娘が皇夫人になった。瑞齒別の妃の津野媛と雄朝津間稚子の妃の弟媛で、弟媛は忍坂大中姫の妹、衣通郎姫と呼ばれ、『古事記』の衣通郎女は輕大郎女で娘である。『古事記』の瑞齒別は437年允恭二十六年に崩じ、雄朝津間稚子は454年、子の圓は456か7年に崩じているので、瑞齒別の娘婿は理に適う。

反正五年春正月甲申朔丙午は正しい日干支で、「天皇崩干正寢」と伊莒弗が崩じた。陵墓は『舊事本紀』が毛須野で埋葬年不明、『日本書紀』が同じく百舌鳥耳原へ允恭五年に埋葬している。履中天皇も允恭天皇も崩後すぐに埋葬しており、允恭五年の埋葬は異なる人物の可能性が高い。埋葬場所が百舌鳥なのだから玉田宿禰に殺害された難波大別朝の尾張連吾襲なのだろう。

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