履中六年三月壬午朔丙申は正しい日干支で「天皇玉體不悆水土不調崩干稚櫻宮」は、難波の王の薨去日と考えられる。伊莒弗は柴籬宮時の天皇で、冬十月己酉朔壬子も正しい日干支の「葬百舌鳥耳原陵」と河内で埋葬されている。すなわち、河内の王が若櫻宮に来ていて薨じたのだろう。通常、宮殿で崩御すると、首都を記述しない。天皇が首都で崩御するのは当然のことだ。「立草香幡梭皇女爲皇后」の記事を挿入したのは、大伴氏が河内を掌握したのだろう。崩じたのは日向泉長媛の夫で、跡取りは髪長媛の婿と考えられる。
伊耶本和気は432年崩、反正天皇が伊莒弗で410年崩である。反正天皇の記事を編ませたのは雄略天皇なので、皇后の母親に関する記事を記しても不思議ではない。
『古事記』には2柱の幡梭皇女(波多毘能大郎子と波多毘能若郎女)が存在するが、『日本書紀』は1柱で幡梭皇女だ。従って、この草香幡梭皇后は日向髪長媛の娘ではなく、日向泉長媛の義娘の幡梭皇女で大別の子の妃だろう。泉長媛の子に大葉江・小葉江が存在し、大前・小前と類似している。
もしそうなら、大前・小前は允恭大連麥入の娘婿だろう。麥入の妃は五十琴彦の子の目古の娘、世代が違いすぎる。目大連と大伴大連は全く同時期に出現し、同一人物を思わせる。そして、長目連が目大連の弟、目古連も大伴氏と関係がありそうだ。
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