2025年11月24日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 允恭天皇3

  允恭七年冬十二月壬戌朔も正しい日干支で、「妾弟名弟姫」と弟姫を妃にしようとした説話である。『日本書紀』「弟姫焉・・・時人號曰衣通郎姫」とあるように、弟姫が衣通郎姫、『古事記』「輕大郎女亦名衣通郎」とあるように、弟姫が輕大郎女、大后の弟は田井中比賣である。すなわち、皇太子の木梨之輕王と田井連の祖の娘婿の反正天皇の説話を併せた記述である。古い話なら、これら全てを纏めて、一人の皇后の説話。それが、雄略朝で編じ、また、仁賢朝の『古事記』、最近の話だから、矛盾がでる。

允恭十一年春三月癸卯朔丙午も正しい日干支で、「室屋連依勅而奏可則科諸國造等爲衣通郎姫定藤原部」とあるように、藤原に住む衣通郎姫の為に藤原部を定めた。しかし、大伴室屋は雄略朝の大連なのだから、大伴室屋の記録で、允恭三十七年448年閏2月1日の可能性が高い。閏月は政権によって決め方に差があり、3月朔日の穀雨の決め方で中国式なら閏2月30日晦穀雨、すなわち、3月晦となる。

実質天皇は木梨輕、衣通郎姫は輕大娘で、恐らく、木梨輕と輕大娘は同じ宮に住む従妹だろう。『後漢書』に「大人皆有四五妻」とあるように、王は皇后忍坂大中姫の姉妹や従妹を総取りで妃にして纏めて忍坂大中姫と呼んでいたと考えられる。天皇も代々、木梨輕だ。

允恭十四年秋九月癸丑朔甲子は正しい日干支で、「天皇獵于淡路嶋」と淡路島に出向いている。伊豫國に流されたとされるのが木梨輕、すなわち圓大臣で、その途中の記録と考えられ、允恭十四年秋九月癸丑朔が456年ならば、良く合致する。圓が弟媛の子、輕大娘が圓皇女で、弟媛を継承したと考えれば、理に適う。456年ならば、木梨輕の後ろ盾の安康天皇大前も同じ歳に崩じている。この允恭朝の皇后は弟姫、忍坂大中姫も弟姫、太子は木梨輕、圓大臣だったのだろう。女国の女王と大臣の説話だ。女国は400年頃から雄朝津間稚子が崩ずる454年まで、弟姫の王朝だったようだ。

 

年候補

癸丑9月朔日 332 425 456 482

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