『舊事本紀』の神武天皇は「狭野尊」、宇摩志麻治が天璽瑞宝十種を渡して、即位できた。物部氏が天皇と同等の大連に即位するのが纏向珠城宮である。それまで、天璽は「狭野尊」に預けてあったとの主張である。
「狭野尊」の祖の「於佐神」は速日国から出発して、於母島の東後の奈岐浦で「周饒國」王に即位した。「周饒國」王は「冠帶」の王、天璽は冠と思われ、饒速日の「饒」は『山海經』の「周饒國」から表意文字にしたのだろう。「瓊杵」の文字も使っていて、天璽の冠が瓊(玉)や杵(槌)に変化したからと考えられる。
「於佐神」は「冠帶」の王となったのだから、出発地にも「冠帶」の王が居たと考えられる。武力の背景無く、外から来て王になれるとは思えないので、「衣冠帶劍」の「丈夫國」王が背景なのだろう。佐之男は日孁貴と共に「胸肩君等所祭神」を生んでいる。胸肩が「丈夫國」で、本家の速日の佐之男神の速須佐之男である。
その後、加須屋の大神祇を祀る人々が出雲から相次いで来島した。そして、出雲の鞍山祇の分家の沖津久斯山祇が佐之男の後継者である。舞鶴に倉谷や倉梯がある。そして、久斯は敦賀の櫛川近辺なのだろう。また、三子島には、出雲の大山祇の一族も来航してきた。出雲の大山祇の一族が「大人國」の住人である。大人國の和名が出雲だったのだろう。
しかし、出雲が於漏知に奪われ、於母島も於漏知に襲われるようになった。そして、於母島の西の、のちに主栖津と呼ばれる松野に逃げた。小之凝呂島に米を作ったのが、この襲名した山祇の佐之男、乱暴者ではない、改革者だ。『古事記』は「速須佐之男命宮可造作之地求出雲國尓到坐須賀地」と記述する。
出雲は三国の於漏知が支配しているので、出雲でない須賀に宮を造ったはずで、唯の州がある場所だ。すなわち、出雲近辺の他国ではない、自国の土地と考えるのが合理的だ。大人様は本拠を松野から奄可後の奈岐の浦に宮居を造り宮地を公処と呼んだ。奄可に比定される隠岐西郷湾には玉若酢命神社がある。天津國玉の子の若日子の出発地が奈岐の浦で、天津國玉の若国・大人国の建国説話なのだろうか。
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