2024年7月31日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国主2 大主

  大人様が周饒国王になったとき、宇都須山祇が山末之大主(大山上咋)になったと考えられる。それは、名目上、大人様が周饒国王だが、実質は宇都須山祇や加須屋大海祇が力を持っていたからである。加須屋大海祇が最高権力者で、宇都須山祇の依頼で力を貸し、大人様が周饒国を統治したのだから、力関係として、当然なことである。宇都須山祇は実質大臣と同じ地位、政策を行う最高権力者だったと考えられる。

宇都須山祇(大穴牟遲)は須佐能男の娘である須世理毘賣を嫡妻とし、宇迦能山本に宮柱を建て、宇都志國玉に就位した。宇津と志木の国王であった大国主の祖である大穴牟遲は、八上比賣を妃に迎え、大山祇を名乗っていたと思われる。

大山祇は、神の「海」が対馬の「椎」と合祀されて「海祇」と呼ばれるようになった。「海祇」は三身国の力を借りて但馬に天降り、天之常立(大海祇)、そして川岸の津の大神祇、さらに野洲の山の神と習合して「大山祇」と呼ばれるようになったと考えられる。山祇は出雲氏の神と考えられる。

大国主は天之冬衣と刺國若比賣の子である。刺國若比賣は和久産巣日を祀る姫の可能性が高く、天之冬衣は産巣日と呼ばれていたのではないかと考えられる。

隠岐之三子嶋も木葉比等や於佐之神が速日別国から渡ってきたため、速日別国の影響下にある島だった。三子嶋は天之忍許呂別という「天之」の接頭語が付く島であり、速日別国から来たと考えられるため、天之冬衣の名前も産巣日()と類推できる。(胸形・対馬佐須川・対馬昼ヶ浦で産巣日)

隠岐の於母島は対馬の月讀を祀る国であり、丈夫国は日国(対馬)・()日別国・隠岐も名目上支配していたと思われる。奈賀命の妃の須津姫の出身地の丹波の須津は加須屋大海祇の影響下の土地だったようだ。

2024年7月29日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国主1 主誕生

「主」の初出は『伊未自由来記』にあり、それは沖津久斯山祇が支配した時に登場する財主である。記述によれば、於漏知が来航して財主を奪ったとされており、この内容は足名椎が娘を献上したという話と類似している。「財主」は財宝を管理する重要な人物であると考えられる。

「主」には、稲田宮主と、水別酢()に居た美豆別之主、大主も存在する。つまり、「主」は月讀を祀る海人の於佐の神が宮主を賜姓したように「姓」で、国の主要メンバーの一人だった人物が、美豆別之主のように、周饒国の王になったということだ。

『伊未自由来記』によれば、大人様が隠岐王となり、中国は但()を「Dàn(mà)」と呼び、於の神の臣を人と理解して大国を大人(dàrén)国と記述したのだろう。それに対して、日本人は大人を「主・ウシ」と読み、大人様は主様のことを指していたと考えられる。つまり、大国の発祥の地は但馬であると中国人は見ていた。また、天菩比が天降った時期には、その子が三熊之大人と呼ばれていたので、これは主の官位が成立した頃であったようだ。

周饒国の王も「主」と呼ばれたが、それ以前の官位は海神の子の命(神子の弟)で、兄が王で弟に賜姓して「命」と呼んだ。神子大人様の兄は宇都須山祇()を襲名するので、大人様は奈岐の命である。子孫は海部大神と呼ばれ、(伊邪)那岐の子の月讀が天大神だ。そして、天津神の神子の美豆別之主が隠岐国を統治し、大山祇が交易と婚姻によって、於漏知の君子国とも融和することができた。

その後、出雲で大きな戦いが起こり、出雲氏の大山祇が敗北し、大国主が統治した。この事件を美豆別主の末裔である宇摩志麻治が事代主の子、天日方奇日方の妹である鞴五十鈴とその婿に天璽瑞寶十種を授け、政権交代が行われたと記述した。しかし、実際は美豆別主が『舊事本紀』の神武天皇の狭野尊(若狭日子)、大国主の父天之冬衣に天璽瑞寶十種を授けたと考えられる。

そして、隠岐国の王は、阿遅鍬高彦根の御子の奈賀命で、大国主の孫とされるが、大国主も襲名するので、実際は襲名する若狭日子の王家の兄弟と考えられる。月讀を祀る奈賀命が賜姓した大国主が周饒国の後ろ盾であり、その結果、「冠帶」の周饒国は無冠の食国・隠岐国となった。

2024年7月26日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国王4 丈夫国と君子国の狭間

  大人様は於母島の松野、後の主栖津で、全島征服の準備を始めた。加須屋大海祇の軍兵を乗せ武器・衣料・農工具・種子類を持って来た。宇都須山祇、須賀之八耳の時だ。三身の綱で国引きした説話の下敷きで、九州北部を統治した「衣冠帶劍」の「丈夫國」の武器なのだろう。しかし、それ以前に大人様が三つ子島の於漏知と戦った説話を語る。武器は煙管、焚火の火を語る。時代が違うので、おそらく、狼煙を消す焼火山の説話が変質したのだろう。君子国が強力で於漏知に出雲や隠岐三子島が奪われた時代の説話で沖津久斯山祇の時代の話である。

大人様も、佐之男も大山祇の娘の婿である。大山祇の子の足名椎は『舊事本紀』に「稻田宮主神坐出雲國神」と、出雲の神である。出雲は「出雲國五十狹々之少河(?)」と、若狭の小浜にあった。すなわち、共に君子国(三国)に支配されていて、丈夫国(速国)と拮抗していたようだ。その大山祇の娘の神大市姫を須佐之男は妃にしていた。そして、須勢理毘賣の婿の大国主を須佐之男の子に入れている。すなわち、大山祇の子も婿も大山祇の子なのである。その大山祇の神子の稻田宮主が大臣の祖、周饒国配下の大()主である。実際は大山上咋(大主)なのだろう。

天皇の祖は大神月讀、大連の祖が佐之男で、佐之男は主栖津の周饒国王、稻田宮主は大主、佐之男を継承する大人様は宮田に宮を遷した。大人国は砂丘の北、その北に、「奢比之尸」、それが丹後経ケ岬と考えられた。すなわち、大人国北端が経ケ岬、経ケ岬の近辺に伊根がある。伊根は舟屋で有名で、大人國は「坐而削船」と船を造っていたと記述する。『山海經』は、大人國が𨲠丘の伯耆の東、因幡から但馬・丹波を含み、君子国手前までだと述べている。『古事記』の若狭の出雲と伯伎の堺の比婆山は海を隔てた境だろう。現代の出雲は「海外南經」の三首国、隠岐三小島の西の反舌国と思われる。島根半島の形そのものである。

2024年7月24日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国王3 「並有八名」の王

  櫛名田比賣から大国主の系図は大山津見(足名椎)の娘の於佐神の妃から大山津見(刺國大神)の娘の大山津見と大人様の系図だった。於佐神の佐之男を継ぐ、沖津久斯山祇が足名椎、宇都須山祇の須賀之八耳、そして、天若日子の子の大国主の歴史だ。沖津久斯山祇は於母島の東の大津に住んだ。宇都須山祇は於母島の西の大津松野、主栖津に住んだ。そして、大人様は於母島の東の大津に公処と呼ぶ宮居を遷した。後に宮田と呼び、公処が語源というが、稻田宮だったから、宮田と呼ばれたのではないだろうか。

於漏知に支配され、於佐神を祀ってきた大山津見の名椎を宇都須山祇の子の大人様が稻田宮主と賜姓し、大国が周饒国を統治した大人国である。大国王が加須屋の大神祇の力を借りて周饒国と大人国を統治した。大人様の力が弱くなると、加須屋の大神祇を背景にした天津神の神子の美豆別之主が大人国を統治したため、於漏知の君子国は友好的になったようだ。美豆別之主は主という官位が有るように、加須屋の大神祇が大人国王で、大人国主が美豆別である。

同じように、天津國王の神子の天若日子は刺國大神の娘の若比賣を妃に大国主を生んでいる。すなわち、加須屋の大神祇も美豆別之主も天若日子も天津國王の配下になったことを示す。そして、隠岐は食国と呼ばれるようになり、祀る神は月讀である。隠岐は武力を持たない、名目上の宗主国であり、隠岐王は美豆別、大国王は大山津見だったようだ。

大国王の大山津見の孫の大国主は食国が阿遅鍬高彦根の子の奈賀命が隠岐を支配したことで、大国王の若狭比賣、太子の大国主が最高権力者になったと考えられる。大国王の大山津見は切り取った時代によって足名椎、大己貴(八島士奴美)、大國玉、顯見國玉(宇都須山祇)、葦原醜雄(しこぶち神)、八千矛、刺國大神、大国主と呼ばれた。

2024年7月22日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国王2 大己貴

  『日本書紀』では、脚摩乳の娘の奇稻田姫が大己貴を生んで、国譲りを記述する。それに対し、『古事記』では、足上名椎の娘の櫛名田比賣の系図を記述している。『日本書紀』は須佐之男の子、『古事記』は須佐之男の婿で、分家が本家を継承しても、嫡子にした。『古事記』において、櫛名田比賣は八島士奴美を生み、八島士奴美は野洲の神だ。八島士奴美は大山津見の娘を妃にし、その子は淤迦美の娘を妃にした。淤迦美は隠岐の神で、その子は天之都度閇知泥上神を妃に迎え、淤美豆奴神が生まれた。淤美豆奴は当然、美豆別之主が思い浮かぶ。天之都度閇知泥上神も天の津の港、対馬の神であり、天若日子も天津國玉と記述して、天の津の国王の子なので対馬から天降ったと考えられる。

淤美豆奴神は美豆別之主と考えられ、天津神の子で久米部・綾部・工部・玉造部を率いて来島している。淤美豆奴神はまた、水臣と考えられ、「八束水臣津野命」が祀る神なのだろう。淤美豆奴神は布怒豆怒神の娘である布帝耳を妃にし、天之冬衣が生まれた。布怒豆は知夫里島の津なのだろう。奈賀の島の豊田は於母島から最も早く着く里だったので、早着里と呼ばれた。地名の最小単位である里だ。知夫里は「霊夫」の里であり、その津の神のようだ。

布帝耳は「夫津」の三国配下の序列2位の三国神であり、手名椎と考えられる。すなわち、隠岐は月讀の対馬が王、大国の大山津見がNo1の配下、三国の於漏知がNo2の配下だったことが解る。天之冬衣の妃は刺國若比賣で、その子が大国主である。天之冬衣は刺國若比賣の婿であり、天降って刺国(若狭)の天若比古と呼ばれたと考えられる。櫛名田比賣の子の八島士奴美も、刺國若比賣の父の刺國大神も継承された大己貴であった。

2024年7月19日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国王1 大山祇

  宇都須山祇の子である奈賀の大人様は、加須屋大海祇の協力で、於母の島の東の大津に遷り住んで宮を造っており、奈岐浦命と呼ばれていた。彼の妃は大山上津見の娘で、子孫は海部大神と呼ばれ、宮主の大山上津見が大国主なのだろう。ところが、『古事記』では大国主の母を刺國若比賣と記述している。若比賣という名前の通り、彼女は若狭の姫で、姫の父は「刺國大上神」だ。刺國、すなわち若狭の国に住む大国(大山)の神(津見)であるため、大山上津見の足上名椎と一致する。

大国主は須佐之男の娘である須勢理毘賣の婿だ。於佐之神の跡継ぎである沖津久斯山祇とは世代が異なる。沖津久斯山祇の次の世代の大人様の妃である須賀之八耳の娘が須勢理毘賣であれば、世代的に適合する。沖津久斯山祇は出雲の鞍山祇の子で、出雲は於漏知に奪われて、逃げてきたと考えられ、加須屋大海祇が進出して、やっと、於漏知に対抗できた。

佐之男の跡継ぎである沖津久須山祇の子は三つ子の島の比奈の地に祀られた。名前は比奈真乳姫と比奈真岐であり、西ノ島東岸には比奈麻治比売命神社がある。比奈は於母の島の西にある大津松野(主栖津)の対岸に位置する。そして、大人様を継いだのが、物部氏の水別酢、「ス」に宮を置いた王家である。つまり、『舊事本紀』を書いた政権にとって、須勢理毘賣が櫛名田比賣の娘であることが都合よかった。そのため、『舊事本紀』では八島士奴美も大國主も大己貴の別名としている。

大連の史書である『舊事本紀』は、大連が須佐之男や周饒國王の血統であると主張した。一方、大臣の歴史書である『古事記』は大山上津見の血統であると主張した。

2024年7月17日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 建速須佐之男の子達

   『日本書紀』では、出雲の大乱前に奇稻田姫を妃にした素戔鳴が大己貴を生んで物語が終わる。一方、『古事記』の大国主は天之冬衣と刺國若比賣の子だ。つまり、素戔鳴は大国主の祖先である初代大穴牟遲の八島士奴美を生み、大人様と思われる大年神や、大国王の宇迦之御魂を生んだ。

宇迦之御魂は宇治川の神の大津王で、大年神が神門に対する大国門の神である。大人様は流宮加須屋大海祇の援助で隠岐王となり、宇迦之御魂が大国主の祖である山末之大主となったと思われる。八上比賣の父が襲名した宇迦之御魂なのだろう。於佐神と同族の大津に移住した津神である宇都須山祇の子である八島士奴美は、野洲の国神であり、士奴は氏の瓊、つまり族長の王の璽を持つ神を意味する。

八島士奴美の家系は、丈夫国の王族である大山津見、周饒国の王である淤迦美、周饒国の重臣と思われる三子島の布怒豆怒神、そして若狭の刺國大上神と姻戚関係を持っており、そこから大国主が生まれた。これは、周饒国の官位である国主を得たことを意味し、周饒国の最大の権力者となった。

大年神は神活須毘神の娘、伊怒比賣を妃にし、大國御魂神、韓神、曽富理神、白日神、聖神を生んだ。まさに大人国王大年神の国生みだ。伊怒比賣(?意加美)は壱岐(巫咸國)の王(巫女)と考えられ、後に、邪馬壹国が壱岐を統治するために一大率を置くほど重要な島だった。つまり、壱岐の勢力が大國、韓国(新羅)、曽富理(百済)、白日(筑紫)、聖()に市場を持ち、百余国に影響力を持つ倭奴国発祥の国であったのだろう。

また、初めて大和の神の大香山戸臣と御歳神が出現し、速日国の国生み神話が続く。そして、大戸比賣の子と考えられる奧津日子、奧津比賣、近淡海国の日枝の山の大山上咋などが生まれた。香山戸は野洲国への入り口である宇治のことを指しているのだろうか。

2024年7月15日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 建速須佐之男3 於漏知戦

  三つ子の島はすべて於漏知の支配下になり、於母島の東の大津にも於漏知が侵略している。「僕者國神大山上津見神之子焉僕名謂足上名椎妻名謂手上名椎」と、大山祇の子は於佐の神に言った。於佐の神が於漏知と戦えたのは、6代目出雲の大山祇の足上名椎の娘を妃にできたからだった。「足」は支配者の意味、「手」は助手、奈の津の霊の意味だと思われる。櫛名田比賣は出雲の櫛という地域出身なのだろう。奇日方命や阿田都久志尼命の櫛で、敦賀には櫛川があり、三方五湖には久々子湖やはす川の支流に串小川がある。

於漏知は「踏鞴を踏んで金を作り、鎧・兜・盾・剣も作るので」、少人数でも戦いに強かった。すなわち、「周饒國」が沖津久斯山祇の代の末、於漏知は「高志之八俣遠呂知」のことで、「衣冠帶劍」の「君子國」の支配下にあった。佐之男が「八俣遠呂知」を「切其中尾時御刀之刃毀」と切った時、刃が欠けた。金属で補強した剣と石剣で戦えば、当然の結果だ。

「周饒國」が沖津久斯山祇の代の末、「君子國」は少なくとも於漏知の古志国、三国、出雲を含む「大人國」、そして隠岐の「三首國」の三つの小島までを支配下にしていたようだ。大山上津見神の子である稻田宮主須賀之八耳は、三国の役職名を賜姓されて大人國を統治した主、大国主だった。

八耳は三国政権下の八国(野洲)の神を意味し、八「三神」を表す。娘たちが於漏知の人質であるため、「大人國」は「君子國」の支配下にあった。「周饒國」の支配者は於佐の神から沖津久斯山祇に替わり、武器は石の十拳釼だった。於佐の神の分家である宇都須山祇の子である大人様は須賀宮を造り、八国を支配下にして「周饒國」の王になった。近江の大津から菅浦、若狭の久々子湖、隠岐の主栖津の「所知海原」と海の道を支配した。大人様も於佐の神を祀った須佐之男である。

2024年7月12日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 建速須佐之男2 須賀の宮

  『舊事本紀』の神武天皇は「狭野尊」、宇摩志麻治が天璽瑞宝十種を渡して、即位できた。物部氏が天皇と同等の大連に即位するのが纏向珠城宮である。それまで、天璽は「狭野尊」に預けてあったとの主張である。

「狭野尊」の祖の「於佐神」は速日国から出発して、於母島の東後の奈岐浦で「周饒國」王に即位した。「周饒國」王は「冠帶」の王、天璽は冠と思われ、饒速日の「饒」は『山海經』の「周饒國」から表意文字にしたのだろう。「瓊杵」の文字も使っていて、天璽の冠が瓊()や杵()に変化したからと考えられる。

「於佐神」は「冠帶」の王となったのだから、出発地にも「冠帶」の王が居たと考えられる。武力の背景無く、外から来て王になれるとは思えないので、「衣冠帶劍」の「丈夫國」王が背景なのだろう。佐之男は日孁貴と共に「胸肩君等所祭神」を生んでいる。胸肩が「丈夫國」で、本家の速日の佐之男神の速須佐之男である。

その後、加須屋の大神祇を祀る人々が出雲から相次いで来島した。そして、出雲の鞍山祇の分家の沖津久斯山祇が佐之男の後継者である。舞鶴に倉谷や倉梯がある。そして、久斯は敦賀の櫛川近辺なのだろう。また、三子島には、出雲の大山祇の一族も来航してきた。出雲の大山祇の一族が「大人國」の住人である。大人國の和名が出雲だったのだろう。

しかし、出雲が於漏知に奪われ、於母島も於漏知に襲われるようになった。そして、於母島の西の、のちに主栖津と呼ばれる松野に逃げた。小之凝呂島に米を作ったのが、この襲名した山祇の佐之男、乱暴者ではない、改革者だ。『古事記』は「速須佐之男命宮可造作之地求出雲國尓到坐須賀地」と記述する。

出雲は三国の於漏知が支配しているので、出雲でない須賀に宮を造ったはずで、唯の州がある場所だ。すなわち、出雲近辺の他国ではない、自国の土地と考えるのが合理的だ。大人様は本拠を松野から奄可後の奈岐の浦に宮居を造り宮地を公処と呼んだ。奄可に比定される隠岐西郷湾には玉若酢命神社がある。天津國玉の子の若日子の出発地が奈岐の浦で、天津國玉の国・大人国の建国説話なのだろうか。

2024年7月10日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 建速須佐之男1 建(タケ)

  建速須佐之男は直ぐ後に速須佐之男と書き換え、本来は速須佐之男であったようだ。『舊事本紀』でも、建素戔烏は亦の名の注で出現するだけで、素戔烏か速素戔烏である。時間軸は熊襲から建国のようである。建は熊曾國が建日別、土左國が建日別の分国の建依別、吉備兒島も建日方別と建日別の分国である。熊が日国によって建(タケ)と呼ばれたことを意味し、日別国は筑紫と豐と熊曾、日国は速日国であった。すなわち、「ク()」国・久国(木国)をある時期に「タケ」と呼んだことを意味する。「タケ」と呼んだ人物は神を「ケ」と呼ぶ集団である。

シナ海の「アマ」は「マ」を神と祀る人々で、同じ「マ」を祀る九州の人々を「クマ(キマ)」と呼んでいたのだろう。そして、「クマ」の土地に「タケ」が入ってきて、祀る神は「マ」の「タマ」でなく「タケ」を祀る人々である。但馬の比婆の「タケ」、化物の「ケ」、食国の比婆の神の「おばけ」である。中国人は、「アマ」を「悪魔」(èmó)、「ケ」を「鬼」(guǐ)と畏れ、悪は呉音も「アク」で「アマ」と「クマ」だ。すなわち、悪魔や鬼と呼んだ、中国語を理解する聖人が行き交った六合を統治した月讀が建と呼んだ可能性が高い。

そして、伊邪那岐と共に戦った尾羽張の子の建御雷之男、亦の名、建布都が大国主と子の建御名方を追い出した。そして、「タケ」の地を「ア()」が支配したのが隼人の「阿多」君、速日国から天降った人物である。

若狭の「佐之男」も、どの時代の人物かによって、須()、速、建の接頭語が付加される。唯の須は、天皇と同等の官位の姓、どこの国と書かなくても、どこの王か解るから、この姓を冠する。それに対して、建須・速須はより上位者が存在するから、国名が付加される。天皇も同様で、国名が付加されない日子や日女、縣主が天皇で、神倭磐余彦は天皇の名ではなく、媛蹈鞴五十鈴媛や比賣多多良伊須氣余理比賣、日子八井が天皇である。

2024年7月8日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神8

  阿遲鍬高日子根の妹の下光比賣は大国王の分家の娘で若狭に住み、対馬の神子の天若日子を婿にした。天若日子は対馬の神子が若狭に婿入りして、天若狭日子と呼ばれたと考えられる。照と鳥が同じ地域で現在の若狭町にある。下光比賣の別名の高比賣は名前から、『古事記』を記述した政権がこの地域を高島の支配下と理解したのだろう。若狭の下光比賣は若狭日賣が姓で、分家が高比賣なのだろう。高浜の可能性もあるが、唯の高は高島と考えるべきだろう。

阿遲鋤高日子根の子の奈賀命の妃は丹波の須津姫、天の橋立に須津がある。須津姫を妃にした奈賀命は出雲から来たと言う。すなわち、出雲は天の橋立も含み、天橋立が阿蘇湾にあり、阿遲鋤は阿蘇湾への道、高島・須賀を支配する王だ。

そして、下光比賣と同じ地域の高島と照()の姫が高照姫ということになる。高照姫は都味齒八重事代主の妹である。八重事代主は野洲の港で神の神託を伝える王なのだろう。信託する神は当然、妹の髙照光姫大神だ。事代主は「爲鳥遊取魚」と鳥(鳥浜)で漁をして、海辺に身を投げた。大国主は鳥耳を妃に鳥鳴海を生んでいる。鳥耳は若狭町の鳥浜の王で、野洲には成橋という地域が、対岸には雄琴がある。また、事代主は神屋楯比賣が母、神屋楯比賣は三国の宮殿を建てた三国朝廷の祖神である。事代主は三嶋溝杭の娘の活玉依姫の住む場所の都味齒、三国の津、齒は端で、恐らく敦賀に婿入りした。活玉依姫は『日本書紀』で玉櫛媛と呼ばれ、鳥浜にある生倉から敦賀の櫛川に遷ったのだろう。敦賀は「ツヌガ」が語源で津の沼河と読め、沼河比賣は高志の姫である。

事代主は初代の神倭王、後に天皇と呼ばれる人物の義父である。事代主の子の鞴五十鈴が天皇、天日方奇日方が食國大夫になり、事代主の妹の高照大神の神託を伝える。この高照光姫大神が天照大御神である。鳥浜がある照国の神が高島へ、そして、野洲の伊勢遺跡に分祀された。この分祀された、天照大御神を現代の伊勢神宮に遷して今に至っている。高照光姫を祀った政権が始まった時が紀元前660年である。

2024年7月5日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神7

  出雲での大きな戦いは、小之凝呂別の治世の末に始まり、阿遲鍬高日子根の子の代に終わった。おそらく、天菩比の天降りから阿遲鍬高日子根の子の奈賀命が隠岐王になって戦いは終わったのだろう。天若日子は阿遲鍬高日子根の妹である下照比賣を妃にした天津國玉の神子で、天降った若狭の国王だ。「天津國玉」の「玉」は王を意味し、「唯の津」は対馬を意味する。つまり、この頃は天が琵琶湖を意味した可能性がある。

若狭には若彦神社がなく、代わりにあるのは若狭比古神社だが、若狭比古は史書に記述されてない。穗穗手見を祀るとの由緒があるが、有名な穗穗手見の名を変える理由はなく、穗穗手見神社でよいはずだ。『舊事本紀』には神武天皇が彦火火出見と記述され、幼名が狭野尊とされている。すなわち、『舊事本紀』の神武天皇は若(狭野)比古と考えられる。若狭比古神社は『舊事本紀』の神武天皇の神社だったのである。

天若日子の妃である下照比賣について、『日本書紀』では「顯國玉之女子」、『古事記』では「大國主神之女」、『舊事本紀』では「大國玉神女」と記されている。また、「大己貴神・・・兒味鉏高彦根神・・・妹下照姫」ともある。宇都志國玉の「顯國」は「うつし」国、すなわち、大津の師岐王であり、宇迦能山の山本に宮柱を建てて朝廷を開いた国だ。宇迦は宇(治の河)神を意味する。大人様は宇都須山祇を祀る人物で、顯國玉の子であったと考えられる。

大己貴が顯國玉の祖であり、その後、大國玉、さらに大國主へと変化していったのだろう。大人国は大国・顯国・但馬国を含み、大人國王は宇治神の神子であったと考えられる。

「大國玉」は大国王を意味し、大国王は食国「周饒國」の配下になって「大国主」と賜姓された。下照姫の父は大己貴である。「大國主」は胸形の神を祀る多紀理毘賣に婿入りした。「大己貴」は大国神と胸形神を習合させた神だ。己貴が大国に分家を造り、大己貴となり、子が阿遅鋤高日子根と高比賣、またの名が下光比賣である。

2024年7月3日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神6

  天照国照彦天火明櫛玉饒速日は、2つの名前を繋げたもののようだ。天照国照彦天火明が天降りして照国(鳥浜)の王となった火明と櫛玉饒速日が櫛王の饒速日だ。火明は尾張連の始祖であり、饒速日は物部氏の祖だ。また、別名として胆杵磯丹杵穂命があり、壱岐と伊襲、二岐の穂、岬に住んだ人物のようだ。饒速日の家系は火明の家系と姻戚関係になって、これらを習合させたのだろう。『三國志』の大倭王が物部氏の王であり、一大率として伊都と壱岐を支配下に置いていたことを示している。別名は史書を記述した時に後から付けられた名前なので、世代が異なっても矛盾はしない。

饒速日は加須屋大海祇と共に速日国から二岐に天降った人物であり、櫛王になったと考えられる。櫛は後に天日方奇日方が朝廷を開いた場所で、三国にある。そして、分家が隠岐王の美豆別之主酢命であり、三国の津からの分家だ。美豆別之主が没落し、二岐に住む宇摩志麻治が大人国の実力者になったと考えられる。本来の名は味間見、馬島神で、志麻治は連が邑治()、その初型で島霊なのだろう。縄張りを島と呼ぶことがある。隠岐が於母島、於州国で、岐や島は国と同じ意味を持ち、志麻治は邑長の意味だろう。

馬津は美津、美浜の久々子(クグシ)湖、久久の邑の神の娘に婿入りした分家だと考えられる。敦賀と美浜町の境に馬背峠・馬坂峠があり、美浜は、ウマハマが起源ではないかと思われる。馬浜が美浜に変化したのは、三国王の天日方奇日方の支配下になったためだろう。三浜や神浜という名前でも良いが、「ウマ」と読める美を使ったのかもしれない。

そして、宇摩志麻治は大神を祀り、「食國政大夫」となった。食國は隠岐で、奈神の黄泉津大神を祀る国であり、月讀が任されていた。宇摩志麻治は美豆別之主の後継者で、奈賀命の最有力の家臣だ。「周饒國」は王の武力の象徴である剣を帯びない。それに対して、霊剣を持ち、大神を祀る帯剣の物部氏がいた。

2024年7月1日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神5

  出雲で大きな戦いが起こり、阿遲鍬高日子根の子である奈賀命が隠岐の王になった。隠岐「周饒国」は武力ではなく、大国と三国の力を背景に、婚姻と賜姓による統治に戻った。そして、その出雲の戦乱から逃れる際に、武日照が神宝を持って逃れたようだ。

前王の美豆別之主は主栖に移住し、祖神は分祀されて久米部の祖神として奈岐の浦に祀られた。そして、大国主や武日照は大国から追い出され、島根県の出雲や丹波亀岡に逃れた。祖神の大山祇の名を冠した大山は、大山が大山祇のシンボルならば、出雲の大山祇ではなく出雲山祇とされるべきだ。大山(ダイセン)は漢字が入ってからの命名である。

「宇都須山祇」は良く知っている具体的な国名が付加されていない。他に出雲を付加される神は鞍山祇のみであり、大邑と鞍邑が若狭にあり有名であった。そのため、『伊未自由来記』の作者は現代の出雲にこれらの神が存在していたと考え、出雲を付加したのだと考えられる。

於母の島の神と思われる淤加美の娘には、建比良鳥と関係がありそうな比那良志毘賣が存在し、甕主日子の妃だ。『舊事本紀』によると、建甕槌は天尾羽張神、別名甕速日神の子であり、その後裔と考えられる。

伊邪那美が葬られた比婆の山は、伯伎と出雲の境にあった。『山海經』の時代には、伯伎と思われる𨲠丘の隣国は大人国であり、因幡や但馬はまだ国として存在せず、伯伎に含まれていた。比那良志毘賣は比婆の山がある地域の毘賣だと思われる。「ラ」や「ル」は状態変化を示す助詞で、「天降る」は天から移住することを意味する。尾羽張は伊邪那岐の出身地である多賀から伯伎に来たことを示しているのだろう。

甕速日は名から加須屋大海祇と三国神が習合した神だと考えられる。建甕槌之男の別名である建布都神は、大国主に国譲りをさせた神で、その韴霊で神武天皇が勝利したとされている。

日名照額田毘道男伊許知迩の曾孫が比那良志毘賣の夫である甕主日子だ。そして、建甕槌は出雲臣の娘、沙麻奈姫の子なので、建甕槌も出雲臣の家系、そしてその子である豊御氣主と引き継がれた。つまり、日名照額田毘道男伊許知迩の曾孫が比那良志毘賣の夫である甕主日子であり、甕を名乗る家系がこの時に武日照(夷鳥)との家系と交錯した。照(鳥浜)という地域、甕(三方)という地域、そして出雲の鞍(倉見・闇見)が同一地域にあることがわかる。