迦具土は火の神、迦は火の意味と思われた。日本では火は「ヒ」と言う。すなわち、迦具土は中国人が火(カ)具と呼んだ神の可能性が高く、帝俊は禺號を生んでいる。禺は「yú」、具は「jù」と発音は似ている。帝俊は六合の地を行き交う聖人だった。日本人は聖を肥後(ヒジリ)と訓読みした。肥後は阿蘇山や雲仙が有る火山の国、火を生む火の神の国である。肥は建日・向日・豐の久士(九州)三身国を生んだ国で、その肥は肥後を含む国、その地を含む三身國を生んだのが帝俊である。そして、三身國を統治したと思われる白日別、すなわち(依り)代が有った丈夫國、「衣冠帶劍」と、その地域の国を纏めた国だ。「三身國」の北方(東北方)の胸形の多紀理毘賣の国だろう。その南西に、「居兩水閒」の「女祭」、半島だから、海の中道の有る場所である。加須屋の大神祇の故郷だろう。
迦具土は、畿内では夜藝速男と同一とされた。夜藝は野洲の土地神であり、速男は関門海峡の神で、速国から野洲に来て合祀された神である。沖津久斯山祇は、加須屋の大神(海)祇の力を借りて、隠岐を統治した。速国は日別であり対馬の分国で、対馬の月讀が「所知夜之食國」として食国を任された。そして、加須屋の海祇が上・中・底津の綿上津見の三柱を生んだ神なのだろう。津見・祇は、唯の津の神を意味し、対馬出身の神である。
伊邪那美は黄泉津大神と名を変えた。この変更は、伊邪那美の説話が対馬の夜神の月讀に置き換わったことを示唆している。もともと、伊邪那美と伊邪那岐の神話の前には、黄泉津神の神話が存在していた。伊邪那美が黄泉津神であるなら、伊邪那岐は夜藝速男なのだろう。『古事記』の大宜都比賣(大氣都比賣)と『日本書紀』の月讀(月黄泉)には保食の神の相対する説話がある。そして、帶劍の丈夫國の迦具土から生まれた建布都の劔で建国されたのが大国だと思われる。迦具土が帝俊と想定すれば、アカホヤで帝俊の祖神は死んだが、天民国に行っていた帝俊が災難を共に免れた対馬の日国の娥皇と三身国を生んだと考えられる。アカホヤの前も後も同種の土器が存在し、九州の縄文人は絶滅しなかった。
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