2024年5月20日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神生み2

  海士は当然、津で漁をして津の神、つまり祇を祀る。野では智()が木を祀る。智は木を切って津に運び、木根を祀る津智(椎)と呼ばれる。竹を束ねた筏を参考に、木根を束ねた筏になり、津美と交流して筏で漁をする。筏は淵の根で舟と呼ぶ。「番禺是始為舟」とは、番禺が初めて木の筏を造ったことを意味するのだろう。大人国は舟を削るのだから、削らない番禺は結ぶだけなのだろう。

また、『大荒北經』に「帝俊竹林在焉大可為舟竹南有赤澤水名曰封淵」とあるように、帝俊が竹で筏を造って浮かべた場所が淵である。竹は寒冷地には自生しないため、温暖な時代でもオホーツク海の南辺りが淵と考えられる。帝俊は舟が無い時代から存在し、初めて竹の筏を造った。

帝俊の行動範囲を考えると、丸木舟なしでは移動できず、帝俊は長く続いた王家であったと考えられる。竹の筏は淵に浮かべたというように、橋代わりである。木の筏では海流を渡れないため、遭難して、一本の木の舵の効き具合を知り、丸木舟を創った。そして、若狭の大人国で丸木船が量産され、交易で市を開いた。『大荒北經』には肅慎氏之国の近辺に大人之国の分国があると記述されている。これは国引き神話の「北門良波乃国」のことだろう。ここが封淵なのだろうか。しかも、帝俊が生んだ三身国の綱が武器、舟を繋いでおく道具である。

筏では海流を渡れないので、沿岸を航行し、海流に流されて筏がばらばらに、一本の木にしがみついて助かったことから、木を木場で寝かせて舟を造ることを思いついたのだろう。これは自然なことだ。筏も、木や竹が浮かぶ様子を見て使ったことは、十分想像でき、束ねて筏に変化した可能性がある。そして、鹿児島県には舟を造る道具の丸のみ石斧があった。

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