加須屋の大神祇の祖である加須屋の神が但馬に分祀された際には「大神祇」、隠岐に分祀された際には「大海祇」と呼ばれた。筑紫の伊邪那伎、つまり火之迦具土(河神木津霊)は帝俊ではなく、「伎」であるため、土地神や女神の娥皇であると考えられる。そして、海津美が火之炫毘古の帝俊であると考えられる。
衝立船戸は、対馬の神と常立の神が習合した港の神であると思われる。海の中道から隠岐への中継点である長乳齒(長門の神)、そして時量師は博多の港(門岐)の神(氏)と思われる。景行天皇は、襲の国の姫である御刀媛を妃とし、日向国造の祖である豊国別を生んだ。「ミハカシ」も博多の神と考えられる。
和豆良比能宇斯と飽咋之宇斯の「宇斯」は、『日本書紀』が「大背飯三熊之大人」の「大人」という文字を「ウシ」に充てたその「ウシ」だ。これは「大人國」の神だからなのだろう。「大人之市」はシナ海にあった。また、「大荒東經」には「東海之外大荒之中」、すなわち黄海と太平洋東岸の間の瀬戸内にもあった。大人国の交易の場が六合で黄海の倭と安芸に大人国の市があった。すなわち、「和豆良比」は倭人の島の津神で、「良比」は中国語でおおらかの「磊(Lěi)」を意味する。「飽咋」は安芸の神だと思われる。
倭は「海内東經」に記述されており、「倭屬燕」とあるように、倭は燕に支配されていた五島列島や済州島、全羅南道の島々のことを指しているのだろう。三身國は白(速)・豊・建の熊襲の国のことだ。日本海の速、瀬戸内の安芸を含む豊、そして熊襲の倭奴を指す。
道俣は海の道が分かれる場所で、豊後半島に真玉があり、俣の間のことだろう。奥疎は隠岐に去った神、大海祇のことかもしれない。奥津那藝佐毘古は、速国・長門から隠岐へ渡った奈岐の佐之男の佐毘古を指しているのだろう。
奧津甲斐辨羅の「甲斐辨羅」については不明だ。しかし、港に関係する「かひ」という言葉は、「槁根津日子」が「渡槁機引」として使ったように、船頭が枯れた木の幹を加工した櫂で舟を漕ぐその櫂を指しているのかもしれない。
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