2024年5月15日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 黄泉の神

  火之夜藝速男の神生みの後に伊邪那美が神避り、伊邪那岐は伊邪那美が居る黄泉国に向かった。黄泉の国は月讀のことを津岐の黄泉と考えられるように、対馬海流で水葬の遺骸が流れ着く場所であり、それが対馬の上県であると考えられる。月讀は食国すなわち隠岐を伊邪那岐に任された。また、古代人は死後、生まれた場所に戻したと言われており、この伊邪那美は対馬の出身の神を示唆して、月読との関連が良く合う。月讀が任された隠岐や比婆の山の出雲にも、於漏知が侵略した。その於漏知と戦った人物には沖津久須山祇や大人様が含まれた。

黄泉津大神とされる伊邪那美から、八雷が生まれた。それは大雷、火雷、黒雷、拆雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷である。雷は井川の津霊と考えられ、意富臣の祖の神八井耳と関連がある。これは敦賀の皇大神宮がある地域を守る霊であり、八岐の大蛇とも結びつく。於漏知は美豆別之主によって温和化され、高志・丹波・竹野・出雲との交通も促進された。美豆別之主は三国の津から来島した王であり、於漏知はその配下だったと思われる。美豆別之主は大国の領域を拡大した八束水臣津野命と思われ、大国主の祖であると考えられる。

大雷は大国、火雷は日野川、黒雷は敦賀の黒河川、拆雷は美浜町の佐支神社、若雷は小浜の和久里と関連付けられる。土雷は八束水臣の出身地の霊で、安土(吾の椎)の可能性がある。鳴雷は八島牟遅と鳥耳の子が鳥鳴海、野洲の王と鳥浜の姫の子が生まれた場所、または大飯郡の成海の霊だ。伏雷は長浜にある布勢立石神社と関連付けられる。一般的に、地名は古く縄文時代から続いていると考えられ、内陸には崎や津や島の地名が残っている。木津は石器時代には海であり、縄文の神話時代には、巨椋池に流れ込む木津(久津)川河口が木津(久津)と呼ばれていた可能性がある。また、神話時代には奈良湖が木津に迫り、奈良湖の中に現代の磯城が有った。師木は奈良湖の退潮と共に琵琶湖岸から人と共に移動したと考えられる。

そして黄泉軍を追い払ったのは桃子の意富加牟豆美、つまり、沖津久斯山祇の支援者の流宮の加須屋の大神祇だった。大神祇は伊邪那岐に宇都志伎の人を助けるよう命じられた。宇都志伎は大津の志木のことで、宇都須山祇を助けるように頼まれたようだ。大神祇の隠岐への分祀は大海祇と呼ばれていたようだ。

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