2024年5月3日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神の死

  神である伊邪那美は死んでしまい、比婆の山に埋葬されたとされる。しかし、伊邪那岐は死なず、「伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也」と多賀で祀られた。神は祀られるものであり、葬られることはない。伊邪那美が埋葬されたことは、彼女を祀っていた王朝が滅んだことを意味する。一方、伊邪那岐の王朝は意祁王の時代まで続き、彼を男性として扱い、大臣家の男系が続いたと主張されている。孝昭や孝安、垂仁、仁徳なども、王朝交代で埋葬された。80年以上在位する人物はいないため、それは自然なことである。

さらに、伊邪那美以外にもう1柱の死んだ神が存在する。それは、於母島の東後の奈岐の浦に最初に祀られた於佐の神であり、海賊に殺された。その後に、出雲の鞍山祇之大神の御子である沖津久斯山祇が、小之凝呂島の神として現れ、その娘である神比奈真乳姫とその子である比奈真岐も共に三つ子の島の比奈の地に祀られたが、彼らには死んだという記述はない。つまり、伊邪那美の死は奈岐の浦の於佐神(於佐奈美)の王朝の滅亡を示す可能性が高く、後裔に祀られることなく、於佐奈神の妃の出身地である比婆の山に葬られたと考えられる。比奈真乳は舞鶴の土地神の霊を意味する。

周饒国では、於佐神が速国から来航して王朝を築いたが、やがて出雲の大山祇によって殺害された。その後、出雲の鞍山祇之大神の御子である沖津久斯山祇は比婆の後裔の比奈の娘を妃に迎え、彼女とその子孫が王朝を継承したことがわかる。これは日本の王朝交代の原型であり、征服した地域の姫を妃に迎え、その子孫が王朝を継承するというパターンだ。

征服者は征服地では人数が少なく、統治が難しいが、その土地の姫の子が継ぐと安定し、武力は必要ない。『山海経』によれば、150以上の種族が日本で共存していたことがわかる。そして、於佐奈神(美)の死は周饒国が実質的に大人国の支配下に入ったことを示している。中国人がdàn rén(但人)の大人(dà rén)国と言い、日本人は「意富」国に大国の文字を使った。

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