2024年5月31日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部神・天祖の狹霧尊の子達2

天八下は野洲に分祀され、天三降は三国に分祀された神と思われる。そして、三(国)と八(国)を「あわせて」合祀した天合、淡海道で祀られた神だろう。合と似た発音の愛を使った宿場に愛知(エチ)川宿があり、愛知川が有る。八百日は八国の兵士たちであり、「お」は尾、後ろに付いてくる兵士を意味するのだろう。八十萬魂は十人の八国将軍を意味すると思われる。魂は玉や王を意味し、萬神、つまり野洲の神十柱が寄り合い、その王の王が高御産巣日なのだろう。滋賀県には老上という地名があり、萬は寄る津、つまり軍港に集まる神を意味するのだろう。

八十は八十梟帥、例えば磯城八十梟帥や赤銅八十梟帥などがいる。これは、大将がたくさんいるのではなく、八十梟帥という将軍の官位を意味する八国の大将で、十の軍隊があったのだろう。八岐大蛇は八の頭、将軍に率いられたのだから、国は2軍で守ったのだろう。

高御産巣日は宗像の日国神の分祀と高島の神を合祀した神で、その神子の思金が仕切った。高御産巣日の祖の産巣日の神々は、対馬昼ヶ浦の洲の日神が速日別の宗像に分祀された。宗像から同時に、和久産巣日が若狭に、神産巣日が敦賀に、高御産巣日が高島に分祀されたと考えられる。

神産巣日の御祖は、大氣都比賣が持参した種を栽培した神だ。この神産巣日の御祖が和久産巣日であり、後に記述されたと考える。神産巣日が三国、高御産巣日が高島の神に合祀されたと考えられ、元々住んでいた国神がいたから地名が付加できる。神の名は地名が先で、逆ではない。

現代でも、若国である若狭と三国の敦賀を二州と呼ぶそうだ。二州は、二国・二岐(饒)を意味し、これは偶然なのか。木製の戸しか無いのに木戸と昔から呼ばれた。木根を祀る入口だから木戸だろう。言葉や神の歴史は人が集団生活を始めた時が最初、地名説話はこじつけで、地名は人が住むときが始まりで元々有った地名で、それを持ち運んだ。

2024年5月29日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部神・天祖の狹霧尊の子達1

  『舊事本紀』によると、饒速日が天から降ってくるときに渡された「天璽瑞宝」が10種類あった。それは、贏都鏡、邊都鏡、八握劔、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇此禮、蜂此禮、品物此禮だ。これらは、隠岐の贏津鏡、胸形の邊津鏡、野洲の剣、活玉依姫のいた三方の玉など、各地の国々の王の璽だったと考えられる。足玉は統治の象徴である帯玉、蛇は将軍を意味し、此禮は旗印、蜂は兵士、品物は兵站を意味する印だったのだろう。

饒速日の母は栲幡千千姫であり、隠岐の三つ子の島にある焼火山の姫、大人様を祀る姫だったと考えられる。大人様は宇都須山祇の子であり、宇都須山祇は大海祇から分祀された神だ。また、高皇産霊も名前から考えて、宗像の産霊神が高島に分祀された神のようだ。饒速日は天津神の対馬の神の美豆別之主の王朝の子と考えられ、美豆別は久米部・綾部・工部・玉造部の民を率いて大人様の後を継いだ。饒速日の「天璽瑞宝」は率いた氏族の王の璽なのだろう。

勝速日天之忍穂耳は狭霧から生まれた饒速日の祖神が祀られる対馬から来た速日別の子孫であると考えられる。物部氏の祖である饒速日の祖神は、天祖天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊と考えられる。『舊事本紀』が物部氏の歴史書であり、最初に登場する神であることから当然のことだ。この神は伊弉諾・伊弉冉が瑞穂の地を治めるよう詔勅した。天祖天譲日天狭霧は、天神の流れを汲む神で、その天神日神を祀る昼ヶ浦を譲り受けた。そして、月国を継承して合祀した月国の対馬の狭霧である。

2024年5月27日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 流れ宮の神3

  神直毘と大直毘は「禍を直す」という意味で、「なほび」と訓読されているが、他の例では「直」の使われ方が異なる。例えば、「詔雖直猶其悪態不止」、「朝日之直刺國」、「從徒手直取」、「天皇置直幸女鳥」、「日下之直越道幸行」、「故巳直参上」の文が、使われている全てである。しかし、直接命令したのであり命令を変えていない、朝日は直接刺さっているのであって、刺さらないようにしていない、徒手で直接取っているのであって、手を治療していない。また、直接言っているのであって、何も直していない、直接越えて行っただけ、直接参上しただけである。

これらの例では、「直」は「直接」という意味で使われており、矛盾が生じている。したがって、「直」は「直接(ジカ)」の意味であり、禍を「ただした」と読むべきである。つまり、「ただび」と読むのが正しいだろう。

朝日之直刺國」の神が大直毘であり、神直毘は分祀されて直刺國に来たペアの神だろう。小浜には多田があり、若狭彦と若狭姫の神社がある。ここは狭州国で、天若日子が来た場所だ。天若日子の妃は下照比賣で、後に稚國玉や若国王と呼ばれている。小浜は「出雲國之多藝志之小濱」と記述され、「底津石根宮柱」として朝廷が開かれた場所である。

美豆別之主は饒速日と考えられた。彼は天津神の神子であり、大海祇の神子とも考えられる。美豆別之主は小之凝呂島を奈岐命から譲り受け、奈岐浦命と呼ばれた。奈岐浦命は海部首であり、さらに安曇首とも呼ばれた。つまり、彼は王ではなく、美豆臣安曇首だった。美豆臣は速日別や加須屋の大神祇との関連をうかがわせる。

饒速日の後裔には出石心がいて、父の彦湯支の妃が久流久美の娘だった。丹波の久美浜町には出角があり、伊豆志彌神社がある。伊豆志彌は伊豆邑神の意味で、直毘と同時に伊豆能賣を生んでいる。

その後、三柱の綿津見を生み、安曇連の祖神として筑紫斯香宮で祀られている。なお、安曇連は仁徳天皇の時代に賜姓され、日臣と共に大和に入ったようだ。箇之男の「墨江之三前大神」も宇佐の住江を指すのだろうか。

2024年5月24日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 流れ宮の神2

  『神異經』に「東方荒外有豫章焉此樹主九州」と、太平洋と日本海の接点に九州があると述べる。「東方有人焉」と九州に住む人物は,「男皆朱衣縞帶元冠」と冠をかぶっている。ところが、『舊唐書』に、倭国は「佩銀」で「明貴賤等級」と、簪で貴賤を表し、冠は無かった。日本国は「冠進徳冠其頂」と、冠をかぶった。『日本書紀』の冠の初出は、熊襲建から名を賜ったと思われる倭武の冠を墓に収めた。次は雄略紀、雄略天皇は日向の出身の王朝である。『古事記』には、これ以降に記述されない。

その冠から生まれたのが飽咋之宇斯である。周饒國は帯冠の国だった。王の象徴の杖から衝立船戸が生まれた。義均が定めた九州の丈夫國の速国の説話と考えられる。衝立船戸が三身國を生んだ聖人の帝俊の曾孫の番禺なのだろうか。衝立船戸は対馬や常立を行き交った神だろう。帝俊は「大荒西經」の「常羲」、東南海の外の太平洋につながる瀬戸内の「羲和」と、幾つもの地域に住み、妃がいた。

伊邪那伎は日向ケ浦から中瀬、宮津の中津の瀬で八十禍津日、大禍津日を生む。穢繁國の神なので、「奢比之尸」、比婆の山で生まれた大日孁貴なのだろう。三柱の神生みに二柱は奇異であって、八十禍津日と大禍津日と大日孁貴の三柱が生まれたと考えられる。野洲と大国と宗像の神である。宇都須山祇山祇、出雲の大山祇、流宮加須屋大海祇だろうか。宇都須山祇の願いで大海祇が軍を出し、出雲の大山祇の娘を妃に、大人様は出兵した。すなわち、流宮加須屋の海祇が分祀された大海祇と伊邪那伎の子達がこの三柱だろう。日向(ヒル)ヶ浦の神、小浜の松ヶ崎の神、野洲の対岸の真野浜の神だろうか。

2024年5月22日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 流れ宮の神1

加須屋の大神祇の祖である加須屋の神が但馬に分祀された際には「大神祇」、隠岐に分祀された際には「大海祇」と呼ばれた。筑紫の伊邪那伎、つまり火之迦具土(河神木津霊)は帝俊ではなく、「伎」であるため、土地神や女神の娥皇であると考えられる。そして、海津美が火之炫毘古の帝俊であると考えられる。

衝立船戸は、対馬の神と常立の神が習合した港の神であると思われる。海の中道から隠岐への中継点である長乳齒(長門の神)、そして時量師は博多の港(門岐)の神(氏)と思われる。景行天皇は、襲の国の姫である御刀媛を妃とし、日向国造の祖である豊国別を生んだ。「ミハカシ」も博多の神と考えられる。

和豆良比能宇斯と飽咋之宇斯の「宇斯」は、『日本書紀』が「大背飯三熊之大人」の「大人」という文字を「ウシ」に充てたその「ウシ」だ。これは「大人國」の神だからなのだろう。「大人之市」はシナ海にあった。また、「大荒東經」には「東海之外大荒之中」、すなわち黄海と太平洋東岸の間の瀬戸内にもあった。大人国の交易の場が六合で黄海の倭と安芸に大人国の市があった。すなわち、「和豆良比」は倭人の島の津神で、「良比」は中国語でおおらかの「磊(Lěi)」を意味する。「飽咋」は安芸の神だと思われる。

倭は「海内東經」に記述されており、「倭屬燕」とあるように、倭は燕に支配されていた五島列島や済州島、全羅南道の島々のことを指しているのだろう。三身國は白()・豊・建の熊襲の国のことだ。日本海の速、瀬戸内の安芸を含む豊、そして熊襲の倭奴を指す。

道俣は海の道が分かれる場所で、豊後半島に真玉があり、俣の間のことだろう。奥疎は隠岐に去った神、大海祇のことかもしれない。奥津那藝佐毘古は、速国・長門から隠岐へ渡った奈岐の佐之男の佐毘古を指しているのだろう。

奧津甲斐辨羅の「甲斐辨羅」については不明だ。しかし、港に関係する「かひ」という言葉は、「槁根津日子」が「渡槁機引」として使ったように、船頭が枯れた木の幹を加工した櫂で舟を漕ぐその櫂を指しているのかもしれない。

2024年5月20日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神生み2

  海士は当然、津で漁をして津の神、つまり祇を祀る。野では智()が木を祀る。智は木を切って津に運び、木根を祀る津智(椎)と呼ばれる。竹を束ねた筏を参考に、木根を束ねた筏になり、津美と交流して筏で漁をする。筏は淵の根で舟と呼ぶ。「番禺是始為舟」とは、番禺が初めて木の筏を造ったことを意味するのだろう。大人国は舟を削るのだから、削らない番禺は結ぶだけなのだろう。

また、『大荒北經』に「帝俊竹林在焉大可為舟竹南有赤澤水名曰封淵」とあるように、帝俊が竹で筏を造って浮かべた場所が淵である。竹は寒冷地には自生しないため、温暖な時代でもオホーツク海の南辺りが淵と考えられる。帝俊は舟が無い時代から存在し、初めて竹の筏を造った。

帝俊の行動範囲を考えると、丸木舟なしでは移動できず、帝俊は長く続いた王家であったと考えられる。竹の筏は淵に浮かべたというように、橋代わりである。木の筏では海流を渡れないため、遭難して、一本の木の舵の効き具合を知り、丸木舟を創った。そして、若狭の大人国で丸木船が量産され、交易で市を開いた。『大荒北經』には肅慎氏之国の近辺に大人之国の分国があると記述されている。これは国引き神話の「北門良波乃国」のことだろう。ここが封淵なのだろうか。しかも、帝俊が生んだ三身国の綱が武器、舟を繋いでおく道具である。

筏では海流を渡れないので、沿岸を航行し、海流に流されて筏がばらばらに、一本の木にしがみついて助かったことから、木を木場で寝かせて舟を造ることを思いついたのだろう。これは自然なことだ。筏も、木や竹が浮かぶ様子を見て使ったことは、十分想像でき、束ねて筏に変化した可能性がある。そして、鹿児島県には舟を造る道具の丸のみ石斧があった。

2024年5月17日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神生み1

  木葉比等は木神、鬼道ではなく木道、木国の神を祀る人と考えられた。『古事記』の記述者は、木神を「久久能智」と理解し、その後に山の神、次に野の神が生まれたとしている。しかし、本来は水を生む山の神が最初で次が河、その次に野の神、最後に木の神の順序であったと考えられる。

そのため、『古事記』では、木神ではなく、山と野の神が八神を生み、古い形の神名として名も「津神の土」の狹土、「流木の神の霧」の狹霧、「門の神の戸」の闇戸、「戸の女」の大戸惑女、「戸の子」の大戸惑子が生まれた。そして、後に「鹿屋野比賣」「久久能智」という名前が追加されたが、これらはおそらく河神の「カミ」を祀る津にある野と山神の「ヤマ」を意味しているのだろう。

追加された神々である鹿屋野比賣と久久能智は、どちらも九州の神だ。昼ヶ浦の日女を祀る人々が、野洲(ヤス)ではなく野(ノ)の国の野智(ノチ)を日女と考え、野の国の人々が野比賣を祀ったことを示す。海の神である津見の日女を祀った港神の津日子が天降り、その到着地の津に定住した神が津日女で、その場所は風神の志那都比古の国であり、志賀島の国の那珂川の津で日女を祀る日子の国と記述している。ここは、加須屋の大神祇の出身地でもある。

九州は帝俊の子である義均が定め、その支配地を「奴()」、つまり日本語で「それ」の「襲」と呼んだ。「奴()」も日本語の「主」の「ヌ」かも知れず、倭奴国は「その倭種の国」の久魔()国の九州を意味するのだろう。鹿屋は「鹿文」で「熊襲之渠帥」とあり、熊襲王を意味する。熊襲国王である熊襲姫が鹿屋野比賣である。

また、久久能智の「久」も中国語では“jiǔ”と読み、九州は中国語で“jiǔzhōu”と言う。九州には久住川があり、中国語読みで“jiǔ zhù”川となる。狗奴国王は狗古智卑狗であり、これは偶然とは思えない。『三国志』には「鬼奴国」があり、木(神)之鬼奴智を久久能智に当てた可能性がある。現代の中国語と周や漢の中国語と発音は異なるかもしれないが、久住と九州が似た発音であることは変わらないだろう。

2024年5月15日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 黄泉の神

  火之夜藝速男の神生みの後に伊邪那美が神避り、伊邪那岐は伊邪那美が居る黄泉国に向かった。黄泉の国は月讀のことを津岐の黄泉と考えられるように、対馬海流で水葬の遺骸が流れ着く場所であり、それが対馬の上県であると考えられる。月讀は食国すなわち隠岐を伊邪那岐に任された。また、古代人は死後、生まれた場所に戻したと言われており、この伊邪那美は対馬の出身の神を示唆して、月読との関連が良く合う。月讀が任された隠岐や比婆の山の出雲にも、於漏知が侵略した。その於漏知と戦った人物には沖津久須山祇や大人様が含まれた。

黄泉津大神とされる伊邪那美から、八雷が生まれた。それは大雷、火雷、黒雷、拆雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷である。雷は井川の津霊と考えられ、意富臣の祖の神八井耳と関連がある。これは敦賀の皇大神宮がある地域を守る霊であり、八岐の大蛇とも結びつく。於漏知は美豆別之主によって温和化され、高志・丹波・竹野・出雲との交通も促進された。美豆別之主は三国の津から来島した王であり、於漏知はその配下だったと思われる。美豆別之主は大国の領域を拡大した八束水臣津野命と思われ、大国主の祖であると考えられる。

大雷は大国、火雷は日野川、黒雷は敦賀の黒河川、拆雷は美浜町の佐支神社、若雷は小浜の和久里と関連付けられる。土雷は八束水臣の出身地の霊で、安土(吾の椎)の可能性がある。鳴雷は八島牟遅と鳥耳の子が鳥鳴海、野洲の王と鳥浜の姫の子が生まれた場所、または大飯郡の成海の霊だ。伏雷は長浜にある布勢立石神社と関連付けられる。一般的に、地名は古く縄文時代から続いていると考えられ、内陸には崎や津や島の地名が残っている。木津は石器時代には海であり、縄文の神話時代には、巨椋池に流れ込む木津(久津)川河口が木津(久津)と呼ばれていた可能性がある。また、神話時代には奈良湖が木津に迫り、奈良湖の中に現代の磯城が有った。師木は奈良湖の退潮と共に琵琶湖岸から人と共に移動したと考えられる。

そして黄泉軍を追い払ったのは桃子の意富加牟豆美、つまり、沖津久斯山祇の支援者の流宮の加須屋の大神祇だった。大神祇は伊邪那岐に宇都志伎の人を助けるよう命じられた。宇都志伎は大津の志木のことで、宇都須山祇を助けるように頼まれたようだ。大神祇の隠岐への分祀は大海祇と呼ばれていたようだ。

2024年5月13日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 伊邪那美の神生み

  火之夜藝速男が生まれた際、伊邪那美は神避かりし、出雲と伯伎との境にある比婆の山に埋葬された。大人国の南は𨲠丘であり、北の経ヶ岬近辺は奢比之尸と呼ばれていた。その北側が君子国で、大人国は久美浜から若狭辺りまでの地域を指す。出雲は小浜の内外海半島から大島半島、舞鶴の大浦半島あたりに位置し、大人国の領域内に含まれていた。つまり、砂丘は但馬に含まれ、神話では出雲と但馬の境になったと考えられる。奢比之尸と屍の地、比婆の山は伊邪那美の墓という点で類似しており、伊邪那美の出身地が伊根であった可能性が高いと考えられる。そして、この伊根で生まれたのが流宮の加須屋の大神祇から生まれた神であると思われる。

石拆や根拆は奢比の分国と思われ、岩ヶ鼻や岩屋、立岩、岩間などが伊根の周辺にあり、温泉も多く存在する。甕速日や樋速日、建御雷之男もこの近辺で生まれたと考えられる。建御雷之男は出雲の神であり、建甕槌が高島にいる出雲臣の娘の子であることからも分かる。同様に、樋速日は美浜の日向、甕速日も建甕槌が生まれた地域の三国の川の神だと思われる。美浜の耳川の神だろうか。闇淤加美は出雲の鞍山祇の子の沖津久斯山祇と考えられる。闇御津羽は彌都波能賣と同じ地域ハス川の神だろうか。次に、8柱の山津見だが、正鹿山上津見の正鹿は朝来にある当勝神社と関連があると思われる。創建は奈良時代に遡り、『古事記』の正鹿を基にしていると思われる。

游縢山津見や奥山上津見は隠岐の神、闇山津見は出雲氏の神、志藝山津見は師木の神と思われる。羽山津見は大年神の子の羽山戸神が存在する。大年神は大山祇の娘である神大市姫の子であり、三国と野洲()の間の野洲の端の地域に関連しているかもしれない。原山津見と戸山津見は特定の原や戸の国名がない山津見であり、野洲の近辺に原や戸()があったと思われる。伊邪那岐が居た多賀周辺には山田神社や山津照神社が存在している。湖の山津見が山椎(津霊)と出会った場所を指しているのだろう。八国野洲の火之夜藝速男が生んだ、すなわち、野洲の分国で、宇都須山祇が大人様を生んだのも火之夜藝速男の神生みに含まれ、野洲から隠岐まで跨る世界である。

2024年5月10日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 岐神は船戸神

帝俊の子の禺號(Yú hào)と具火(jù huǒ)は音が似ている。迦具土とも考えられる禺號の孫の番禺は、「是始為舟」とあり、初めて舟を造った。帝俊は舟に乗っているから舟を造る国を支配下にしたという意味だ。日本語の最初の国は、河が二股に分かれる事を意味する州、河口だったのだろう。帝俊が生んだ三身国の中洲はピッタリだ。そこに建てた神木を祀り、船戸(船の門)、港の神(河神)が木根(宮柱)を祀る王だったため、船戸神に岐神と文字を充てた。木根は幹と考えられ舟の原料で、河の淵に舟を浮かべたのでフネと呼ばれたのだろう。日本人は於岐の奈、対馬から来た神が於の奈美、その場所に祀られた神()の宮柱を於の奈岐と呼んだ。聖人や倭人は天(海内)に住み、中国語も理解する。そして、日本語を話す六合の人々が混在していたから「ホ」と読む火の文字が生まれた。州も岐も意味は川に挟まれて出来た肥沃な場所である。

国は最初、港(船戸)の周辺の小さな地域だったが、時間が経つにつれて、河川の岸や洲、そして島が国と見なされるようになった。中国の言葉で言うところの「岐(qi)」という言葉も、日本人は中州や島と同じように理解した。そのため、六合にある島々は「伎(き)」と呼ばれた。対馬も同様で、対馬の神である月讀は津島のヨ神と呼ばれた。おそらく、済州島の常世から来て、夜の対馬を守護する存在として「夜神(ヨミ)」と呼ばれるようになった。そして、聖人たちは中国語も理解していた。三身國を生んだのは聖人の帝俊と霊と思われる彼の妻、娥皇である。娥は漢音で「が」と読み、日本の神は河の神を指す「かみ」といい、河は漢音読みで「が」となる。現代の中国人は娥を「é」、河を「」と発音し、これは日本語の「江」とよく似ている。

日本のペア神話は、女子國の二人の女王から生まれたものだろう。天と呼ばれる黄海・渤海・シナ海の国と、西の縄文文化の聖人と、東の縄文文化の八岐の於漏知が存在した。それらを繋ぐ中間地点が六合で、中心となる国は女子国だったのだろう。そこでは舟が行き交い、龍や蛇が舟の象徴とされ、舟に乗った人々は聖人と呼ばれた。聖人たちは中国語と日本語の両方を話すことができただろう。番禺が居る聖人の土地には舟作成に必要な丸のみ石斧が有った。

2024年5月8日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 夜藝速男の国生み

  迦具土は火の神、迦は火の意味と思われた。日本では火は「ヒ」と言う。すなわち、迦具土は中国人が火()具と呼んだ神の可能性が高く、帝俊は禺號を生んでいる。禺は「」、具は「」と発音は似ている。帝俊は六合の地を行き交う聖人だった。日本人は聖を肥後(ヒジリ)と訓読みした。肥後は阿蘇山や雲仙が有る火山の国、火を生む火の神の国である。肥は建日・向日・豐の久士(九州)三身国を生んだ国で、その肥は肥後を含む国、その地を含む三身國を生んだのが帝俊である。そして、三身國を統治したと思われる白日別、すなわち(依り)代が有った丈夫國、「衣冠帶劍」と、その地域の国を纏めた国だ。「三身國」の北方(東北方)の胸形の多紀理毘賣の国だろう。その南西に、「居兩水閒」の「女祭」、半島だから、海の中道の有る場所である。加須屋の大神祇の故郷だろう。

迦具土は、畿内では夜藝速男と同一とされた。夜藝は野洲の土地神であり、速男は関門海峡の神で、速国から野洲に来て合祀された神である。沖津久斯山祇は、加須屋の大神()祇の力を借りて、隠岐を統治した。速国は日別であり対馬の分国で、対馬の月讀が「所知夜之食國」として食国を任された。そして、加須屋の海祇が上・中・底津の綿上津見の三柱を生んだ神なのだろう。津見・祇は、唯の津の神を意味し、対馬出身の神である。

伊邪那美は黄泉津大神と名を変えた。この変更は、伊邪那美の説話が対馬の夜神の月讀に置き換わったことを示唆している。もともと、伊邪那美と伊邪那岐の神話の前には、黄泉津神の神話が存在していた。伊邪那美が黄泉津神であるなら、伊邪那岐は夜藝速男なのだろう。『古事記』の大宜都比賣(大氣都比賣)と『日本書紀』の月讀(月黄泉)には保食の神の相対する説話がある。そして、帶劍の丈夫國の迦具土から生まれた建布都の劔で建国されたのが大国だと思われる。迦具土が帝俊と想定すれば、アカホヤで帝俊の祖神は死んだが、天民国に行っていた帝俊が災難を共に免れた対馬の日国の娥皇と三身国を生んだと考えられる。アカホヤの前も後も同種の土器が存在し、九州の縄文人は絶滅しなかった。

2024年5月6日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 音と訓

『日本書紀』と『舊事本紀』は伊弉諾、伊弉冊が三貴子を生んだ。大日孁貴、月神、素戔鳴である。『舊事本紀』は月神を月讀と呼ぶ。しかし、『古事記』は伊邪那美死後に伊邪那岐が生んだ。すなわち、『古事記』の伊邪那美の死後の神生みは、異なる伊邪那岐の夜藝速男の神生み、夜藝速男は伊邪那美を死に至らしめた、その神の説話と考えられる。伊邪那美は外来神で、伊邪那岐が地霊の女神、夜藝速男は男神、夜藝に対して夜美、八神の八比賣が隠されている。

夜藝速男の別名は火之迦具土、この名は、漢字が輸入されてから出来た神名である。輸入される前は、火は「ヒ・ホ」で、音の「カ・フォ」とは言わなかったが、火の神の迦具土は存在した。迦具土によって火傷して伊邪那美は死んでいるので、迦を火と理解している。しかし、亦の名に火之炫毘古、眩しいのだから、日光である。漢字が入って来なければ、音と訓は始まらない。従って、夜藝速男は火の神ではなく日の神と考えられる。迦具土は木の神の久久能智と同じように「日の河木津智」の意味なのだろう。迦具土説話は火焼男や火々焼炭の説話なのだろう。

そして、隠岐や壱岐の岐を「船戸」と訓じ、港の意味を与え、港が国の入り口、顔だったのだろう。船は丸木舟で、岐()は木を祀ったことを意味し、木を祀る鬼道を行い、船は川の淵が港に、丸木が根で淵の根で船なのだろう。竺紫の日向で伊邪那岐ではなく迦具土が最初に生んだのが杖から生まれた船戸神である。伊邪那岐を祀る淡海の多賀の人物が竺紫の日向で神生みは奇妙だ。炫毘古は「カガ」毘古で河ガ、三身國を生んだ娥(ガ・é)皇のガ、中国語発音は「エ」すなわち江である。偶然だろうか。迦を火と考える、漢語を知っている帝俊と共に建国した「三身國」の話である。

縄文時代に国境はなく、『海内經』の対象地域が天であり、山東半島の天民の国の民と肥後の天草の民と、奄美群島の民が異なる民か同じ民かどちらなのだろう。どちらにしても、日本列島人は人種の坩堝、身が黑色(?黒人)、白民(?白人)、長身、侏儒その他諸々の人種が住んでいた。そこに、アカホヤ、空白となった九州に舟で外地、天民の国に居た聖の帝俊が戻り三身国を生んだのだろうか。

2024年5月3日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神の死

  神である伊邪那美は死んでしまい、比婆の山に埋葬されたとされる。しかし、伊邪那岐は死なず、「伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也」と多賀で祀られた。神は祀られるものであり、葬られることはない。伊邪那美が埋葬されたことは、彼女を祀っていた王朝が滅んだことを意味する。一方、伊邪那岐の王朝は意祁王の時代まで続き、彼を男性として扱い、大臣家の男系が続いたと主張されている。孝昭や孝安、垂仁、仁徳なども、王朝交代で埋葬された。80年以上在位する人物はいないため、それは自然なことである。

さらに、伊邪那美以外にもう1柱の死んだ神が存在する。それは、於母島の東後の奈岐の浦に最初に祀られた於佐の神であり、海賊に殺された。その後に、出雲の鞍山祇之大神の御子である沖津久斯山祇が、小之凝呂島の神として現れ、その娘である神比奈真乳姫とその子である比奈真岐も共に三つ子の島の比奈の地に祀られたが、彼らには死んだという記述はない。つまり、伊邪那美の死は奈岐の浦の於佐神(於佐奈美)の王朝の滅亡を示す可能性が高く、後裔に祀られることなく、於佐奈神の妃の出身地である比婆の山に葬られたと考えられる。比奈真乳は舞鶴の土地神の霊を意味する。

周饒国では、於佐神が速国から来航して王朝を築いたが、やがて出雲の大山祇によって殺害された。その後、出雲の鞍山祇之大神の御子である沖津久斯山祇は比婆の後裔の比奈の娘を妃に迎え、彼女とその子孫が王朝を継承したことがわかる。これは日本の王朝交代の原型であり、征服した地域の姫を妃に迎え、その子孫が王朝を継承するというパターンだ。

征服者は征服地では人数が少なく、統治が難しいが、その土地の姫の子が継ぐと安定し、武力は必要ない。『山海経』によれば、150以上の種族が日本で共存していたことがわかる。そして、於佐奈神(美)の死は周饒国が実質的に大人国の支配下に入ったことを示している。中国人がdàn rén(但人)の大人(dà rén)国と言い、日本人は「意富」国に大国の文字を使った。

2024年5月1日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 『古事記』の大人国の神生み3

唯の山野(ヤ・ノ)神は宇都須山祇の祖を生んだ野洲の神、野洲にはヤノムネ川河口に野田、日野川があり、この川上が山や野洲の神が生まれた河の神なのだろうか。子は天と国の狹土、狹霧、闇戸、そして大戸惑子と大戸惑女の8神を生んでいる。接頭語の天は婿、国が跡取りの姫である。狹土は若狭の津の神で若狭に倉見や闇見神社があり、出雲の鞍山祇大神の支配下の8神なのだろう。天狹霧は天譲日天狹霧國禪月國狹霧尊を祀る神で物部氏の祖神、出雲氏は色多利姫の子の出雲大臣が出雲臣を賜姓された。大戸は大国の港で惑は舞鶴の港、そこの神だろうか。天狹霧の娘の遠津待根の氏族には豐城入彦、豐鍬入姫の母の遠津年魚目目微比賣が居て、息長帶比賣の母も遠津臣である。出雲大臣の姓は大臣ではなく臣、周饒国の臣下の於神で大臣は大国に住んでいる臣という意味だ。

この後、伊邪那岐・伊邪那美が生んだのは鳥之石楠船、この神は小浜の久須夜神社や玖須夜ヶ嶽から若狭の岩屋そして鳥浜に遷った神の様に思われる。鳥浜からは舟が出土している。次は大宜都比賣、伊奢沙和氣大神と名を交換した氣比大神が祀られていたと思われる気比社は大山上咋、大主が祀られる日吉大社に合祀されている。大宜都(大氣都)比賣は大国主の子の羽山戸神の妃で8神を生む。次は火之夜藝速男、野洲の近くを日野川が流れ上流に日野町があり、速日国から来た神だ。次は金山毘古、金山毘賣で敦賀に金山があり、次は波迩夜須毘古、波迩夜須毘賣、高島に波尓布神社がある。次が彌都波能賣、三方にハス川が有り、次が和久産巣日、小浜に和久里がある。和久産巣日の子の豐宇氣毘賣は宇佐に分祀した神だろうか。宇佐王になった中臣氏の始祖は津産巣日と云われ、天兒屋を思わせる。

大戸日別が大山津見と思われ、大山津見は大戸惑女を生み、大戸惑子が大人様なのだろうか。大山津見の曾孫の奧津比賣の亦の名が大戸比賣、大人様の妃は大山祇の姫なので、その妃の孫が隠岐の奥津(大戸)比賣なのだろう。同じ神も、女系の目と男系の目で名が異なるのだろう。宮主の足名椎も大山津見の子で、孫の奥津比賣の兄弟が大山咋大主、大山津見が対馬から天降った経歴が示されているのだろう。神祖の先後は生まれた前後・親子・兄弟ではなく、支配・被支配の上下関係である。神は全て、人が定住した時に生まれ、同年代で前後関係は合祀・習合の時に存在し、新たな土地には分祀で名を引き継ぐ。