2022年8月31日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』応神天皇類書5

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「新羅人参渡來是以建内宿祢命引率爲渡之堤池而作百済池亦百済國主照古王以牡馬壹疋牝馬壹疋付阿知吉師以貢上(此阿知吉師者用()直史等之祖)亦貢上横刀及大鏡又科賜百済國若有賢人者貢上故受命以貢上人名和迩吉師即論語十巻千字文一巻并十一巻付是人即貢進(此和尓吉師者文首等祖)又貢上手人韓鍛名卓素亦呉服西素二人也又秦造之祖漢直之祖及知醸酒人名仁番亦名須ゝ許理等参渡來也故是須須許理醸大御酒以獻於是天皇宇羅宜是所獻之大御酒而御歌曰須々許理賀迦美斯美岐迩和禮恵比迩祁理許登那具志恵具志尓和禮恵比迩祁理如此之歌幸行時以御杖打大坂道中之大石者其石走避故諺曰堅石避酔人也」、【亦、新羅人が来訪した。それで建内宿禰の命令で、堤池に、労役で百濟池を作った。亦、百濟の国主の照古王が、牡馬一疋、牝馬一疋を阿知吉師にあつらえて献上した。此の阿知吉師は阿直史の祖だ。亦、横刀や大鏡を献上した。又、百濟国に、「もし賢人がいたら献上しなさい。」と命じた。それで、命を受けて献上した人は和迩吉師で、論語十卷、千字文一卷、併せて十一卷を是の人に添えて献上した。この和迩吉師は文首の祖だ。又、韓の鍛冶職人の卓素、亦、呉の機織りの西素二人を献上した。又、秦造の祖、漢直の祖、及、酒の醸造法を知る人で、名は仁番、またの名は須須許理達が、参上した。それで、須須許理が酒を醸造して献上した。天皇は、献上された酒で陽気になって歌った()。この様に歌って外出した時、杖で大坂の道で大石を打つと石が飛んで行った。それで、諺に「堅い石も醉人を避ける。」と言う。】と訳した。

前にも記述したとおり、この説話は仁徳天皇三一年「立大兄去來穂別尊爲皇太子」、343年に倭奴国で王朝交代した阿知使主の説話で、346年即位の照古王と合致し、吉師は日本では使主、新羅の尼師の事と思われ、この時代は、新羅で訖解尼師今・奈勿尼師今と王の名に入り、帝都を京師と呼んで、師は皇帝を意味したようだ。

この頃、新羅や日本では新羅王が使主で百濟王が主で新羅が百濟を統治していたと考えていたようだ。

また、『日本書紀』では阿直岐と記述され、岐は国神の意味で臣とおなじで、「阿知使主等渡高麗國欲逹于呉則至高麗更不知道路」と西晋ではなく東晋への交流法を尋ねているので、369年以降の説話で、正しい朔の阿直岐の説話は「習諸典籍」を王仁に習ったという、畿内の説話と思われ、「黨類十七縣而來歸」と朝廷に帰順し、「阿直岐亦能讀經典即太子菟道稚郎子師」と太子の家庭教師となったと思われる。

また、『三国史記』に近肖古王三十年「冬十一月王薨古記云百濟開國已來未有以文字記事至是得博士高興始有書記」と、近肖古王以前は文字記録していなくて、近肖古王から記録があったと考えられ、近肖古王27年・28年に「遣使入晉朝貢」と晋に朝貢していて、この時に 論語、千字文を手に入れ、文字使用が始まったと思われる。

そして、恐らく、373年に百濟の後見の倭奴国王阿知使主が、正しくない朔の説話の「胸形大神有乞工女」と仲帯彦の政権に、 「論語十卷千字文一卷」を送り、それで、仲帯彦の政権も史書を記録し、403年の「諸國置國史記言事達四方志」に繋がり、『梁書』の倭国・文身国・侏儒国・大漢国の史書を提出させて、朝廷の畿内・扶桑国の史書、恐らく、「欲聘瑞齒別天皇之女等女名不見諸記」の「諸記」をまとめ、『日本書紀』の「安康紀」まで記述したと考えられる。

2022年8月29日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』応神天皇類書4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「天皇聞看日向國諸縣君之女名髪長比賣其顔容麗美將使而喚上之時其太子大雀命見其嬢子泊于難波津而感()其姿容之端正即誂造()建内宿祢大臣是自日向喚上之髪長比賣者請白天皇之大御所而令賜於吾尓建内宿祢大臣請大命者天皇即以髪長比賣賜于其御子所賜状者天皇聞者豊明之日於髪長比賣令握大御酒柏賜其太子尓御歌曰伊耶古杼母怒毗流都美迩比流都美迩和賀由久美知能迦具波斯波那多知婆那波木()都延波登理韋賀良斯友()豆延比波登理賀良斯美都具理能那迦都延能本都毛理阿加良袁登賣袁伊耶佐佐婆尓()良斯那又御歌曰美豆多麻流余佐美能伊氣能韋具比宇知賀佐斯良()流斯良迩奴那波久理波閇祁久斯良迩和賀許許呂志劔()伊夜袁許迩斯弖伊麻劔()久夜斯岐如此歌而賜也故被賜其嬢子之後太子歌曰美知能斯理古波陀袁登賣袁迦微能碁登岐許延斯迦杼母阿比麻久良麻久又歌曰美知能斯理古波陀袁登賣波阿良蘇波受泥斯久袁斯劔()母宇流波志美意母布又吉野之國主等瞻大雀命之所佩御刀歌曰本牟多能比能美古意富佐耶岐意富佐耶岐波加勢流多知母登都流藝須恵布由布由紀能須加良賀志多紀能佐夜夜夜又於吉野之白檮上作横臼而於其横臼醸大御酒獻其大御酒之時撃口鼓爲伎而歌曰加志能布迩余久須袁都久理余久須迩迦美斯意富美岐宇麻良尓岐許志母知袁勢麻呂賀知此歌者國主等獻大贄之時々恒至于今詠之歌者也此之御世定賜海部山部山守部伊勢部也亦作釼池亦」、【天皇は、日向國の諸縣君の娘の髮長比賣が容貌麗しいと聞いて、使いを送って呼び寄せたとき、太子の大雀は、その乙女が難波津に停泊しているところを見て、姿かたちが端正なのに惚れ込んで、建内宿禰大臣にたのんで「この日向から呼び寄せた髮長比賣を、天皇の御所に呼び、私にほしい。」と言った。そこで建内宿禰大臣が、天皇の指示を求めたら、天皇は髮長比賣を子に与えた。その様子は、天皇が饗宴で、髮長比賣に酒の器を持たせて、太子に与えた。そこで歌った()。又歌った()。この様に歌いながら与えた。それで、その乙女を与えた後、太子は歌った()。又、歌った()。又、吉野の國主達、大雀が帯びた刀を見て歌った()。又、吉野の切り株の上に横臼を作って、その横臼に酒を釀して、その酒を振舞った時、舌つづみで拍子をとって歌った()。この歌は、國主達が大贄を振舞う時に、いつも今に至るまで詠む歌だ。この天皇の時に、海部、山部、山守部、伊勢部を定めた。亦、劒池を作った。】と訳した。

神話は「日向襲之高千穗峯矣」と降臨し、豐玉姫と豊国の姫を天孫が妃にして、神武天皇は熊襲出身のはずが、『日本書紀』は景行天皇が出身地を、あたかも初めて征服したかのように、「是國也直向於日出方故號其國曰日向也」と日向の地名を命名し、すなわち、熊襲征伐は日向出身の朝廷の説話ではない。

『古事記』の熊襲征伐は、壹與が熊曾建を殺害した記事と、帯中日子天皇は訶志比宮に熊曾を討とうと来て暗殺され、息長帯日売は熊曾に目もくれず新羅を征伐し、新羅は元々朝廷の友好国で倭奴国の説話、朝廷は畿内の政権なので、熊襲征伐は豊浦宮の中臣氏と高千穂宮王室の子孫の香椎宮の日臣の説話と考えられる。

「此地者向韓國直道求笠狹之御前而朝日日直剌國夕日日照國也」と日照国を名に、「大伴氏之遠祖日臣」と大伴氏の祖の日臣の日照が、崇神天皇六〇年「武日照命從天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉」と出雲を配下に市、垂仁天皇二五年「阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彦國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日五大夫」と中臣氏・日臣が臣下となって、垂仁天皇二六年「物部十千根大連曰屡遣使者於出雲國雖検校其國之神寶」と出雲が朝廷の支配地となり、大帯彦の孫の中帯彦が日国(豊国)・仲国の将軍となったようだ。

瓊瓊杵は高千穗に降り、神吾田津姫を妃に火闌降命を生み「吾田君小橋等之本祖也」、『古事記』「此者隼人阿多君之祖」と熊襲吾田君の祖で、神武天皇は日向国の吾田邑の吾平津媛を妃にし、熊襲は建日別と日国の分国なので、諸縣君は高千穗宮の王室の末裔と考えられ、瓊瓊杵は日国を建国した王と言える。

そして、この髪長比賣との婚姻は、390年即位の応神天皇11年なら400年、396年即位の応神天皇11年なら406年の説話で、難波の説話なので、河内丹柴籬宮天皇の406年が相応しい。


2022年8月26日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』応神天皇類書3

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「一時天皇越幸近淡海國之時御立宇遅野上望葛野歌曰知婆能加豆怒袁美礼婆毛之知陀流夜迩彼()母美由久尓能富母美由故引坐木幡村之時麗美嬢子遇其道衢尓天皇問其嬢子曰汝者誰子荅白丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢阿()枝比賣天皇即詔其嬢子吾明日還幸之時入坐汝家故矢阿()枝比賣委曲語其父於是父荅曰是者天皇坐那理恐之我子仕奉云而嚴餝其家候待者明日入坐故獻大御饗之時其女矢阿()枝比賣命令取大御酒盞而獻於是天皇任令取其大御酒盞而御歌曰許能迦迩夜伊豆久能迦迩毛豆多布都奴賀能迦迩余許佐良布伊豆久迩伊多流伊知遅志麻美志麻迩斗岐美本杼理能迦豆伎伊岐豆岐志那陀由布佐佐那美遅袁須久酒()久登和賀伊麻勢婆夜許波多能美知迩阿波志斯袁登賣宇斯呂傳波袁陀弖呂迦母波那美波志比比斯那須伊知比韋能和迩佐能迩袁波都迩波波陀河可良氣美志波迩波迩具漏岐由恵美都具理能曽能那迦都迩袁加夫都久麻肥迩波阿弖受麻用賀岐許迩加岐多礼阿波志斯袁美那迦母賀登和賀美斯古良迦久母賀登阿賀美斯古迩宇多多氣陀迩牟迦比袁流迦母伊蘇比袁流迦母如此御合生御子宇遅能和紀郎子也」、【ある時、天皇は淡海国を越えて来て、宇遲野に立ち、葛野を望んで歌った()。それで、木幡村に着いた時に麗美な乙女と道で遇った。そこで、天皇が乙女に其の娘に「お前は誰の子だ」と問いかけると、「丸迩の比布禮能意富美の娘で、宮主矢河枝比賣だ。」と答えた。天皇はその乙女に「私は明日還る時、お前の家に行く」と言った。それで、矢河枝比賣、詳しく父に語った。そこで父が「天皇が来る。畏れ多い事だから、仕えなさい」と答えて、その家をおごさかに飾って待って、翌日来た。それで、饗宴を開いて、その娘の矢河枝比賣が、大盞を取ってふるまった。それで天皇は、その大盞を取りながら歌った()。この様に妃にして、生まれた子は、宇遲能和紀郎だ。】と訳した。

この宮主矢河枝比賣は「神倭主」で淡海朝の天皇を意味し、和珥臣の祖の日觸使主・比布禮大臣は『舊事本紀』「印葉連公多遅麻大連之子・・・姉物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女」と物部多遅麻のことである。

意富美は大神のことで、使主の国神に対する大神・天皇で多遅麻は淡海朝の天皇で、『日本書紀』を書いた王朝と異なる王朝のため、大臣を「意富美」と表記した。

矢河枝比賣を妃にした応神天皇は『古事記』「品陀和氣・・・天皇娶・・・迦具漏比賣生御子・・・次忍坂大中比賣」、「若野毛二俣王娶・・・弟日賣真若比賣命生・・・次忍坂之大中津比賣命」とあるように、若野毛二俣王で、大前宿祢が大臣で遠飛鳥宮の木梨輕太子に仕えたのだから、若櫻宮は2代前の五十琴宿祢が若野毛二俣王・応神天皇となる。

忍坂大中比賣は迦具漏比賣の子で、「若野毛二俣王娶其母弟百師木伊呂弁亦名弟日賣真若比賣」と迦具漏比賣のまたの名は弟日賣真若比賣、もう一人の迦具漏比賣の父大中日子の母は飯野真黒比賣で、その姉妹に「杙俣長日子王此王之子飯野真黒比賣命次息長真若中比賣次弟比賣」と息長真若中比賣と弟比賣(真若弟比賣)が存在し、若野毛二俣王の母は「咋俣長日子王之女息長真若中比賣生御子若沼毛二俣王」と息長真若中比賣である。

すなわち、咋俣長日子の娘達は、三姉妹ではなく、複数世代の姫で、真黒比賣は武諸遇の娘時姫で「娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王」と大中彦十市根を生み、咋俣長日子の娘の真若中比賣は「娶咋俣長日子王之女息長真若中比賣生御子若沼毛二俣王」と若沼毛二俣王を生み、麦入の子の石持が「公刑部垣連刑部造等祖」と忍坂は物部氏の領地で、忍坂大中比賣も物部氏の媛で、若沼毛二俣王の子が麦入である。

物部五十琴宿祢連公膽咋宿祢之子・・・物部多遅麻大連女香兒媛為妻」と五十琴宿祢の妃が迦具漏比賣と似た名の香兒媛、「多遅麻大連女香室媛生三皇子兒菟道稚郎子皇子尊」と迦具漏比賣と似た名の香室媛が矢河枝比賣・宅媛・山無媛で若沼毛二俣王の妃となり、葛城氏に皇位を奪われたが、麦入が奪い返し、しかし、木梨輕太子と共に大前大臣が殺害され、皇位を失った。

そして、もう一人の応神天皇は品陀真若の娘を妃にしたやはり大臣の尾綱根で、品陀眞若王の娘の高木之入日賣を妃に子が額田大中日子・師木宮を継承する輕島宮天皇であり、さらに、もう一人の磐余若櫻宮天皇応神が葛城氏の伊耶本和気である。


2022年8月24日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』応神天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は「三十年春正月辛丑朔戊申天皇召大山守命大鷦鷯尊問之曰汝等者愛子耶對言甚愛也亦問之日長與少孰尤焉大山守命對言不逮于長子於是天皇有不悦之色時大鷦鷯尊預察天皇之色以對言長者多經寒暑既為成人更無悒矣少子者未知其成不是以少子甚憐之天皇大悅日汝言是合朕心是時天皇常有立菟道稚郎子為太子之情然欲和二皇子之意故發是問是以不悅太山守命之對言也即立菟道稚郎即日任大山守命令掌山川林野以大鷦鷯尊為太子輔之令知國事矣 以物部斤()葉連公為大臣四十一年春二月甲午朔戊申天皇崩于豐明宮時百一十歳 」、【三十年正月辛丑朔戊申に、天皇は大山守と大鷦鷯を呼んで尋ねた。「お前たちは、自分の子が可愛いか」二人の皇子は「とても可愛い」と答えた。天皇はまた「大きくなった子と、小さい子では、どちらが可愛いか」と尋ねた。大山守が「大きい子の方が良いです」答えた。それを聞いた天皇は喜ばない様子だった。大鷦鷯は天皇の心を察して「大きくなった方は、年を重ねて一人前になっているので、もう不安はありません。年若い方はそれが一人前になれるか、なれないかも分からないので、若い方が可愛い」と答えた。天皇は「お前の言葉は、本当に私の心にかなっている」と、とても喜んだ。このとき天皇は、常に菟道稚郎子を皇太子にしたいと思う心があった。そこで二人の皇子の心を知りたいと思っていた。そのためにこの問いをした。このため大山守の答えを喜ばなかった。そうして、菟道稚郎子を立てて日嗣とした。大山守を山川林野を掌る役目とし、大鷦鷯を、太子の補佐として国事を見させた。物部の印葉連を大臣とした。四十一年二月甲午朔戊申、天皇は豊明宮で崩じた。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「於是天皇問大山守命與大雀命詔汝等者敦愛兄子與弟子天皇所次発是問者宇遅能和紀郎子有令治天下之心也尓大山守命白愛兄子次大雀命知天皇所問賜之大御情而白兄子者既成人是無悒弟子者未成人是愛尓天皇詔佐耶岐阿藝之言如我所思即詔別者大山守命爲山海之政大雀命執食國之政以自()賜宇遅能和紀郎子所知天津日継也故大雀命者勿健()天皇之命也」とあり、ほぼ同じである。

この説話は『日本書紀』の四十年が正しい辛丑朔で、立太子に付随する説話なので、この説話は倭国のものと思われ、この頃は、倭国も265年に晋朝が『晋書』「行魏正朔」で晦日が朔でなく朔日が朔となり、晋に貢献する倭も天文学的朔を使ったと考えられる。

この、四十年と三十年の間違いは、応神天皇が複数人、若櫻宮の応神天皇と豊明宮の応神天皇が存在し、物部氏の応神天皇が天皇三十年目に皇位継承の混乱が有ったので三十年と記述された可能性があり、ある王の40年は長命で実権が既に継承済みで皇位継承に混乱は無さそうだが、30年なら混乱があってもおかしくない。

倭の王朝交代は、西暦309年に壹與王朝から異なる王朝が始まり、343年仁徳卅一年の「立大兄去來穂別尊爲皇太子」まで続いたようで、阿知使主は履中天皇即位前紀に記述されていて、その後の倭国王朝である。

この王は壹與の時、百濟にも晋に臣従させ、新羅が『三国史記』294年儒礼尼師今十一年「倭兵來攻長峯城不克」、295年十二年「王謂臣下曰倭人屢犯我城邑百姓不得安居」と倭に負け続け、300年基臨尼師今三年「與倭國交聘」と和平を結び、309年即位の新しい倭国王朝は312年訖解尼師今三年「倭國王遣使爲子求婚以阿飡急利女送之」と姻戚関係を結んだようだが、次の王朝阿知使主は344年三十五年「倭國遣使請婚辭以女旣出嫁」と姻戚関係を拒否され、「倭王移書絶交」と絶交し、397年阿莘王六年「王與倭國結好」のように、百濟と親密な関係となったようだ。

卅七年春二月戊午朔の「遣阿知使主都加使主於呉令求縫工女」、同じ阿知使主の「廿年秋九月倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」、「四一年阿知使主等自呉至筑紫」の説話は343年即位の阿知使主の廿年362年、卅七年379年、四一年383年の説話で、履中天皇即位前紀の「圍太子宮時平群木菟宿禰物部大前宿禰漢直祖阿知使主」と400年の説話に阿知使主が登場する。

また、四十一年春二月甲午朔戊申「天皇崩于明宮」も間違った朔で、神武天皇が東征で安芸まで間違いの朔だったことから、日向襲津彦の資料の可能性が有る。

2022年8月22日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』応神天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は「諱譽田皇太子尊者足仲彦天皇第四皇子也母氣長足姬尊則開化天皇五世孫也天皇以皇后討新羅之年歳次庚辰冬十二月生築紫之蚊田幼而聰達玄監深達動容進止聖表有契矣皇太后攝政三年立為皇太子時年三歳初天皇在孕而天神地祇授三韓矣既産之完生腕上其状如鞆是肖皇太后爲雄裝之負鞆故称名曰譽田尊攝政六十九年夏四月皇太后崩元年正月丁亥朔皇太子尊即天皇位都輕嶋地謂豐明宮二年春三月庚戌朔壬子立仲姬命為皇后誕生三兒兒荒田皇子次大鷦鷯尊次根鳥皇子也先是天皇以皇后姉亮城入姬命為妃生四兒額田大中彦皇子次大山守皇子去來真稚皇子次大原皇子也次妃皇后弟々姬生三兒兒阿倍皇女次淡路三原皇女次菟野皇女次妃物部多遅麻大連女香室媛生三皇子兒菟道稚郎子皇子尊次矢田皇女仁徳妃次雌鳥皇女次妃香室媛弟小甂媛生菟道稚郎姬皇子次妃河泒仲彦女弟媛生稚野毛二泒皇子次妃櫻井田部連男鉏妹糸媛生隼総別皇子次妃日向泉長媛生大葉枝皇子次小葉枝皇凡天皇男女合二十王也」、【誉田皇太子は、足仲彦天皇の第四皇子で母は気長足姫、すなわち開化天皇の五世孫だ。天皇は、母の皇后が新羅を討った年、庚辰年の冬十二月に、筑紫の蚊田でお生まれ幼くして聡明で、物事を遠くまで見通した。立居振る舞いに聖のきざしがあった。皇太后の摂政三年に、皇太子となり三歳だった。皇太后が妊娠中に、天神地祇は三韓を授け生まれたとき、腕が上に盛り上がっていた。その形がちょうど鞆のようであった。これは、皇太后が男装して、鞆をつけられたのに似た。そのため名を誉田尊という。摂政六十九年夏四月、皇太后が薨じた。治世元年丁亥朔、皇太子は即位し軽嶋に都を造り、豊明宮といった。二年三月庚戌朔壬子に、仲姫命を皇后とした。以下略】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「品陀和氣命坐軽嶋之明宮治天下也此天皇娶品陀真若王之女三柱女王一名高木之入日賣命次中日賣命次弟日賣命此女王等之父品它王真若王者五百木之入日子命娶尾張連之祖建伊那陀宿祢之女志理都紀斗賣生子者也故高木之入日賣之子額田大中日子命次大山守命次伊奢之真若命次妹大原郎女次高目郎女五柱中日賣命之御子木之荒田郎女次大雀命次根鳥命三柱弟日賣命之御子阿信()郎女次阿貝知能三腹郎女次木之兎野郎女次三野郎女五柱又娶丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢河枝比賣生御子宇遅能和紀郎子次妹八田若郎女次女鳥王三柱又娶其矢河枝比賣之弟袁那弁郎女生御子宇遅之若郎女一柱又娶咋俣長日子王之女息長真若中比賣生御子若沼毛二俣王一柱又娶桜井田部連之祖嶋垂根之女糸井比賣生御子速総別命一柱又娶日向之泉長比賣生御子大羽江王次小羽江王次幡日之若郎女三柱又娶迦具漏比賣生御子川原田郎女次玉郎女次忍坂大中比賣次登富志郎女次迦多遅王五柱又娶葛城之野伊呂賣此生御子伊奢能麻和迦王一柱此天皇之御子等并廿六王男王十一女王十五此中大雀命者治天下也」、【品陀和氣は輕島明宮で天下を治め、・・・以下略】とある。

前に、『古事記』の神武天皇御毛沼が名前を交換して伊耶本和氣を名乗ったと検証したが、御毛沼には弟の若御毛沼がいて、またの名が豊御毛沼で、これは、若狭の御毛沼が仲国の御毛沼になり、兄の御毛沼が伊耶本和氣になったのだが、「名前交換」説話が、もう一つあり、『日本書紀』「以爲取其鳥名各相易名子爲後葉之契也則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子取木菟名號大臣之子曰木菟宿禰」で、鷦鷯と木菟を取り換え、すなわち、もと木菟が本来天皇となるべき鷦鷯と取り換えて木菟が天皇になった。

『古事記』の神武天皇は日向→安芸→吉備→畿内と侵攻し、豊御毛沼が神武天皇に相応しく、すなわち、豊御毛沼が木菟で、名を交換して、大鷦鷯・御毛沼になり、伊耶本和氣履中天皇となった、若帯彦が若御毛沼なのだから、もと、伊奢沙和氣大神を祀っていたが、氣比大神を祀ることになった、すなわち、氣比大神を祀る妃を得たことを示し、誉田の妃の葛城の野伊呂賣、その子が伊奢能麻和迦だが、野伊呂賣は葛城国造荒田彦の娘の葛比売で伊奢能麻和迦が葛城襲津彦の可能性が高い。

また、応神天皇妃の迦具漏比賣の子が忍坂大中比賣ということは、「品陀天皇之御子若野毛二俣王娶其母弟・・・弟日賣真若比賣命生子・・・忍坂之大中津比賣」と、忍坂大中比賣の父が応神天皇かつ若野毛二俣王、杙俣長日子の子の「息長真若中比賣生御子若沼毛二俣王」で、応神天皇の母は多遅麻の淡海朝廷の姫となり、允恭天皇は多遅麻の子達の丸迩許碁登臣の子が天皇で、允恭天皇ではない平郡氏の男浅津間若子が丸迩臣の娘の 忍坂大中津比賣を妃にして穴穂が皇位を継いだ。

若沼毛二俣王が天皇の応神天皇は輕嶋明宮ではなく磐余若櫻宮天皇の応神天皇だから、履中天皇の兄弟が忍坂大中津比賣を妃にしていて、一王朝一世代で理に適う。

2022年8月19日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神功皇后類書5『七支刀』

  『七支刀』の銘文は「泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世」とあり、■は不明な文字である。

『七支刀』記事は『日本書紀』に神功皇后「五十二年秋九月丁卯朔丙子久氐等從千熊長彦詣之則獻七枝刀一口」と記述され、この日干支は252年8月30日、九州の暦で九州の記事を当て嵌めた記述と思われ、神功皇后紀は百濟関係の記事が多く記述されるが、紀年が全て違っている。

255年神功55年の「百濟肖古王薨」は『三國史記』375年近肖古王「三十年・・・冬十一月王薨」、神功56年「五十六年百濟王子貴須立爲王」は375年であるが、十一月即位なので、日本では翌年の記録となり、神功64年「六十四年百濟國貴須王薨王子枕流王立爲王」は384年近仇首王一云諱須「十年・・・夏四月王薨」、 神功65年「 六十五年百濟枕流王薨王子阿花年少叔父辰斯奪立爲王」は385年枕流王「二年・・・冬十一月王薨」で、これは、321年即位の王が存在した考えられる。

その321年即位の王の記録が七支刀の記録で、372年にその王に七支刀が献上されたと考えられ、おそらく、石上神宮に奉納しているので、五十琴宿祢の磐余若櫻宮天皇の可能性が高い。

七支刀は百濟王から倭王に送った刀で、それが、倭王の宗主国でもある朝廷に献上されたと考えられ、この時の倭王は応神20年「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」、この応神20年は阿知王20年と思われ362年で、倭王が臣従のしるしとして372年に「七枝刀一口七子鏡一面及種種重寶」を献上したと考えられる。

『二中歴』に「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干」と「継体」年号を517年に開始した王朝が、それより569年前、前53年から年号が始まり、それから丗九年間は元号が無く干支のみ記述したが、それ以降元号を記録したと述べていて、景行天皇元年「太子即天皇位因以改元」と改元して元号があったことを示す。

中国にも朝鮮にも当てはまる元号が無く、元号を持っていたと『二中暦』・『日本書紀』が記述しているのだから、368年を元年としたその政権は、おそらく、元号を辰→日本→秦と続け、葛城・平群・巨勢朝廷が建元して中断していたと考えられ、七支刀の「年号泰■」は日本に続く秦国の元号だった可能性が高い。

贈り物に宗主国を差し置いて第三国の中国の元号を使うのはナンセンス、送る国の元号を刻むのが礼儀で、百濟国王肖古王の世子貴須王に聖()の音(泣き声)の孫阿花王が生まれたので倭王旨(阿知)のために造らせたと銘文して贈ったと考えられる。

日本国は前28年「傳聞日本國有聖皇」、200年「東有神國謂日本」、246年「東方有日本貴國」、297年「高麗王教日本國也時太子菟道稚郎子讀其表怒之責高麗之使」と前28年には日本国と呼ばれ、200年には神国(秦国)と呼ばれ、297年は恐らく「直支王薨」の後に記述されているので423年で、日本と上表文に記述されて怒ったのではないだろうか。

七支刀献上の372年の丙午の日は2月12日・3月13日・5月14日・7月16日・9月17日・11月17日があり、閏月があるので、1月ズレる可能性があり、さらに、百濟は晦日を朔としていて、1日ズレる可能性があり、「十■月十六日」なので、11月17日とおもわれる。

内容も、貴須王の子の枕流王が短命で、子の阿花王が年少だったと記述され、372年生まれなら 枕流王死亡時14歳なので、枕流王即位時は13歳で太子にはなれたが、即位適正年令20歳に満たず、枕流王即位時には12歳未満で元々太子に成れず、太子は辰斯王がなっていたはずで、王位を奪う必要が無く、14歳の阿花王には荷が重いと混乱が発生して、辰斯王が政権を奪ったと考えると理に適う。

同様の紀年のズレが、百濟関係の記事の285年応神天皇十六年「百濟阿花王薨」は405年「阿莘王或云阿芳・・・十四年・・・秋九月王薨」と405年が16年と390年に即位した王が存在し、294年応神天皇二五年「百濟直支王薨」は420年「腆支王或云直支・・・十六年春三月王薨」と420年が16年の396年に即位した王が存在したことを示す。

2022年8月17日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神功皇后類書4『三國志』魏書の暦

  『三國志』は魏書に「景初元年・・・三月定歷改年爲孟夏四月」、注に「魏書當以建丑之月爲正月考之羣藝厥義章矣其改青龍五年三月爲景初元年四月」、魏書三十烏丸鮮卑東夷傳第三十東夷倭人に「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼・・・爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授・・・正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王・・・其四年倭王復遣使・・・其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗邪國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等・・・卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」、さらに、『魏書·明帝紀』に「景初元年十二月壬子冬至始祀」「二年」「冬十一月」「閏月」「十二月乙丑帝寢疾不豫辛巳立皇后・・・三年春正月丁亥即日帝崩于嘉福殿時年三十六」、注臣松之桉に「魏武以建安九年八月定鄴・・・明帝應以十年生計至此年正月整三十四年耳時改正朔以故年十二月爲今年正月可彊名三十五年不得三十六也」、『魏書·三少帝紀齊王』に「・・・景初三年正月丁亥朔帝甚病乃立為皇太子是日即皇帝位・・・十二月詔曰烈祖明皇帝以正月棄背天下臣子永惟忌日之哀其復用夏正雖違先帝通三統之義斯亦禮制所由變改也又夏正於數為得天正其以建寅之月為正始元年正月以建丑月為後十二月」 、注帝《集》に「載帝自敘始生禎祥曰・・・其辭曰惟正始三年九月辛未朔二十五日乙未直成予生于時也」、吳書·吳主傳に孫權の太元二年二月に「大赦改元爲神鳳皇后潘氏薨・・・夏四月權薨 」、三嗣主傳第三に孫亮太元元年夏「亮母潘氏立爲皇后・・・太子即尊號大赦改是歲於魏嘉平四年也」とある。

『日本書紀』に神功皇后「卅九年是年也大歳己未・・・明帝景初三年六月・・・」と1年違いで記述されている原因を探ってみよう。

明帝は237年青龍五年に本来12月の丑月を1月に変更し、238年景初元年の冬至が本来11月を12月と記述され、また、明帝崩が「景初三年正月丁亥」と記述されているが、丁亥朔は閏月が238年11月なら死亡日は239年1月30日で、239年景初三年の12月に「建寅之月為正始元年正月以建丑月為後十二月」と齊王が元に戻し、251年太元元年が嘉平四年なので、248年が嘉平元年、239年が正始元年、注の正始三年九月辛未朔は241年で天文学的日干支である。

すなわち、『東夷傳』は元に戻った暦で記述されるが、卑弥呼の詔書には建丑月が1月の景初三年()丑月と署名されていて、倭国は景初二年を三年と理解し、『三国志』の齊王の原資料にも恐らく「景初三年正月丁亥晦」と記述され、陳寿は景初三年の存在を理解し、日本は新帝齊王元年が正始で後の丑月を理解せず、『日本書紀』に239年景初三年、240年正始元年、243年正始四年と1年ズレて記述したと思われる。

ところが、魏朝では、齊王が239年景初三年12月に暦の「正始二年建丑月一月」を「正始元年後十二月」と換えて景初三年を正始元年としたが、司馬懿との二重権力で混乱して、2月1日丁亥(明帝歴3月1)を二重にずらして朔を付加したと考えられ、実際の死亡は238年景初二年の後の丑月晦日だった。

中国では、始皇帝二十六年「今年得寶鼎其冬辛巳朔旦冬至」と冬至が朔日だと縁起が良いと暦を変えるなど、農耕の為の暦が政治的に変更されたようで、暦を重要視していない。

実際は正始元年は殆ど使用されず、景初三年が使用され、景初二年記事の後に青龍三年記事を記述した後、「三年春正月丁亥太尉宣王還至河內・・・癸丑葬高平陵」と、景初三年一月廿七日に埋葬したと記述され、元々は景初三年一月晦日死亡で景初三年二月廿六日に埋葬が景初二年後の十二月晦日死亡景初三年一月廿六日埋葬、景初三年一月朔日死亡景初三年一月廿七日埋葬、正始元年一月朔日死亡正始元年一月廿七日埋葬と改定された。

そして、齊王の記事は「景初三年正月丁亥朔・・・二月・・・丁丑詔曰三月・・・夏六月・・・秋七月・・・八月・・・冬十月・・・十二月・・・”其以建寅之月為正始元年正月,以建丑月為後十二月”・・・正始元年春二月乙丑正始元年春二月乙丑・・・夏四月・・・秋七月・・・八月」と記述は続き、景初三年は12月まで、正始元年も続き、景初三年は確かに239年・240年当時には存在した。

2022年8月15日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神功皇后類書4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故建内宿祢命率其太子爲將禊而經歴淡海及若狭國之時於高志前之角鹿造假宮而(坐尓)坐其地伊奢沙和氣大神之命見於夜夢云以吾名欲易御子之御名尓言祷白之恐随命易奉亦其神詔明日之旦應幸於濵獻易名之幣故其旦幸行()濵之時毀鼻入鹿魚既依一浦於是御子令白于神云於我給御食之魚故亦稱其御名號御食津大神故於今謂氣比大神也亦毀()鼻入鹿魚之其()血臰故号其浦謂血浦今謂都奴賀也於是還上坐時其御祖息長帯日賣命醸待酒以獻尓其御祖御歌曰許能美岐波和賀美岐那良受久志能加美登許余迩伊麻須伊波多々須々久那美迦微能加牟菩岐本岐玖琉本斯登余本岐岐母登本斯麻都理許斯美岐叙阿佐受袁勢佐々如此歌而獻大御酒尓建内宿祢命爲御子荅歌曰許能美岐袁迦美祁牟比登波曽能都豆美宇須迩多弖々宇多比都々迦美祁禮迦母麻比都々迦美祁礼加母許能美岐能美岐能阿夜迩宇()陀怒斯佐佐此者酒樂之歌也凢帯中津日子天皇之御年伍拾貮歳壬戌年六月十一日崩也御陵在河内恵賀之長江也皇后御年一百歳崩葬于狭城楯列陵也」、【それで、建内宿禰は、その太子を率いて、禊をしようとして、淡海及び若狹國をへて、高志の前の角鹿に假宮を造っていた。そこにいた伊奢沙和氣大神が、夜の夢にでてきて「私の名を子の名に替えて欲しい。」と言った。そこで「畏れ多い事、命のように替えましょう。」と喜んで言ったら、亦、その神は「明日の早朝、濱に出なさい。名を変えた幣をやろう。」と言った。それで、早朝濱に行った時、鼻を傷めた入鹿魚が、既に一浦によりかかっていた。それで神子は、神に、「我は食用の魚が欲しい。」と言った。それで、亦、その名を稱えて、御食津大神と名付けた。それで、今は氣比大神という。亦、その入鹿魚の鼻が血生臭かった。それで、その浦を血浦と言った。今は都奴賀という。それで還る時、その母の息長帶日賣は、待酒を釀もして飲んだ。そこでその親は、歌を詠んだ()。このように歌って大酒を飲んだ。そこで建内宿禰が、神子の爲に答歌を歌った()。これは酒樂の歌だ。帶中津日子天皇の年は、伍拾貳歳だった。壬戌の年の六月十一日に崩じた。陵は河内の惠賀の長江に在る。皇后は年齢百歳で崩じた。狹城の楯列の陵に葬った。】と訳した。

この説話は敦賀の地名説話と応神天皇の太子の命名説話であるが、敦賀は垂仁天皇三年に天日槍が来日していて、既に地名は存在し、また、遠津臣から息長氏が派生したと以前述べたが、御食津大神、これは三国にいる大国の神、大国にいる神は大氣都比賣で、若沙那賣神を生み、三国若狭の神女(みな)の女神で御食津大神の名に相応しい。

また、『古事記』「娶意富夜麻登玖迩阿礼比賣命生御子・・・日子刺肩別」「日子刺肩別命者・・・角鹿海直之祖也」と遠津氏・息長氏の氏を引き継いだ和知都美の娘の意富夜麻登玖迩阿礼比賣の子が角鹿海直の祖の日子刺肩別で、敦賀命名説話に相応しく、葛城氏の息長帯姫の起源にもよく合う。

そして、建内宿禰が太子に名を付けるのだから、当然、建内宿禰の子か孫で、伊奢沙和氣大神の名と交換したのだから、『古事記』「葛城之曽都毗古之女石之日賣命生御子大江之伊耶本和氣命」の伊耶本和氣以外考えられず、応神朝と仁徳朝は並行してあったと証明したように、伊耶本和氣は応神天皇の子、すなわち、この応神天皇は襲津彦で命名者の武内宿祢は祖父である。

『古事記』の神武天皇は応神天皇と述べてきたが、『古事記』の神武天皇は若御毛沼であったが、この名は若狭の三国配下の毛の沼の人物で、御食の神を祀る人物、伊奢沙和氣と名を交換して伊耶本和氣、御毛沼と名を交換して御食津大神である。

そして、大倭根子の皇子の日子刺肩別の子孫で角鹿海直と思われる稚帯彦、396年即位の応神天皇の母の神功皇后は角鹿の笥飯宮にいて、建内宿禰はそれに伴って子が仲国王になり、豊浦から東征して応神天皇が皇位を獲得した説話になったと考えられる。

建内宿禰の子と思われる大碓は『古事記』「大碓命守君大田君嶋田君之祖」と大田君の祖で『日本書紀』「日向髪長大田根生日向襲津彦皇子」と「狗奴國」の媛と思われる大田根が日向襲津彦を生み日向襲津彦は仲国将軍となって譽田別を生むが、譽田を名乗っているのだから品陀眞若の娘の中日賣が母の可能性が高く、「根鳥皇子是大田君之始祖也」と仲国将軍根鳥と大国将軍大雀が生まれたと考えられ、尾張朝廷大中彦を継承したようだ。

そして、陵墓が2つあるように、長江は長江襲津彦の母で362年崩、楯列は「志賀高穴穗宮」天皇の「倭國狹城盾列」と同じで野洲近辺の尾綱真若刀婢の陵墓で269年崩と考えられる。

2022年8月12日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神功皇后類書3

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故其政未竟之間其懐妊臨産即爲鎮御腹取右()以纏御裳之腰而渡筑紫國其御子者阿禮坐故号其御子生地謂宇美也亦所纏其御裳之石者在筑紫國之伊計村也亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而御食其河邊之時當四月之上旬尓坐其河中之磯抜取御裳之糸以飯粒爲餌釣其河之年魚(其河名謂小河亦其磯名謂勝門比賣也)故四月上旬之時女人抜裳糸以粒爲餌釣年魚至于今不絶也於是息長帯日賣命於倭還上之時因()疑人心一具喪舩御子載其喪舩先令言漏之御子既崩如此上幸之時香坂王忍熊王聞而思將待取進出於斗賀野爲宇氣比獦也尓香坂王騰坐歴木而是大怒猪出掘其歴木即咋食其香坂王其弟忍熊王不畏其態興軍待向之時赴喪舩將攻空舩尓自其喪舩下軍相戰此時忍熊王以難波吉師部之祖伊佐比宿祢爲將軍太子御方者以丸迩臣之祖難波根子建振熊命爲將軍故追退到山代之時還立各不退相戰尓建振熊命権而令云息長帯日賣命者既崩故無可更戰即絶弓絃欺陽歸服於是其將軍既信詐弭弓蔵兵尓自頂髪中採出設弦(一名云宇佐由豆留)更張追撃故逃退逢坂對立戰尓追迫敗於沙々那美悉斬其軍於是其忍熊王與伊佐比宿祢共被追迫乗舩浮海歌曰伊奢阿藝布流玖麻賀伊多弖游波受波迩本杼理能阿布美能宇美迩迦豆岐勢那和即入海共死也」、【それで、その政がまだ終了しない間に、その胎児が産れそうになった。それで腹を鎭めようとして、石を取って裳の腰に纒とい、筑紫國に渡って、その子が生まれた。それで、その子が生れた地を宇美となづけた。亦、その裳に纒った石は、筑紫國の伊斗村に在る。亦、筑紫の末羅縣の玉島里について、その河の辺で食事をした時は、四月の上旬だった。そこでその河の礒で、裳の糸を拔き取って、飯粒を餌にして、河の年魚を釣った。河の名を小河という。亦、礒の名を勝門比賣という。それで、四月の上旬に、女が、裳の糸を拔き、飯粒を餌にして、年魚を釣ることは、今になっても絶えない。そこで息長帶日賣は、倭に還り上る時、人を疑ったため、喪船を一つ具えて、子をその喪船に載せて、先づ「神子は既に崩じた。」と言ひふらした。こうして上った時、香坂王と忍熊王が聞いて、待ち伏せて討とうと、斗賀野に進出して、狩りによる占いをした。そこで香坂王は、歴木に登ってみると、大きな猪が出てきて、歴木を堀って、香坂王を咋い殺した。弟の忍熊王が、それに恐れおののいて、軍勢を集めて待ちうけた時、喪船に赴いて空船を攻めた。そこで喪船から軍を下ろして互いに戦った。この時忍熊王は、難波の吉師部の祖の伊佐比宿禰を將軍として、太子のほうには、丸迩臣の祖の、難波根子建振熊を將軍とした。それで、追い散らして山代に到った時、還って軍を起こして、互いに退かず応戦した。そこで建振熊は、騙して「息長帶日賣は既に崩じた。それで、更に戦う必要が無い。」と言いふらして、弓絃を切って、服従するように見せた。その將軍は、詐りを信じて、弓を弭して兵器をしまった。そこで結った髮の中から、巻き付けた弦を取り出して、弓に張って追撃した。それで、逢坂に退いて逃げ、また立ち向かって戦った。そこで追い迫って沙沙那美で敗り、のこらずその軍勢を斬った。そこで忍熊王と伊佐比宿禰は、共に追い迫まられて、船に乘りて海に浮かんで歌って()、海に入って共に死んだ。】と訳した。

この筑紫での説話は当然卑弥呼には子がいないので、壹與・市鹿文の説話で、三年春正月丙戌朔戊子「立譽田別皇子爲皇太子」の立太子は、西暦247年から3年後249年に即位した「火國造」の壹與を記述していると思われる。

『三國志』正始「八年・・・卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定」と卑弥呼が247年に死亡し、「倭國亂」で退位させられた熊襲梟帥の恐らく曽孫の市乾鹿文に婿入りして熊襲梟帥を襲名した卑弥呼の男弟王の子が卑弥呼を継いだと思われるが、国は纏まらず、市乾鹿文の妹の市鹿文13歳が即位し、市鹿文は倭奴国王熊襲梟帥を襲名した宗家の娘である。

壹與は287年新羅儒礼尼師今四年四月「倭人襲一禮部縱火燒之」と韓地が不安定になり、新羅が279年から味鄒尼師今や儒礼尼師今が晋に「遣使獻方物」、281年から百濟も古尓王、責稽王が「貢方物」と晋朝に援助を求め、それに対して、倭は、太康10年289年「東夷絕遠三十餘國」と晋と融和して、300年基臨尼師今三年に「與倭國交聘」と和平を結んだ。 

2022年8月10日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神功皇后類書2

 『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「訖尓驚懼而坐殯宮更取國之大奴佐而種々求生剥逆剥阿離溝埋屎戸上通(下通)婚馬婚牛婚鶏婚犬婚之罪類爲國之大祓而亦建内宿祢居於沙庭請神之命於是教覺之状具如先日凢此國者坐汝命御腹之御子所知國者也尓建内宿祢白恐我大神坐其神腹之御子何子欤荅詔男子也尓具請之今如此言教之大神者欲知其御名即荅詔是天照大神之御心者亦底箇男中箇男上箇男三柱大神者也(此時其三柱大神之御名者顯也)今寔思求其國者於天神地祇亦山神及河海之諸神悉奉幣帛我之御魂坐于舩上而真木灰納瓠亦箸及比羅傳多作皆々散浮大海以可度故備如教覺憗()軍雙舩度幸之時海原之魚不問大小悉負御舩而渡尓順風大起御舩從浪故其御舩之波瀾押騰新羅之國既到半國於是其國王畏()奏言自今以後随天皇命而爲御馬甘()毎年雙舩不乾舩腹不乾柁檝共與天地無退仕奉故是以新羅國者定御馬甘百済國者定渡屯家尓以其御杖衝立新羅國主之門即以墨江大神之荒御魂爲國守神而祭鎮還渡也」、【ここで、驚き怯えて、殯宮に居て、更に國の大串に付けた幣を取って生剥、逆剥、田の畔を崩し、溝を埋、糞を撒き散らし、親子で交わり、馬や牛や鷄を犯すなどの罪などをいろいろ探し求めて、國の大祓をして、亦、建内宿禰が清めた場所に居て、神の言葉をきいた。ここで教へ諭されたことを、「凡そこの国は、お前の命を宿す腹にいる子が治める国だ。」と先日のようにさとした。そこで建内宿禰は、「恐れおおいこと、私の大神よ、その神々しく腹にいる子は誰だ。」と言うと、「男子だ。」と答えた。そこで「今このように教えて頂いた大神の名を教えてほしい。」と願うと、「これは天照大神の心だ。亦、底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神だ。この時にその三柱の大神の名は明らかとなった。今、本当ににその國を求めようと思うなら、天神地祇、亦、山神及び河海の諸々の神、全てに幣帛を供え、私の魂を船の上に乗せて、眞木の灰を瓠に納め、亦、箸及びお供えをたくさん作って、其々を大海に散らし浮かべて渡るのだ。」と答えた。それで、すべて教へ諭されたようにして、軍勢を整へ船を並べて渡った時、海原の魚が、大小を問はず、ことごとく船を背に乗せ渡った。ここで追い風が強く吹き、船は浪に乗って行った。それで、その船の大小の波が、新羅の國に押し上げて、既に國の半ばについた。これにその國王は、恐れおののいて「今以後は、天皇の命のままに、馬の餌として、年毎に船を並べて、船腹や棹・櫂が乾くこと無く、天地のと共に、止むことなく仕へましょう。」と奏上した。それでこのため新羅國は御馬甘と決め、百濟國は外交の屯家と定めた。そこでその杖を、新羅の國主の門につき立てて、墨江大神の荒魂を、國を守る神として祭り鎭めて帰還した。】と訳した。

ここでの新羅侵攻は249年の新羅侵攻、沾解尼師今三年「夏四月倭人殺舒弗邯于老」だが、内容は前28年『日本書紀』垂仁天皇二年「任那人蘇那曷叱智・・・故號其國謂彌摩那國其是之縁也於是阿羅斯等以所給赤絹藏于己國郡府新羅人聞之起兵至之皆奪其赤絹是二國相怨之始也」と記述され、これ以前、おそらく新羅建国の前57年に御門の杖門番と秦韓・新羅の独立を承認して税として御馬甘を徴収し、新羅の「意富加羅國」の地を彌摩那と呼んだ事をここで記述したと思われる。

さらに、反目する百濟に前18年自治を認めて独立したが、百濟には倭奴国が援助して、「于斯岐阿利叱智于岐傳聞日本國有聖皇」と淡海朝秦の影響下の新羅といさかいが絶えなかったと記述し、その説話を神功皇后の説話に挿入したと考えられる。

そして、その詳細が神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年の「新羅王常以八十船之調貢于日本國其是之縁也於是高麗百濟二國王聞新羅收圖籍降於日本國密令伺其軍勢則知不可勝自來于營外叩頭而款曰從今以後永稱西蕃不絶朝貢故因以定内官家」と同じ内容を記述し、もちろん、この内容は、倭奴国ではなく、日本国・秦国・淡海朝の説話と思われ、倭奴国とは高句麗も広開土王碑文に、また、百濟も新羅も『三国史記』に交戦の記事が絶えず記述される。

秦韓建国時の前57年にあった秦・辰は少なくとも前109年『漢書』「辰國欲上書見天子又雍閼弗通元封二年」から続いた国で、秦・辰が辰韓か馬韓なら、『三國史記』の建国が前109年以前にすればよく、秦・辰は辰韓・馬韓以外で、辰韓建国時にも辰国はあって、「辰人謂瓠爲朴」と新羅初代の王に賜姓しており、中国の秦朝は前206年に滅亡していて、『日本書紀』・『古事記』には新羅・百濟の朝貢記事がある。

2022年8月8日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神功皇后類書1

  『日本書紀』は纏向朝廷への侵攻と外交の説話であった。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「氣長足姬尊者稚日本根子彦火日々天皇之曾孫氣長宿祢王女也母日葛城宮顙額也仲哀天皇二年立為皇后幼而聰明客貌壯麗父王異焉九年春二月足仲彦天皇崩於築紫橿氷宮皇后傷天皇不從神教而早崩之事以為知其神名則令群臣百僚以解罪改過更造齋殿乃託皇后祈請先託神名等事具在別記十月己亥朔辛丑神祇荒魂奉齋別舩亦以和魂齋皇后舩師領舩軍従和珥津解纜進發幸新羅國状具在征服三韓記十二月戊戌朔辛亥皇后皈自新羅則誕生譽田天皇於築紫故時人号其産處田宇弥也明年春二月皇后領群卿及百僚遷穴門豐浦宮即收天皇之喪從海路以向京時麛坂王忍熊王聞天皇崩亦皇后征西并皇子新生而密謀之曰今皇后有子群臣皆從焉必共議之立幼王矣吾等何以兄從并乎云設兵待敵並従誅軒云々事具在別記元年冬十月丁巳朔甲子群臣尊皇后日皇太后大歳辛巳改為攝政元年物部多遅麻連公為大連二年冬十一月丁亥朔甲午葬於河内國長野陵三年春正月丙戌朔戊子譽田別皇子立為皇太子都於磐余謂稚櫻宮物部五十琴宿祢為大連六十九年夏四月辛酉朔丁丑皇太后崩於稚櫻宮冬十月戊午朔壬申葬狹城楯列陵是日追尊皇太后日氣長足姬尊」、【気長足姫命は、稚日本根子彦大日々天皇の曾孫で気長宿祢王の娘だ。母を葛城高額姫という。仲哀天皇の治世二年に、皇后となった。幼いときから聡明で、容貌もすぐれて美しく、父の王もいぶかしがるほどだった。九年の春二月、足仲彦天皇は筑紫橿氷宮で崩じた。皇后は、天皇が神のお告げに従わないで、早くに死んだことを傷んで思ったのは、祟った神を知って群臣百寮に命じて、罪を払い過ちを改めて、さらに斎殿をつくって、そこで神がかりした。皇后が、さきに神託をくだした神に祈り願ったことは、別の書に詳しくある。十月己亥朔辛丑、神々の荒魂を別の船に祀り、また和魂を皇后の乗る船に祀って、船軍を率いて和珥津から船出した。新羅国を巡った様子は、征服された三韓の国の書に詳しくある十二月戊戌朔辛亥、皇后は新羅から戻り。譽田天皇を筑紫で産んだ。そのため、人はその出産の地を名づけて、宇弥といった。翌年の春二月、皇后は群臣と官僚を率いて、穴門豊浦宮に遷った。天皇の遺骸をおさめて、海路で京に向かった。そのとき、麛坂王と忍熊王は、天皇が崩じ、皇后は新羅を討ち、皇子が新たに生まれたと聞いて、「いま、皇后には子がいて、群臣はみな従っている。きっと共に議って幼い王を立てるだろう。私たちは兄であるのに、どうして弟に従うことができよう」とひそかに謀って兵を集めて敵対した。このため、その後、殺された。これらのことは別の書に詳しくある。神功摂政元年冬丁巳朔甲子、群臣は皇后を尊んで、皇太后と言った。太歳辛巳年に改めて、摂政元年とした。物部多遅麻連を大連とした。二年の十一月丁亥朔甲午、天皇を河内国の長野陵に葬った。三年正月丙戌朔戊子、誉田別皇子を皇太子にした。磐余に都を造り、これを稚桜宮という。物部五十琴宿祢を大連とした。六十九年四月辛酉朔丁丑、皇太后は稚桜宮で薨じた。十月戊午朔壬申、狭城盾列陵に葬った。この日に皇太后を尊んで、気長足姫と呼んだ。】と訳した。

十月己亥朔と十二月戊戌朔と三年正月丙戌朔は『日本書紀』と同じだが、正しい朔ではなく、内容が新羅出兵と筑紫の地名説話と立太子説話で、新羅出兵は、壹與元年、沾解尼師今三年夏四月「倭人殺舒弗邯于老」と検証し、地名説話は筑紫に首都が有る女王の地名命名説話を考えるのが、論理的な思考法で、立太子は後述する。

大中姫の朝廷が崩壊した後に多遅麻が大連になっていて、すなわち、213年頃に淡海天皇の多遅麻が纏向天皇と皇太子の忍熊王を殺害して吸収したことを示していると思われ、『舊事本紀』垂仁「八十一年春二月壬子朔五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」は間違いの朔で西暦28年垂仁天皇五七年が二月壬子朔で、この時十市根が皇太弟になったと思われ、その三十年後なら天皇も十市根夫人の大中姫も高齢である。

そして、垂仁天皇八七年に神寶を得て纏向珠城宮天皇に即位し、纏向日代宮天皇膽咋宿禰、淡海志賀高穴穗宮天皇多遅麻、磐余稚櫻宮天皇五十琴宿祢、そして、履中天皇は既にあった稚櫻宮天皇妃の日向泉長姫の兄弟として即位し、難波高津宮は恐らく並立していて、『舊事本紀』仁徳「天皇大別崩」と大別が師木天皇意乎巳を退位させ、瑞歯別妃の従弟の麦入へと繋がったと思われる。

2022年8月5日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仲哀天皇類書3

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「是建内宿祢大臣白恐我天皇猶阿蘇婆勢其大御琴尓稍取依其御琴而那麻()那摩迩控坐故未幾久而不聞御琴之音即舉火見者既崩」、【そこで建内宿禰大臣が、「恐しい、天皇、もっとその大琴を弾いてください。」と言った。それですこし琴を取り依せて、しぶしぶ弾いていた。それで、幾ばくも無く、琴の音が聞こえなくなった。それで火を掲げてみると、既に崩じていた。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「九年春二月癸卯朔丁未武内大臣勸近天皇親后自彈琴託問皇后不肯託誨于時託云皇后妊胎皇子可得寶國云々武内大臣慇進天皇祇令彈琴祈請神名于時日暮將燈琴音絕聲乃舉火見之天皇勿有痛身而明日崩于時年五十二即知不信神教而中賊矢早崩之矣于時皇后大臣匿天皇之哀不無知天下則皇后詔大臣及中臣賊津連大三輪太友主君物部膽咋連大伴武以連物部公遅麻連曰命今天下未知天皇之崩若百姓知之有懈怠者乎則命四大夫領百寮令守宮中竊收天皇屍付武内宿祢以從海路還於穴門而殯于豐浦宮

無火殯歛甲子武内宿祢自穴門還之後奏於皇后是年由新羅國(+)不得葬天皇矣后生皇子四柱麛坂皇子熊坂皇子舉屋別皇子譽田別尊」、【九年の春二月五日、武内大臣が天皇のそばに控え、皇后のために琴を弾くことを頼んだ。皇后が神がかりして神に聞いても、教えは得られなかった。そして神がかりして「皇后がみごもっている皇子は、宝の国を得るだろう。云々」武内大臣は、天皇につつしんで琴を弾くように懇ろにすすめ、その神の名を求め願った。それで、日が暮れて、明かりを灯そうとしたとき、琴の音が聞こえなくなった。そこで、火をかかげて見ると、天皇は体を傷めて、翌日に崩じた。五十二歳だった。それで、神のお告げを信じなかったので、賊の矢にあたって早死にしたようだ。皇后と大臣は、天皇の喪を隠して、天下に知らせなかった。そして、皇后は

大臣と中臣烏賊津連、大三輪大友主君、物部胆咋連、大伴武以連、物部多遅麻連に「いま、天下の人は天皇が崩じたことを知らない。もし人民が知ったら、気のゆるむ者がいるかもしれない」と詔勅し、そこで、四人の大夫に命じて、官僚を率いて宮中を守らせた。ひそかに天皇の遺骸を収めて、武内宿祢に任せ、海路で穴門に移した。そして、豊浦宮で、灯火を焚かずに仮葬した。甲子の日、武内宿祢は穴門から帰って、皇后に報告した。この年は新羅国の役があって、天皇の葬儀は行われなかった。天皇は、后妃との間に四人の皇子をお生みになった。麛坂皇子、忍熊皇子、誉屋別皇子、誉田別尊である。】と訳した。

この説話は、建内宿祢大臣が天皇を殺害していて、師木朝廷の皇位を奪取した息長帯姫は屋主忍男武雄心の子の息長宿祢と葛城之高額比賣の娘で建内宿祢の姻戚と考えられ、大帯彦の建内宿祢がこの功績で仲国の将軍の地位を手に入れた説話と考えられる。

すなわち、神功皇后が皇位を奪取する時、大国将軍の建内宿祢が活躍して、仲国将軍の地位を得た説話と考えられ、実際の仲国王就任は神功皇后「五十五年百濟肖古王薨」が375年に当たるので、この神功皇后元年は321年となり、この時に豊国を含む仲国王になったと考えられる。

322年「搆造宮室」と宮殿を造り、「聖帝」・日後の王、すなわち、高千穂宮の帝の後継者になり、大帯彦は武諸隅が出雲の神寶を得て、屋主忍男武雄心が淡海王になった時、山代に残ったのが大国将軍大帯彦の比古布都押之信の子の建内宿祢と考えられ、住む場所が変わると代替えとなる。

そして、穴門豊浦宮天皇は恐らく拘奴國王で安芸の仲国王の中臣烏賊津連と大帯彦が京都郡以南に後退させ、安芸王の中臣烏賊津連は、仲帯彦に帰属したと考えられ、烏賊津は418年に「勅一舎人中臣烏賦津使主」と記述され、平群天皇の臣下の中臣連はこれ以降と考えられ、垂仁朝の5太夫の大鹿嶋は大国の鹿嶋、景行朝の直入中臣神、すなわち、仲国王中使主で、安康朝の「坂本臣祖根使主」と使主から雄略朝の「根使主之後爲坂本臣」の臣、「弟市鹿文賜於火國造」その子孫の「漢直祖阿知使主」が「漢使主等賜姓曰直」すなわち日国造・日臣で雄略朝の扶桑国の官位で、前の日臣(おそらく高千穂朝の王)が道臣と変った。


2022年8月3日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仲哀天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「二月幸角鹿即行輿宮而居之是謂笥飯宮三月巡狩南國討熊襲叛七月皇居泊坐豐浦津而后得如意珠於海中輿宮室于穴門而居之是謂穴門豐浦宮八年春正月天皇幸築紫討熊襲之議矣時或神託皇后誨日天皇何憂熊襲之不眤此國膂完之空國也西有寶國謂新羅國也若能祭我者必令自服云々而天皇西称無國不信神教誨猶親撃熊襲中賊矢也」、【二月、角鹿に行き、行宮を建てて住み、これを笥飯宮という。三月、南の国を巡視し、熊襲の叛乱を討とうとした。七月、皇后は豊浦津に泊まった後、皇后は如意珠を海中から得た。九月、宮室を穴門にたてて住んだ。これを、穴門豊浦宮という。八年の春正月、天皇は筑紫に行き、熊襲を討とうと諮問した。このとき、ある神が皇后に託して神託をして「天皇は、どうして熊襲が従わないことを憂えるのか。そこは荒れて痩せた地だ。しかし西には宝の国があり、新羅という。もし、よく私を祀るならば、きっとその国はおのずから服従するだろう。云々」ところが天皇は西には国は無いと言った。神の教を信じず、なおみずから熊襲を討って、賊の矢で傷を負った。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「其大后息長帯日賣命者當時歸神故天皇坐筑紫之訶志比宮將撃熊曽國之時天皇控御琴而建内宿祢大臣居於沙庭請神之命於是太后歸神言教覺詔者西方有國金銀爲本日()之炎耀種々珍寶多在其國吾今歸賜其國尓天皇荅白登高地見西方者不見國土唯有大海謂爲詐神而押退御琴不控黙坐尓其神大忿詔凡茲天下者汝非應和()國汝者向一道於」、【その大后の息長帶日賣は、その時、神の力をかりた。それで、天皇が筑紫の訶志比宮にいて、熊曾國を撃とうとした時、天皇が琴を弾いて、建内宿禰大臣が神託を聞こうと、神命を求めた。そこで大后が神と一体になって、神言を教えて「西の方に國が有り。金銀をはじめ、輝く種ゝの珍寶が多く其の國に在る。すぐに其の國を帰属させなさい。」と宣託した。そこで天皇は、「高い場所に登って西の方を見たら、國土が見えない。唯大海だけが有る。」と答えて、嘘を言う神と言って琴を押し除けて弾かずに、默って坐った。そこでその神は、とても怒って「だいたいがこの天下は、お前が統治する国ではない。おまえは死出の道に向かえ。」と言った。】と訳した。

この天皇の記事で正しい朔の記事は、元年春正月庚寅朔庚子「太子即位」、二年春正月甲寅朔甲子「立氣長足姫尊爲皇后」、三月癸丑朔丁卯「至紀伊國而居于徳勒津宮」、夏六月辛巳朔庚寅「泊于豐浦津」、秋七月辛亥朔乙卯「皇后泊豐浦津」、八年春正月己卯朔壬午「幸筑紫」である。

131年に皇太子五百木之入日子が師木天皇に即位して270年まで襲名して皇位にあったと思われ、膽咋宿祢の娘の清媛・五十琴姫・大中姫は纏向朝廷の姫と思われ、192年に五十琴彦が天皇になり、息長帯姫に滅ぼされ、五十琴宿祢が磐余稚櫻宮で即位したようだ。

そして、息長帯姫が住んで、君子国が有った三国の敦賀にいる大倭王は『後漢書』「桓靈間倭國大亂」で、『日本書紀』「熊襲叛之不朝貢」なので、『後漢書』「其大倭王居邪馬台國」と熊襲の乱平定に筑紫の香椎に向かっている。

それに対して、正しくない朔記事は、元年九月丙戌朔「尊母皇后曰皇太后」、二年十一月乙酉朔「詔群臣曰朕未逮于弱冠而父王既崩之」、二月癸未朔戊子「幸角鹿即興行宮而居之是謂笥飯宮」は「越國貢白鳥四隻」とあるように、「詔御諸別王曰汝父彦狹嶋王不得向任所而早薨」の御諸別の都督即位の説話と考えられ、彦狹嶋の兄弟は淡海天皇で、自身は『舊事本紀』「能等國造・・・彦狹嶋命定賜國造」と能登王でもあり、角鹿行宮も彦狹嶋の記録の可能性があり、短命な彦狹嶋が倭建、中国周朝の暦を造った「羲和之國」が「東山道十五國」にあった可能性がある。

八年九月乙亥朔己卯「詔群臣以議討熊襲」と熊襲討伐を止めて新羅國へ侵略する計画の記述だが、249年、壹與元年、沾解尼師今三年夏四月「倭人殺舒弗邯于老」と新羅侵略は倭国が行っており、仲哀天皇は新羅の場所を知っているので、敦賀の西方は新羅だが、筑紫で西方を見ると新羅は見えない。

大倭王は垂仁天皇三年前27年に『日本書紀』「僕新羅國主之子也」と国主の子が朝貢していて、新羅は秦国大倭王の配下で、国主の姓を持ち、新羅を知らないはずもないし、攻撃する必要もないが、倭国は元燕配下、馬韓も元燕配下の扶余人が支配し、辰韓と辰国日本は漢と対峙していた。

2022年8月1日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仲哀天皇類書1

  『日本書紀』は神功皇后前紀と言えるもので、熊襲討伐も巡行に近い。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「帯中日子天皇坐穴門之豊浦宮及筑紫訶志比宮治天下也此天皇娶大江王之女大中津比賣命生御子香坂王忍熊王二柱又娶息長帯比賣命是大后生御子品夜和氣命次大鞆和氣命亦名品陀和氣命二柱此太子之御名所以負大鞆和氣命者初所生

時如鞆宍生御腕故著其御名是以知坐腹中國也此之御世定淡道之屯家也」、【帶中日子天皇は、穴門の豐浦宮、及び筑紫の訶志比宮で天下を治め、大江王の娘の、大中津比賣を妃に生んだ子は香坂王、忍熊王の二柱、又、息長帶比賣大后を妃に生んだ子は品夜和氣、次に大鞆和氣、亦の名が品陀和氣の二柱。太子の名に大鞆和氣とつけたのは、生れた時、鞆のような筋肉の腕だったので其の名が付いた。それで、この力で仲国を統治しようとした。この世に、淡道の屯家を定めた。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「大足彦天皇第二皇子童名小碓命日本武尊第二王子足仲彦王尊諱名也母日兩道入姬皇女活目入彦天皇皇女也天皇容姿端正身長十尺成務天皇無胤故四十八年立為太子年三十一元年歳次壬申春正月庚寅朔庚子太子尊即天皇位尊母皇后為皇太后尊皇太后追贈太皇太后氣長足姬尊立爲皇后開元天皇兒彦坐皇子命兒山々代大筒城真若王兒迦爾米雷王兒息長宿禰女氣長足姬命是.息長地名在近江國坂田郡詔群臣日朕未逮弱寇而父王既崩之乃神靈化白鳥而上天仰望之情一日勿息是以異獲白鳥養之於陵城之地因以視其鳥欲慰顧情則令諸國俾貢白鳥此則天皇戀父王而將養押鳥而弟蒲見別王云雖云白鳥而焼為黒鳥云矣天皇悪其不孝遣兵誅戮矣先娶叔父彦人大兄女大中姬為妃誕生二兒

麛坂皇子忍熊皇子也次娶天熊田造祖大酒主女弟姫為妃生一兒譽屋別皇子也」、【大足彦天皇の第二皇子の日本武、幼名小碓の第二王子で諱を足仲彦、母は両道入姫といい、活目入彦天皇の皇女である。天皇は容姿端正で、身の丈は十尺あった。成務天皇には子が無かったので、天皇の治世四十八年、皇太子となり三十一歳だった。元年壬申の春正月庚寅が朔の庚子、皇太子は即位した。母の皇后を尊んで皇太后とし、皇太后を尊んで大皇太后を追号した。気長足姫を立てて皇后とし皇后は開化天皇の子の彦坐の子の、山代大筒城真若の子の迦爾米雷の子の、気長宿祢の娘の気長足姫、開化天皇五世の孫で近江國坂田郡出身だ。天皇は、群臣に「私がまだ成人しないうちに、父王の日本武はすでに亡くなっていた。魂は白鳥になって天に上った。慕い思うことは一日もやむことがない。それで、白鳥を獲て陵のまわりの池に飼い、その鳥を見ながら父を偲ぶ心を慰めたいと思う」。そこで、諸国に命令して白鳥を献上させた。これは天皇が父王を恋しく思い、飼いならそうとしたのである。それなのに、天皇の弟の蒲見別王は「白鳥といっても、焼いたら黒鳥になるだろう」と言った。天皇は弟王が親不孝であることを憎み、兵を派遣して殺させた。天皇はこれよりまえに、叔父である彦人大兄の娘の大中姫を妃とし、二児を生んだ。麛坂皇子と忍熊皇子だ。また、天熊田造の祖の大酒主の娘の弟媛を妃に誉屋別を生んだ。】と訳した。

この説話は意富多牟和氣と八坂入日賣の子の五百木之入日子と 彦狭嶋の子の御諸別の説話で、意富多牟和氣が128年に淡海に追い出されて、新たに五百木之入日子が師木天皇に、131年大陀牟夜別・淡海天皇が即位、192年に忍熊王が纏向朝廷(?五十琴彦の義父で五十琴姫の夫竹古)の皇太子になったと考えられ、仲哀の妃は『古事記』では迦具漏比賣の子の大江王の娘、『日本書紀』は若建吉備津日子の娘の伊那毘能大郎女の妹伊那毘能若郎女の子の日子人之大兄の娘と異なっている。

詳しい記述が『古事記』なので、恐らく、こちらが元ネタで、雄略朝以降、倭建を小碓、伊那毘能大郎女の子と理解し、叔父の迦具漏比賣の子の大江王を伊那毘能若郎女の子の日子人之大兄と理解したと考えられ、葛城氏の神武東征には吉備王が援助して仲足彦の妃が吉備王なら合う。

口伝えの「叔父おおえ」を、まだ『古事記』を知らない、記録された『古事記』の原本の「大江」など知らず、知っている『日本書紀』の原本の『四方志』や『諸記』の葛城氏大碓や小碓の「叔父大兄」を『日本書紀』が採用したと考えられ、履中天皇四年403年の『四方志』や『諸記』には淡海朝廷の資料が無かったことが解り、403年以降に淡海朝廷が滅亡し、淡海朝廷を受け継ぐ継体天皇が資料を持っていたということが解る。