2021年6月2日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段3

  次に、一書()一書曰伊弉冉尊生火産靈時爲子所焦而神退矣亦云神避矣其且神退之時則生水神罔象女及土神埴山姫又生天吉葛天吉葛此云阿摩能與佐圖羅一云與曾豆羅」、【一書に、伊奘冉は、火の産靈を生む時に、子の爲に焦れて、神退った。または、神避るという。その神が退こうとする時に、則ち水の神罔象女、及び土の神埴山姫を生み、又、天の吉葛を生んだ。天の吉葛、これをあまのよさつらと云う。あるいは、よそつらという。】と訳した。

この神話は一書()の軻遇突智を稚産靈の父、産靈に置き換え、伊奘冉の後継者おそらく吉葛を娶った正当な王だと述べ、漢字理解が進んで「火」神と「日」神を「照らす」神と同等の意味と考えている。

ここの「稚」は「志賀高穴穗宮」の配下だった 稚国王の「 稚足彦」の子「足仲彦」が紀伊戻っており、その上司が息長氏で敦賀が居住地と理解され、「稚」足彦が支配していたのが敦賀だった可能性が高く、「稚」は若狭の「わか」だったと考えられる。

稚国王の子の足仲彦は「なか」国王となって中臣氏を配下にし、旧中国王の中臣氏の女王の「大中姫」、やはり日国の女王を示す姫を使用し、朝廷は山城王族の大酒主の娘の「弟媛」を皇后にしたようで、媛の文字を使っている。

仲哀天皇は葛城家の「なか」国王と尾張朝廷の仲哀天皇と、高穴穗の別朝廷・秦国物部朝廷とを記述している。

一書()一書曰伊弉冉尊且生火神軻遇突智之時悶熱懊惱因爲吐此化爲神名曰金山彥次小便化爲神名曰罔象女次大便化爲神名曰埴山媛」、【一書に、伊奘冉は、火の神、軻遇突智を生もうとする時に、熱に悶へ懊惱とした。それで吐いた。これが神と化った。名を金山彦という。次に小便が神と化った。名を罔象女という。次に大便が神と化った。名を埴山媛という。】と訳した。

この神話は土器を作り、農耕を行い、銅器を作り、漢字を理解した後の神話の様だ。

次に一書()一書曰伊弉冉尊生火神時被灼而神退去矣故葬於紀伊國熊野之有馬村焉土俗祭

 此神之魂者華()時亦以華()祭又用鼓吹幡旗歌舞而祭矣」、【一書に、伊奘冉は、火神を生む時に、灼かれて神退いて去った。それで、紀伊の國の熊野の有馬の村に葬った。土の俗、この神の魂を祭るには、花で祭った。又、鼓吹き幡旗を用いて、歌い舞って祭る。】と訳した。

一書()から()は伊弉冉の国を軻遇突智の説話を利用して産靈・魂の神話を接合した説話で伊弉冉を殺した軻遇突智(産靈)の子孫が若狭(わか国)に遷り国を建国した説話のようだ。

『日本書紀』の木の神「くくつち」が火の神「かぐつち」に変化し、「火()」を「か」と読むということを知っていることを示していて、知った時期は、まず第一が十干を理解した、五行説がまだない、紀元前667年頃に丙丁を「かのえ・かのと」と読んだかどうか、第二が五行説を認識できた前300年頃が考えられるが、第二なら干支は別の文字が使われ、第一なら既に「木火土金水」の順という考えがあったということになる。

また、『日本書紀』も『古事記』も「丁」を「よほろ」と読み、平郡朝では「丁」の音を「てい」と知っているので「孁音力丁反」と「りきてい」の反の「れい」と注を記述し、『古事記』も干支に読みを記述せず、「丙」を和語で使用していない。

しかし、五行説が無い周武王の時、『史記』に「甲子日紂兵敗」と干支で吉凶を占い、「十一年十二月戊午」と日干支を使っており、さらに、干支が別の文字で使われていたのなら『日本書紀』本文に読みが記述されると思われ、「干支」を「えと」のように「兄弟」と読み、「朔」の読みが「ついたち」で朔日と同じ読み、「晦」も同様で「晦日」と同じなので、前667年頃に日干支や年干支の文字と読みを使い、「火」を「か」と読んだ可能性が高く、『日本書紀』本文の軻遇突智は前667年以前の神話である。

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