2021年6月28日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段14

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて、「伊奘諾尊勑桃子日汝如助吾於葦原中國所有顯見蒼生之落苦瀬而患楤(?手偏)之時可助告而賜名号日意富迦牟都美命矣伊弉冉尊親自最後追來于泉津平坂之時伊奘諾尊乃投其杖日自此以還雷軍不敢來矣伊奘諾尊覆於泉津平坂以千人所引盤右塞其坂路其石置中相對而立遂建絶妻之誓渡其事戸之時伊弉冉尊盟日不負於族乃(?)竪之神号日速玉之男神次掃之神泉津事解之男神伊弉冉尊愛也吾夫君言如此者吾當溢煞汝(?)治國民日將千頭矣伊奘諾尊乃報日愛也吾妹言如此者吾當産生日將千五百頭矣是以一日千人必死矣一日千五百人必生也伊奘諾尊因日自此莫過則生三神矣即投其杖是謂岐神号日來名戸神也覆投其帯是謂長道盤神也覆投其履是謂道敷神又云煩神又云開嚙神伊弉冉尊謂黄泉津大神覆以其追斯伎頻斯而号道敷大神覆所塞其黄泉坂之石者号道反大神覆所塞般石是謂泉門寒之大神覆塞坐黄泉戸大神也伊奘諾伊弉冉二神矣覆既及其與妹相闘於泉津平坂也伊奘諾尊日始爲族悲及思哀者是吾之怯矣時泉守道者日云有言矣吾與汝巳生國矣奈何更求生乎吾則當留此國不可共去是時菊理媛神亦有白事矣伊奘諾尊聞而善之乃散去矣如今世人所忌先於婦死夫避葬處盖縁斯欤凡厥所謂泉津平坂者不覆別有處(?)但臨死氣絶之際謂斯之欤謂出雲國伊賦夜坂伊弉冉尊者葬於出雲國與伯耆國堺比婆之山也伊弉冉尊葬於紀伊國熊野之有馬村焉土俗祭此神之魂者花時以花祭覆用鼓吹幡旗歌舞而祭矣」、【伊奘諾は、桃の実に「お前が私を助けたように、葦原の中国に生きているあらゆる人々がつらい目にあって、苦しんでいるときに助けてやれ」と詔勅して意富迦牟都美という名前を与えた。最後に、伊弉冉自身が、泉都平坂へ追いかけて来たとき、伊奘諾はその杖を投げて「ここからこちらへは、雷の兵は来ることができない」と言った。伊奘諾はまた、泉津平坂に千人引きの岩で、その坂道をふさぎ、岩を間に置いて伊弉冉と向かい合って、ついに離縁の誓いを立てた。その離別の言葉を交わしているとき、伊弉冉は「あなたには負けない」と誓って唾をはいた。そのとき生まれた神を、名づけて日速玉之男という。次に、掃きはらって生まれた神を泉津事解之男と名づけた。伊弉冉が「愛しい私の夫よ、あなたが別れの誓いをいうのなら、私はあなたが治める国の民を、日に千人ずつ絞め殺そう」と言った。伊奘諾は「愛しい私の妻よ、そのようにいうのなら、私は日に千五百人ずつ生ませる」と答えたので、日に千人が必ず死に、日に千五百人が必ず生まれる。伊奘諾がこれで「ここから入ってはいけない」と言って、三柱の神を生んだ。その杖を投げた。これを岐神という。名づけて来名戸という。また、その帯を投げた。これを長道磐という。また、その履を投げた。これを道敷または煩といい、または開歯という。伊弉冉を、黄泉津大神という。また、伊奘諾に追いついてきたので、道敷大神と呼ぶ。また、その黄泉の坂を塞ぐ岩を、道反大神と呼ぶ。また、塞いでいる岩を、泉門塞之大神という。また、塞坐黄泉戸大神という。伊奘諾・伊弉冉が、その妻と泉津平坂で争いあったとき、伊奘諾が「はじめあなたのことを悲しみ慕ったのは、私の気が弱かったからだ」と言った。このとき泉守道者が「伊弉冉からの伝言がある。『私はあなたと既に国を生んだ。どうして更に生むことを求めましょう。私は、この国にとどまって、一緒に行きません』といわれました」と言い、菊理媛も同じように言った。伊奘諾は、これを聞き、ほめて去った。今の人が忌むことに、先に妻が死んだとき、夫が殯の場所を避けるのは、これが始まりだろうか。いわゆる泉津平坂というのは、別のところにあるのではない。ただ死に臨んで息絶えそうなときをこういうのだろうか。出雲国の伊賊夜坂であるともいう。伊弉冉は、出雲の国と伯耆の国との境にある、比婆の山に葬った。伊弉冉は、紀伊の国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神の魂を祀るのには、花の時期に花でお祀りし、鼓・笛・旗を使って歌って舞ってお祀りする。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「尓伊耶那岐命造(告)桃子汝如助吾於葦原中國所有宇都志伎青人草之落苦瀬而患惚(悩)時可助告賜名号意富加牟豆美命(自意至美以音)最(宀)後其妹伊耶那美命身自追來焉尓千引石引塞其黄泉比良坂其石置中各對立而度事戸之時伊耶那美命言愛我那勢命爲如此者汝國之人草一日絞殺千頭尓伊耶那岐命詔愛我那迩妹命汝爲然者吾一日立千五百産屋是以一日必千人死一日必千五百人生也故号其伊耶那美神命謂黄泉津大神亦云以其追斯伎斯而号道敷大神亦所塞其黄泉坂之石者号道反之大神亦謂塞坐黄泉戸大神故其所謂黄泉比良坂者今謂出雲國之伊賦夜坂也」、【そこで伊邪那岐は、その桃の実に「お前は、私が助けたように、葦原の中国に有る宇都志伎青人草が、急な瀬に落ちて憂い苦しむ時に、助けた。」と告げて、名を与えて意富加牟豆美と名乗った。最後にその妻の伊邪那美は、自ら追い来った。ここで千引の石をその黄泉の比良坂に引き塞いで、その石を中心に置いて、互いに向かい合って立ち、言葉を交わした時、伊邪那美は「愛しい私の夫よ、このようにしたので、お前の国の人々が、日に千人の首を切って殺そう。」と言った。そこで伊邪那岐は「愛しい私の妻よ、お前がそのようにしたら、私は日に千五百の産所を建てよう。」と言った。そのため、日に必ず千人死に、日に必ず千五百人生まれる。それで、伊邪那美を名付けて黄泉津大神という。または、その折って来たものを、道敷大神と名付けた。また黄泉の坂で塞いだ石は、道反之大神と名付け、また塞いでいる黄泉戸大神ともいう。それで、その所謂、黄泉の比良坂は、今、出雲の国の伊賦夜坂という。】と訳した。

『舊事本紀』も『古事記』も撃退した桃の神を「意富迦牟都美」・「意富加牟豆美」すなわち意富神・津神と、隠岐と対馬の神と呼び、「なか」国の守り神としたと述べて、『舊事本紀』も『古事記』も、同じ神を祀り、「なか」国出身の王朝とここでは記述している。

通常『舊事本紀』も『古事記』も大神を使用しているが、この神にはあえて大神を使わず意富神が使われているのは、大国の神と分別していると考えられる。

そして、伊弉冉も黄泉津大神と大国の神と習合し、対馬が大国の配下となって、黄泉の軍を守る杖(王を象徴する)から生まれたのが岐神で、三貴神生みの神話が出来る基となったようである。

すなわち、この伊弉冉死後の説話は物部氏の出自の対馬の神話を付加したもので、軻遇突智が火の神とする『舊事本紀』の神話は『古事記』では「生火之夜芸速男神・・・亦名謂火之迦具土神」と迦が火を表しておらず、『日本書紀』では神武紀に登場し、『舊事本紀』の軻遇突智神話は火()を「か」と読む漢字が日本に入って来た後の説話で、『日本書紀』の神武紀に挿入したのは物部氏の神武天皇の説話を挿入したことを示している。

従って、『日本書記』の黄泉は対馬、『古事記』の黄泉は比婆山、『舊事本紀』の黄泉は熊野と述べ、『日本書紀』の伊弉冉の出身地は出雲国がまだ無く根国で天照の領地ではなく、将来出雲国になる地域で、根国は王朝の始まりとなる土地を述べていると考えられる。

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