2021年6月16日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段9

  次の一書は、一書(10)一書曰伊弉諾尊勅任三子曰天照大神者可以御髙天之原也月夜見尊者可以配日而知天事也素戔嗚尊者可以御滄海之原也既而天照大神在於天上曰聞葦原中國有保食神宜爾月夜見尊就候之月夜見尊受勅而降已到于保食神許保食神乃廻首嚮國則自口出飯又嚮海則鰭廣鰭狹亦自口出又嚮山則毛麁毛柔亦自口出夫品物悉備貯之百机而饗之是時月夜見尊忿然作色曰穢矣鄙矣寧可以口吐之物敢養我乎廼拔剱擊殺然後復命具言其事時天照大神怒甚之曰汝是惡神不湏相見乃與月夜見尊一日一夜隔離而住是後天照大神復遣天熊人往看之是時保食神實已死矣唯有其神之頂化爲牛馬顱上生粟眉上生蠒眼中生稗腹中生稻陰生麥及大豆小豆天熊人悉取持去而奉進之于時天照大神喜之曰是物者則顯見蒼生可食而活之也乃以粟稗麥豆爲陸田種子以稻爲水田種子又因定天邑君即以其稻種始殖于天狹田及長田其秋垂穎八握莫莫然甚快也又口裏含蠒便得抽絲自此始有養蠶之道焉保食神此云宇氣母知能加微顯見蒼生此云宇都志枳阿鳥比等久佐」、【一書に、伊奘諾は、三子に「天照は、高天の原を御しなさい。月の夜見は、日に配して天の事を知らせなさい。素の戔嗚は、滄海の原を御しなさい」と勅任した。既に天照は天の上流にいて「葦原の中國に保食の神がいると聞いている。そこで月の夜見が、就任しなさい」と言い、月の夜見は、勅命を受けて降った。既に保食の神の許に着いた。保食の神は、首を廻して國に向けたら、口から飯が出た。又、海に向けたら、鰭を廣げ・鰭を狹み、亦、口から出た。又、山に向けたら、毛の麁・毛の柔を亦、口から出た。その品物全て備へて、お膳に貯へて饗した。この時に、月の夜見は、忿然と色を作って「穢いな、いやしいな、どうして口から吐く物で、敢えて私に饗応する」と言い、すなわち劒を拔いて撃ち殺した。その後に、命を復して、つぶさにその事を言った。その時に天照は、怒ること甚しく「お前は悪い神だ。顔を見たくない」と言い、月の夜見と、一日一夜、隔て離れて住んだ。この後に、天照は、また、天の熊人を派遣して調べさせた。この時、保食の神は、本当にもう死んでいた。ただし其の神の頂が、牛馬に化っていた。ひたいの上に粟が生れ、眉の上に繭が生れ、眼の中に稗が生れた。腹の中に稻、陰に麥及び大小豆が生れた。天の熊人は、残らず取り持ち去ってささげた。その時に、天照は喜んで「この物は、うつくしく蒼々と生え、食べて活きるものだ」と言って、乃ち、粟稗麥豆は、陸の田の種とした。稻を水田の種とした。又、それで、天の邑の王を定めた。即ちその稻種を、始めて天の狹の田及び、長の田に植えた。その秋には穎が垂れ下がり、八握に実って、とても快よかった。又、口の裏に繭を含んで絲に抽くことが出来た。これで始めて養蠶の道が出来た。保食神、を「うけもちのかみ」という。顯見蒼生、を「うつしきあをひとくさ」という。】と訳した。

この一書は『山海經』の対馬と思われる「在巫咸北兩女子」の女子國のその後の神話で、天照が追放された神話の様で、その場所を高国に書き換え、高国は既に農耕や牧畜・養蚕を行っていた国で、その種や卵や子牛や仔馬を手に入れたようだ

『山海經』では『海外東經』に八岐大蛇の出身地と考えられる「朝陽之谷」の北に「青丘國」に「五穀衣絲帛」、紀伊半島から北の太平洋岸の『大荒東經』に「三青馬」に「百穀所在」、紀伊半島から西の瀬戸内を含む『大荒南經』に「臷民之國」が「百穀所聚」、「焦僥之國」と隠岐と思われる「周饒國・焦僥國」の分国に「嘉穀是食」、「類之山」に「百穀所在」が有り、穀は耕すから穀で野草は穀とは言えず、「焦僥之國」か「青丘國」が高国に相応しそうである。

これまで検証した通り、国生み神話、神生み神話は本来それぞれの氏族の先祖の女神の子が支配者となり、男神はその女神に婿入りして、その子が女神の国の支配者となり、その娘が後を継ぎ、男は国を出て、新たな支配先を求めて天降ると考えられる。

伊弉諾・伊弉冉の神話は常立の国から伊弉諾が伊弉冉の国の一地域の磤馭慮嶋に来て、その子の日孁がその国の王となり、男の蛭子や素戔嗚を島外に追放して新たな伊弉諾となって、伊弉冉を探して新たな日孁を生む神話を意味する。

そして、素戔嗚は根国に天降って、『古事記』で足名椎・手名椎の跡取りの「櫛名田比賣」に入り婿し、その子が支配したのが「奴美」で、野見宿祢の「奴美」と考えられ、その子孫が大国主で、その大国主には別名がたくさん有って、多くの氏族の祖神を融合させた。

また、女王の伊弉冉が軻遇突智に代表される反逆者に殺されることで、国が纏まらず3国や5国や8国に分国してしまうという、日本の国の成り立ちを神話であらわされ、女王が氏族や国を纏めていることを示している。

『日本書紀』には、一説に伊奘諾は淡路に葬られ、他の説では天に上り復命し、日の少宮に留ったとあり、『日本書紀』の神話を最初に書いた葛城氏の建内宿禰の母方は『古事記』に「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」と建内宿禰が生まれたときはまだ木國造ではなく、葛城襲津彦が『日本書紀』を記述した葛城氏の神武天皇なので、 母影日賣の父珍彦が伊弉諾にあたり、九州曲浦より淡路に移り住み、この説話が記述されたと思われる。

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