一書(6)は続けて、「・・・後伊弉諾尊追伊弉冉尊入於黃泉而及之共語時伊弉冉尊曰吾夫君尊何来之晩也吾已湌泉之竈矣雖然吾當寢息請勿視之伊弉諾尊不聽陰取湯津爪櫛牽折其雄柱以爲秉炬而見之者則膿沸虫(蟲)流今世人夜忌一片之火又夜忌擲櫛此其縁也時伊弉諾尊大驚之曰吾不意到於不湏也凶目汗(汚)穢之國矣乃急走廻歸于時伊弉冉尊恨曰何不用要言令吾恥辱乃遣泉津醜女八人(一云泉津日狹女)追留之故伊弉諾尊拔剱背揮以逃矣因投黑鬘此即化成蒲陶醜女見而口採噉之噉了則更追伊弉諾尊又投湯津爪櫛此即化成筍醜女亦以拔噉之噉了則更追後則伊弉冉尊亦自来追是時伊弉諾尊已到泉津平坂一云伊弉諾尊乃向大樹放尿此即化成巨川泉津日狹女将渡其水之間伊弉諾尊已至泉津平坂故便以千人所引磐石塞其坂路與伊弉冉尊相向而立遂建絶妻之誓時伊弉冉尊曰愛也吾夫君言如此者吾當縊殺汝所治國民日将千頭伊弉諾尊乃報之曰愛也吾妹言如此者吾則當産日将千五百頭因曰自此莫過即投其杖是謂岐神也又投其帶是謂長道磐神又投其衣是謂煩神又投其褌是謂開囓神又投其履是謂千(道)敷神其於泉津平坂或所謂泉津平坂者不復別有處所但臨死氣絶之際是之謂歟所塞磐石是謂泉門塞之大神也亦名道返大神矣・・・」、【その後に、伊奘諾は、伊奘冉を追って、黄泉に入って共に語った。その時に伊奘冉が、「あなたは、どうしてのんびりやって来たのです。私は、すでに泉の竈のものを食べた。それで、もう寝りについた。もう見ないで」と言った。伊奘諾は、聞かずに、陰で湯津の爪櫛を取って、その雄柱を牽き折って、松明にして見たら、膿が流れて蟲がわいていた。今、世の人が、夜一片の火を忌んだり、夜擲櫛を忌む縁だ。その時に伊奘諾は、大変驚いて、「私は、けがれた汚穢の國に来たとしらなかった」と言い、急いで走げ帰った。その時に、伊奘冉は、「どうして約束を守らないで、恥をかかせた」と恨み事を言って、泉津醜女八人、(あるいは、泉津日狹女という)を派遣して追い留めた。それで、伊奘諾は、劒を拔いて後ろに振り回して逃げた。それで、黒鬘を投げた。これが、蒲陶に化った。醜女、見て採って食べた。食べ終わってさらに追った。伊奘諾は、又、湯津爪櫛を投げた。これが筍に化った。醜女はまた拔いて食べた。食べ終わって更に追った。後で伊奘冉も自ら追って来た。この時に、伊奘諾は、すでに泉津平坂についた。そして、伊奘諾は、大樹に向って尿を放った。これが巨川と化った。泉津日狹女はその水を渡ろうとする間に、伊奘諾は、すでに泉津平坂に至った。それで千人引所の磐石で、その坂路に塞いで、伊奘冉と向かいあって立って、絶縁の誓を言った。その時に、伊奘冉が「愛しき旦那様、そう言うなら、お前が治める国民を、日に千人絞め殺そう」と言った。伊奘諾は、「愛しきお前、そう言うなら、私は日に千五百人産もう」と答えた。それで、「ここを越えて来るな」と言い、その杖を投げた。これを岐の神という。又、その帶を投げた。これを長道の磐の神という。又、その衣を投げた。これを煩の神という。又、その褌を投げた。これを開囓の神という。又、その履を投げた。これを道敷の神という。その泉津平坂で、あるいは、泉津平坂というのは、復、他には無い、但死に臨んで氣が絶える際をいうとある。塞がる磐石というのは、この泉の門を塞ぐ大神をいう。亦の名は道返の大神という。】と訳した。
「岐神」の「岐」は国のことで、『古事記』では伊弉諾を伊耶那岐と書き、最初は海の女神と岐の男神と考えられ、『舊事本紀』で「岐神」が「経津主・武甕槌」の先導役になった神話は神武東侵でも流用され、この説話は「高皇産霊」が大人国の「大巳貴」に国譲りを迫った事代主の神話のようだ。
「ふなと」神を「岐神」と表意文字にしたのは、港が国の象徴でそれを「国」神としたが、中国ではその国神を君子と記述し、日本では岐神子と呼んだと考えられ、君子国は岐神国を意味し、神武建国は君子国すなわち三国王三嶋溝杭が八国の野洲王八重事代主に支配され、その結果、事代主の婿が天皇になり、君子国の三国王に冠位の主を与えた結果、君主国となり、「八国」は神倭(みや)国となったとおもわれ、葛城氏はその配下となった。
経津主も同時期、武甕槌は溝杭の曽孫の建甕尻が「亦名建甕槌」と呼ばれ、母系が出雲臣で、その子豊御氣主は紀伊名草姫を娶って紀伊に入って、その子大御氣主は大八王と姻戚になり、八咫鏡の亦名で眞經津鏡と多紐文鏡若しくは三角縁神獣鏡と関係が有りそうである。
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