2021年3月31日水曜日

最終兵器の目 持統天皇16

 日本書紀 慶長版は

「十年春正月甲辰朔庚戌饗公卿大夫甲寅以直大肆授百濟王南典戊午進御薪巳未饗公卿百寮人等辛酉公卿百寮射於南門二月癸酉朔乙亥幸吉野宮乙酉至自吉野三月癸夘朔乙巳幸二槻宮甲寅越度嶋蝦夷伊奈理武志與肅愼志良守叡草錦袍袴緋紺絁斧等夏四月壬申朔辛巳遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神戊戌以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石幷賜人絁四匹絲十絇(口→ム)布二十端鍬二十口稻一千束水田四町復戸調役以慰久苦唐地巳亥幸吉野宮五月壬寅朔甲辰詔大錦上秦造綱手賜姓爲忌寸乙巳至自吉野己酉以直廣肆授尾張宿祢大隅幷賜水田四十町甲寅以直廣肆贈大狛連百枝幷賜賻物六月辛未朔戊子幸吉野宮丙申至自吉野秋七月辛丒朔日有蝕之壬寅赦罪人戊申遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神庚戌後皇子尊薨八月庚午朔甲午以直廣壹授多臣品治幷賜物褒美元從之功與堅守關事九月庚子朔甲寅以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬幷賜賻物以顯元從之功冬十月巳巳朔乙酉賜右大臣丹比真人輿杖以哀致事庚寅假賜正廣參位右大臣丹比真人資人一百二十人正廣肆大納言阿倍朝臣御主人大伴宿祢御行並八十人直廣壹石上朝臣麿直廣貳藤原朝臣不比等並五十人十一月巳亥朔戊申賜大官大寺沙門辨通食封三十戸十二月巳巳朔勅旨縁讀金光明經毎年十二月晦日度淨行者一十人」

【十年の春正月の甲辰が朔庚戌の日に、公卿や高官達を饗応した。甲寅の日に、直大肆を、百済王の南典に授けた。戊午の日に、薪を進上した。己未の日に、公卿・役人達を饗応した。辛酉の日に、公卿や役人達が、南門で矢を射た。二月の癸酉が朔の乙亥の日に、吉野の宮に行幸した。乙酉の日に、吉野から帰った。三月の癸卯が朔の乙巳の日に、二槻の宮に行幸した。甲寅の日に、越の度の嶋の蝦夷の伊奈理武志と、肅愼の志良守の叡草とに、錦の上着と袴・薄赤紫色の緋紺の太絹・斧等与えた。夏四月の壬申が朔の辛巳の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神とをお祭りさせた。戊戌の日に、追大貳を、伊豫の国の風速郡の人の物部の藥と、肥後の国の皮石の郡の人の壬生の諸石とに授けた。あはせて人毎に太絹四匹・絹糸十すが・布二十端・鍬二十口・稲千束・水田四町を与えた。家への追加の強制労働を元に戻した。これで長く唐の地で苦しんだことをねぎらった。己亥の日に、吉野の宮に行幸した。五月の壬寅が朔の甲辰の日に、大錦上の秦造の綱手に詔勅して、姓を与えて忌寸とした。乙巳の日に、吉野から帰った。己酉の日に、直廣肆を、尾張の宿禰の大隅に授けた。あはせて水田四十町与えた。甲寅の日に、直廣肆を、大狛の連の百枝に贈って遺族に物を与えた。六月の辛未が朔の戊子の日に、吉野の宮に行幸した。丙申の日に、吉野から帰った。秋七月の辛丑が朔の日に、日食があった。壬寅の日に、罪人を赦免した。戊申の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神とをお祭りさせた。庚戌の日に、後の皇子の尊が薨じた。八月の庚午が朔の甲午の日に、直廣壹を、多の臣の品治に授けた。あはせて物を与えた。最初から奉公した功績と関所を堅く守ったことを褒賞した。九月の庚子が朔の甲寅の日に、直大壹を、若櫻部の朝臣の五百瀬に贈って、あはせて遺族に贈り物を与えた。これは最初から奉公した功績を顕彰した。冬十月の己巳が朔の乙酉の日に、右大臣の丹比の眞人に輿・杖を与えた。これは官職を退いて引退することを哀しんでのことだ。庚寅の日に、仮に、正廣參位の右大臣の丹比の眞人に、近習を百二十人与えた。正廣肆の大納言の阿倍の朝臣の御主人・大伴の宿禰の御行には、ともに八十人。直廣壹の石上の朝臣の麻呂・直廣貳の藤原の朝臣の不比等には、ともに五十人。十一月の己亥が朔の戊申の日に、大官大寺の沙門の辨通に、四十戸を封じた。十二月の己巳が朔の日に、詔勅して、金光明経を読経させたので、年毎の十二月の晦日の日に、けがれない修行者十人を出家させた。】とあり、五月壬寅朔は5月2日、十月己巳朔は9月30日で4月が小の月なので大の月なら、また9月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。

「日有蝕之」は『日本書紀』に11回出現し、その内、推古天皇三六年三月丁未朔戊申、舒明天皇九年三月乙酉朔丙戌は天文学的には日蝕が有った日が朔で1日は晦日にあたり、その間の舒明天皇八年春正月壬辰朔は朔の日で、前日は12月29日で小の月だ。

この間の暦が平朔法なら、16.36ヶ月に1回大の月が多いのだから、3279日111ヶ月あるので6~7ヶ月、大の月が多くなるはずが、『日本書紀』では大小のペア59日で除算した余りが34で、111ヶ月と奇数月なので大の月の余なら4、小の月の余なら5日で4~5日しか大の月が多くならないので、平朔法と推定できない。

日食は『漢書』や『後漢書』の三国時代より前は天文学的にも干支も朔の日に発生しているが晦日に発生したと記述し、朔は晦日の次の、天文学的にも干支でも2日を朔と記述し、『三国史記』は中国史書をそのまま流用している。

ところが、『三国史記』の592年に百済威德王三十九年「秋七月壬申晦日有食之」は本来8月1日の癸酉に日食が有ったはずなのに晦日の日干支を記述し、『舊唐書』には661年龍朔元年に「五月甲子晦日有蝕之」と6月1日の日干支を晦日と記述し、これは百済と友好関係をもつ国が朔を晦日とし、661年の敵国記事の日食を唐がそのまま流用した可能性が高い。

その唐の敵国で百済の友好国は倭で、推古・舒明紀は倭国王朝の記事で、その倭国の晦日の日食記事を俀国王朝の天智天皇は、倭国の30日が晦日と考えて、628年と637年2月の日食は3月1日が晦日とするため3月2日が朔と判断して日食の日と記述、舒明八年636年1月の日食は倭国以外の資料を使った可能性もある。

倭国は漢の時に漢の臣下となったので、朔を晦日とする習慣を持ち、俀国は隋と決裂して新羅と友好関係となったので、新羅と同じく朔を1日とする習慣が出来たと考えられ、『日本書紀』の朔日がズレた記事は倭国記事の可能性が高く、朔日がズレた記事は倭国の有った九州では俀国王朝になった後も朔日がズレた資料を残したのではないだろうか。

『日本書紀』の日干支は暦法によるものではなく、殷からはじまる日干支や周の武王の父文王が『史記』發の項に「改法度制正朔矣」、「十一年十二月戊午」と月の周期で1から12月を制定し、その方法が日本にも伝わり記録として残ったものと思われる。

中国には周以降晦日が朔ではない朔日を朔とする勢力もあり、その中に畿内日本も含まれ、周の影響下の晦日が朔の九州の記録を併せて、『日本書紀』の記録となったと思われる。

2021年3月29日月曜日

最終兵器の目 持統天皇15

 日本書紀 慶長版は

「九年春正月庚辰朔甲申以淨廣貳授皇子舍人丙戌饗公卿大夫於內裏甲午進御薪乙未饗百官人等丙申射四日而畢閏二月己夘朔丙戌幸吉野宮癸巳車駕還宮三月戊申朔己酉新羅遣王子金良琳補命薩飡朴強國等及韓奈琳()金周漢金忠仙等奏請國政且進調獻物己未幸吉野宮壬戌天皇至自吉野庚午遣務廣貳文忌寸博勢進廣參下譯語諸田等於多祢求蠻所居夏四月戊寅朔丙戌遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神甲午以直廣參贈賀茂朝臣蝦夷幷賜賻物(本位勤大壹)以直大肆贈文忌寸赤麿幷賜賻物(本位大山中)五月丁未朔己未饗隼人大隅丁夘觀隼人相撲於西槻下六月丁丒朔己夘遣大夫謁者詣京師及四畿內諸社請雨壬辰賞賜諸臣年八十以上及痼疾各有差甲午幸吉野宮壬寅至自吉野秋七月丙午朔戊辰遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神辛未賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野務大貳伊吉連博德等物各有差八月丙子朔已亥幸吉野乙巳至自吉野九月乙巳朔戊申原放行獄徒繋庚戌小野朝臣毛野等發向新羅十月乙亥朔乙酉幸菟田吉隱丙戌至自吉隱十二月甲戌朔戊寅幸吉野宮丙戌至自吉野賜淨大肆泊瀬王賻物」

【九年の春正月の庚辰が朔の甲申の日に、淨廣貳を、皇子の舍人に授けた。丙戌の日に、公卿と高官を内裏で饗応した。甲午の日に、薪を進上した。乙未の日に、役人たちを饗応した。丙申の日に、矢を射させた。四日かかって終了した。閏二月の己卯が朔が丙戌の日に、吉野の宮に行幸した。癸巳の日に、天皇が、宮に帰った。三月の戊申が朔の己酉の日に、新羅は、王子の金良琳・補命の薩飡の朴強國達、および韓奈麻の金周漢・金忠仙達を派遣して、国の政策の相談を要請した。また、進んで年貢に物産を献上した。己未の日に、吉野の宮に行幸した。壬戌の日に、天皇は、吉野から帰った。庚午の日に、務廣貳の文の忌寸の博勢・進廣參の下の譯語の諸田達を多禰に派遣して、蛮族の居住地を調べさせた。夏四月の戊寅が朔の丙戌の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神とをお祭りさせた。甲午の日に、直廣參を、賀茂の朝臣の蝦夷に贈ってあはせて遺族に物を贈った。(本の位は勤大壹)。直大肆を、文の忌寸の赤麻呂に贈って、あはせて遺族に物を贈った。(元の位は大山中)。五月の丁未が朔の己未の日に、隼人大隅を饗応した。丁卯の日に、隼人の相撲を西のケヤキの木の下で観戦した。六月の丁丑が朔の己卯の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、京および四の畿内の諸社に参拝させて雨乞いをした。壬辰の日に、諸臣の年齢八十以上および長期間病に臥せっている人(?戦傷者)に各々差を付けて与えた。甲午の日に、吉野の宮に行幸した。壬寅の日に、吉野から帰った。秋七月の丙午が朔の戊辰の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神とをお祭りさせた。辛未の日に、新羅に派遣する使者の直廣肆の小野の朝臣の毛野・務大貳の伊吉の連の博徳達に物を各々差を付けて与えた。八月の丙子が朔の己亥の日に、吉野に行幸した。乙巳の日に、吉野から帰った。九月の乙巳が朔の戊申の日に、監獄の囚人や労役の囚人を解放した。庚戌の日に、小野の朝臣の毛野達が、新羅に出発した。冬十月の乙亥が朔の乙酉の日に、菟田の吉穩に行幸した。丙戌の日に、吉穩から帰った。十二月の甲戌が朔の戊寅の日に、吉野の宮に行幸した。丙戌の日に、吉野から至った。淨大肆の泊瀬王の家族に物を贈った。】とあり、七月丙午朔は6月30日、九月乙巳朔は8月30日で6月と8月が小の月なら標準陰暦と合致し、潤二月己卯朔は2月28日が春分で3月29日晦日が穀雨で晦日が朔の地域では3月29日は4月1日に変換され、3月が閏月となり、三月己卯朔は閏二月己卯朔になり、他は標準陰暦と合致する。

このように、元明天皇は2種以上の資料をまとめて『日本書紀』を完成させていて、一方の資料は月毎の中気や朔日・晦日の日干支を残した資料が有り、もう一方には次項で述べる古い周時代から中国の晦日を朔とする長い歴史を持つ資料が有ったことが類推される。

小野朝臣毛野は『続日本紀』和銅七年に「中納言從三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨小治田朝大徳冠妹子之孫小錦中毛人之子也」と714年に薨じ、從三位は6番目の地位で父毛人は大紫から数えて7番目、妹子は推古天皇十五年「大禮小野臣妹子遣於大唐」と唐に行った時は5番目の大禮で、薨去時は最高位の大徳としている。

『小野毛人墓誌』には「小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年に薨じ、地位は『続日本紀』と「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上」のように異なるが、恐らく敗れたほうの王朝での地位なのだろう。

問題は小野毛人の7番目という地位の低さで、毛野との死亡時の差が37年で20年近く若死で40歳ころの死亡と考えられ、すると、小野妹子は推古天皇十五年の遣唐使では年齢が合致せず、630年代の遣唐使と証明され、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「小治田大宮治天下大王天

皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」とあるように小治田天皇が667年に存在し、36年間小治田宮があったとすると、631年から小治田宮が有り、推古15年は641年の貞觀十五年の唐来日時に「唐客裴世清罷歸則復以小野妹子臣爲大使」と妹子が翌年送使で訪唐して蘇因高を号し、妹子遣唐使は654年の永徽五年で妹子が660年代の死亡ならよく合致する。

2021年3月26日金曜日

最終兵器の目 持統天皇14

  日本書紀 慶長版は

八年春正月乙酉朔丙戌以正廣肆授直大壹布勢朝臣御主人與大伴宿祢御行増封人二百戸通前五百戸並爲氏上辛丑饗公卿等己亥進御薪庚子饗百官人等辛丒漢人奏請蹈歌五位以上射壬寅六位以下射四日而畢癸夘唐人奏蹈歌乙巳幸藤原宮即日還宮丁未以務廣肆等位授大唐七人與肅愼二人戊申幸吉野宮三月甲申朔日有蝕之乙酉以直廣肆大宅朝臣麻呂勤大貳臺忌寸八嶋黃書連本實等拜鑄錢司甲午詔曰凢以無位人任郡司者以進廣貳授大領以進大參授小領巳亥詔曰粤以七年歲次癸巳醴泉?()於近江國益湏郡都賀山諸疾病停宿益湏寺而療差者衆故入水田四町布六十端原除益湏郡今年調役雜傜國司頭至目進位一階賜其初驗醴泉者葛野羽衝百濟土羅々女人絁二匹布十端鍬十口乙巳奉幣於諸社丙午賜神祇官頭至祝部等一百六十四人絁布各有差夏四月甲寅朔戊午以淨大肆贈筑紫大宰率河內王幷賜賻物庚申幸吉野宮丙寅遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神丁亥天皇至自吉野宮庚午贈律師道灮賻物五月癸未朔戊子饗公卿大夫於內裏癸巳以金光明經一百部送置諸國必取毎年正月上玄讀之其布施以當國官物(?死:充)之六月癸丒朔庚申河內國更荒郡獻白山鶏賜更荒郡大領小領位人一級幷賜物以進廣貳賜獲者刑部造韓國幷賜物秋七月癸未朔丙戌遣巡察使於諸國丁酉遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神八月壬子朔戊辰爲皇女飛鳥度沙門一百四口九月壬午朔日有蝕之乙酉幸吉野宮癸夘以淨廣肆三野王拜筑紫大宰率冬十月辛亥朔庚午以進大肆賜獲白蝙蝠者飛騨國荒城郡弟國郡弟日幷賜絁四匹綿四屯布十端其戸課役限身悉免十一月辛巳朔丙午赦殊死以下十二月庚戌朔乙夘遷居藤原宮戊午百官拜朝巳未賜親王以下至郡司等絁緜布各有差辛酉宴公卿大夫

【八年の春正月の乙酉が朔の丙戌の日に、正廣肆を、直大壹の布勢の朝臣の御主人と大伴の宿禰の御行とに授けた。二百戸を増やして以前からと併せて五百戸に増封し、ならびに氏上にした。辛卯の日に、公卿達を饗応した。己亥の日に、薪を献上した。庚子の日に、役人達を饗応した。辛丑の日に、漢人達が、足で地を踏み拍子をとる舞踊を奏上し五位以上が矢を射た。壬寅の日に、六位以下が矢を射た。四日かけて終了した。癸卯の日に、唐人が、足で地を踏み拍子をとる舞踊を奏上した。乙巳の日に、藤原の宮に行幸した。その日に、宮に帰った。丁未の日に、務廣肆などの位を、大唐の七人と肅愼の二人に授けた。戊申の日に、吉野の宮に行幸した。三月の甲申が朔の日に、日食が有った。乙酉の日に、直廣肆の大宅の朝臣の麻呂・勤大貳の臺の忌寸の八嶋・黄書の連の本實達を、貨幣鋳造の役人にした。甲午の日に、「全ての位が無い人を、郡司が任命したら、進廣貳を大領に授け、進大參を小領に授けなさい」と詔勅した。己亥の日に、「歳次が癸巳の七年に、おいしい湧き水が、近江国の益須の郡の都賀山に涌いた。諸々の病人が、益須の寺に宿泊して、療養する者が多い。それで水田四町・布六十端を寺に与えなさい。益須の郡の今年の強制労働・雑役を免除しなさい。国司の長官から四等官までに、位を一階進めなさい。その最初にうまい湧き水を飲んだ葛野の羽衝・百済の土羅羅女に、人毎に太絹二匹・布十端・鍬十口をあたえなさい」と詔勅した。乙巳の日に、ごへいを諸社に奉納した。丙午の日に、神祇官の頭目から祝部達まで、百六十四人に太絹・布を各々差をつけて与えた。夏四月の甲寅が朔の戊午の日に、淨大肆を、筑紫の大宰の率の河内王に贈り、あはせて遺族に物を贈った。庚申の日に、吉野の宮に行幸した。丙寅の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祭らせた。丁亥の日に、天皇は吉野の宮から帰った。庚午の日に、律師の道光の遺族に物を贈った。五月の癸未が朔の戊子の日に、公卿と高官を内裏で饗応した。癸巳の日に、金光明経百部を、諸国に送って配置させた。必ず毎年の、正月の上玄の日読経しなさい。その布施は、その国への収入としなさい。六月の癸丑が朔の庚申の日に、河内国の更荒の郡が、白いキジを献上した。更荒の郡の大領・少領に、人毎に一級進めた。あはせて物を与えた。進廣貳を、捕獲した刑部の造の韓國に授けて、あわせて物与えた。秋七月の癸未が朔の丙戌の日に、巡察使を諸国に派遣した。丁酉の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神をお祭りさせた。八月の壬子が朔の戊辰の日に、皇女の飛鳥の為に、僧侶百四人を出家させた。九月の壬午が朔の日に、日食が有った。乙酉の日に、吉野の宮に行幸した。癸卯の日に、淨廣肆の三野王を、筑紫の大宰の率にした。冬十月の辛亥が朔の庚午の日に、進大肆を、白いコウモリを捕獲した飛騨の国の荒城の郡の弟國部の弟日に与えた。あわせて太絹四匹・綿四屯・布十端を与えた。その戸の強制労働は、一代に限って残らず免除した。十一月の辛巳が朔の丙午の日に、死罪以下を赦免した。十二月の庚戌が朔の乙卯の日に、藤原の宮に遷都した。戊午の日に、役人が朝拝した。己未の日に、親王以下、郡司達までに太絹・綿・布を各々差をつけて与えた。辛酉の日に、公卿と高官の為に宴席を設けた。】とあり、五月癸未朔は4月30日で、4月が小の月なら標準陰暦と合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。

吉野宮行幸は応神天皇1回、雄略天皇2回、天武天皇八年1回、持統三年2回、四年5回、五年4回、六年3回、七年5回、八年3回、九年4回、十年3回、十一年1回と持統天皇の行幸が群を抜いて遂行されている。

ところが、『続日本紀』では大宝元年六月「太上天皇幸吉野離宮」、文武天皇は大宝元年二月、大宝二年七月の2回で698年から701年まで持統天皇の行幸が行われていないが、在位期間中29回も行幸したのに天武天皇を忘れてしまって退位したら後1回というのは奇妙で、実際は大宝元年が最初の行幸とすると、天武八年は大化八年702年の行幸となり、持統三年は701年に天武天皇がクーデターで失脚した701年を元年とした總持天皇三年703年の行幸となり、持統十一年は大長八年の行幸、この年に大長年号が終了する。

701年の文武天皇行幸は、向かうときは吉野離宮が帰りは吉野宮、702年の行幸は帰りを記述しておらず、どちらも7月で701年の太上天皇がクーデターで帰れず、大宝元年七月壬辰「壬申年功臣隨功等第亦賜食封」と贈ではなくて「賜村國小依」と生前の賜で、小依が生きている可能性が高い。

大宝元年三月甲午「建元爲大寶元年」と建元し、大宝元年三月甲午「直廣壹藤原朝臣不比等正正三位」と10番目から5番目と大出世し、この時クーデターが発生したことが解る。

吉野宮は斉明天皇二年に「後飛鳥岡本宮」を作ったときに一緒に造られていて、この時期の飛鳥は筑後平野の明日香と考えられ、その離宮が吉野宮で、クーデターがあった飛鳥浄御原も筑紫都督府近辺にあり、7日程度で行き来でき、『古事記』「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期」と天武天皇の時に潜んでいた文武天皇が電光石火に蜂起したと記述して、よく対応している。

2021年3月24日水曜日

最終兵器の目 持統天皇13

 『日本書紀』慶長版は

「六月巳未朔已未詔髙麗沙門福嘉還俗壬戌以直廣肆授引田朝臣廣目守君苅田巨勢朝臣麿葛原朝臣臣麿巨勢朝臣多益湏丹比真人池守紀朝臣麿七人秋七月戊子朔甲午幸吉野宮巳亥遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神辛丑遣大夫謁者詣諸社祈雨癸夘遣大夫謁者詣諸社請雨是日天皇至自吉野八月戊午朔幸藤原宮地甲戌幸吉野宮戊寅車駕還宮九月丁亥朔日有蝕之辛夘幸多武嶺壬辰車駕還宮丙申爲清御原天皇設無遮大會於內裏繋囚悉原遣壬寅以直廣參贈蚊屋忌寸木間幷賜賻物以褒壬申年之役功冬十月丁巳朔戊午詔自今年始於親王下至進位觀所儲兵淨冠至直冠人甲一領大刀一口弓一張矢一具鞆一枚鞍馬勤冠至進冠人大刀一口弓一張矢一具鞆一枚如此預備巳夘始講仁王經於百國四日而畢十一月丙戌朔庚寅幸吉野宮壬辰賜耽羅王子佐平等各有差乙未車駕還宮已亥遣沙門法員善往真義等試飲近江國益湏郡醴泉戊申以直大肆授直廣肆引田朝臣少麿仍賜食封五十戸十二月丙辰朔丙子遣陣法博士等教習諸國」

六月の己未が朔の日に、高麗の僧の福嘉に詔勅して還俗させた。壬戌の日に、引田の朝臣の廣目・守君の苅田・巨勢の朝臣の麻呂・葛(?)原の朝臣の臣麻呂・巨勢の朝臣の多益須・丹比の眞人の池守・紀の朝臣の麻呂の七人に直廣肆を授けた。秋七月の戊子が朔の甲午の日に、吉野の宮に行幸した。己亥の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神とをお祭りさせた。辛丑の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、諸社に参詣して雨乞いをさせた。癸卯の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、諸社に参詣して雨乞いをさせた。この日に、天皇は、吉野から帰った。八月の戊午が朔の日に、藤原の宮地に行幸した。甲戌の日に、吉野の宮に行幸した。戊寅の日に、天皇が宮に帰った。九月の丁亥が朔の日に、日食が有った。辛卯の日に、多武の嶺に行幸した。壬辰の日に、天皇が、宮に帰った。丙申の日に、清御原天皇の為に、だれにでも財施・法施を行う大法会を内裏で開いた。囚人を残らず野に放った。壬寅の日に、直廣參を、蚊屋の忌寸の木間に贈った。あはせて遺族に物を贈った。これで壬申の年の役の功績の褒美とした。冬十月の丁巳が朔の戊午の日に、「今年より、親王から、下の進位までに、相続した軍を観閲した。淨冠から直冠までは、人毎に甲冑一領・大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚・鞍馬、勤冠までには、人毎に大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚、このようにあらかじめ備えなさい」と詔勅した。己卯から始めて、仁王経を百国で読経させた。四日かかって終了した。十一月の丙戌が朔の庚寅の日に、吉野の宮に行幸した。壬辰の日に、耽羅の王子や佐平達に各々差をつけて与えた。乙未の日に、天皇は宮に帰った。己亥の日に、僧の法員の善往・眞義達を派遣して、試に近江国の益須の郡のおいしい湧き水を飲まさせた。戊申の日に、直大肆を、直廣肆の引田の朝臣の少麻呂に授けた。なお、五十戸を与えた。十二月の丙辰が朔の丙子の日に、陣立ての博士達を派遣して、諸国に教習した。】とあり、標準陰暦と合致する。

前項で蘇我山田石川麻呂が宗賀倉王と記述したが、すると、宗賀倉王は孫の持統天皇が703年崩じ石川麻呂が壬申の乱後の孝徳天皇に滅ぼされているので、持統天皇は610年頃の誕生の計算になる。

『大村骨臓器銘文』に「檜前五百野宮御宇天皇之四世後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第三子也」と猪名眞人大村は706年に薨じ、持統天皇と同年代で、父威奈鏡公が「天皇初娶鏡王女額田姫王」と記述されているので額田姫王は大村と兄弟で白鳳を建元したと思われる鏡姫王は恐らく鏡王の兄弟の可能性がある。

前五百野宮御宇天皇の子で威奈鏡公の父は『日本書紀』では「上殖葉皇子亦名椀子」で、『古事記』には記述されず、『古事記』ではおそらく豊御気炊屋比売の兄の椀子と同名の麻呂古王と思われ、年代もピッタリで、豊御気炊屋比売命の生まれたところが鏡と言う地域だったと考えられる。

そして、豊御気炊屋比売が名目上の建元する地位であったが、『日本書紀』の「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」に対して、『古事記』の「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と 太子の子の岡本宮天皇に対し、太子でない、『日本書紀』に書かれない系図と『古事記』に書かれない系図の皇位継承があったのであり、『古事記』は文武天皇の先代の現代史であった。

2021年3月22日月曜日

最終兵器の目 持統天皇12

  日本書紀 慶長版は

七年春正月辛夘朔壬辰以淨廣壹授皇子髙市淨廣貳授皇長與皇子弓削是日詔令天下百姓服黃色衣奴皁衣丁酉饗公卿大夫等癸夘賜京師及畿內有位年八十以上人衾一領絁二匹緜二屯布四端乙巳以正廣參贈百濟王善光幷賜賻物丙午賜京師男女年八十以上及困乏窮者布各有差賜舩瀬沙門法鏡水田三町是日漢人等奏蹈歌二月庚申朔壬戌新羅遣沙飡金江南韓奈麻金陽元等來赴王喪己巳詔造京司衣縫王等收所掘尸巳丒以流來新羅人牟自毛禮等三十七人付賜憶德等三月庚寅朔日有蝕之甲午賜大學博士勤廣貳上村主百濟食封三十戸以優儒道乙未幸吉野宮庚子賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物壬寅天皇至自吉野宮乙巳賜擬遣新羅使直廣肆息長真人老勤大貳大伴宿祢子君等及學問僧弁通神叡等絁綿布各有差又賜新羅王賻物丙午詔令天下勸殖桑紵梨栗蕪菁等草木以助五穀夏四月庚申朔丙子遣大夫謁者詣諸社祈雨又遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神辛巳詔內藏寮?(久:允)大伴男人坐贓降位二階解見任官典鑰置姶多久與菟野大伴亦坐贓降位一階解見任官監物巨勢邑治雖物不入於巳知情令盜之故降位二階解見任官然置始多久有勤勞於壬申年役之故赦之伹贓者依律徵納五月己丒朔幸吉野宮乙未天皇至自吉野宮癸卯設無遮大會於內裏

七年の春正月の辛卯が朔の壬辰の日に、淨廣壹を、皇子の高市に授けた。淨廣貳を、皇(?)の長と皇子の弓削とに授けた。この日に、詔勅して天下の百姓に、黄色の衣を着させ、しもべは灌木の樹皮などで染めた焦茶色の衣を着させた。丁酉の日に、公卿や高官達を饗応した。癸卯の日に、京師および畿内の、位が有って年齢八十以上の人毎に寝具一領・太絹二匹・綿二屯・布四端を与えた。乙巳の日に、正廣參を、百済王の善光に贈りあわせてその遺族に物を贈った。丙午の日に、京の男女の、年齢八十以上、および困窮している者に布を各々差をつけて与えた。船瀬の僧侶の法鏡に水田三町与えた。この日に、漢人達が、足で地を踏み拍子をとる舞踊を奏上した。二月の庚申が朔の壬戌の日に、新羅は、沙飡の金江南・韓奈麻の金陽元達を派遣して王の喪の報告に来た。己巳の日に、京を造る責任者の衣縫王達に詔勅して、掘った死体を収容した。己丑の日に、漂着した新羅人の牟自毛禮達三十七人を、憶徳達に従わせた。三月の庚寅が朔の日に、日食が有った。甲午の日に、大学の博士の勤廣貳の上村の主の百濟に、三十戸を与えた。これで儒学の道に専念させた。乙未の日に、吉野の宮に行幸した。庚子の日に、直大貳の葛(?)原の朝臣の大嶋の遺族に物を贈った。壬寅の日に、天皇は、吉野の宮から帰った。乙巳の日に、新羅に派遣する直廣肆の息長の眞人の老・勤大貳の大伴の宿禰の子君達および学僧の辨通・神叡達に、太絹・綿・布を各々差をつけて与えた。また新羅の王の遺族に物を贈った。丙午の日に、詔勅して、天下に、桑・麻・梨・栗・かぶ等の草木を植えることを勧めた。それで五穀の助けとなる。夏四月の庚申が朔の丙子日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、諸社に参拝して雨乞いをした。また使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神のお祭りをさせた。辛巳の日に、「内蔵寮の第三等の官の大伴の男人が賄賂を受け取った。位を二階下げて、解任しなさい。倉の鍵をつかさどる置始の多久と菟野の大伴も、賄賂を受け取った。位を一階下げて、解任しなさい。庫の鍵を管理していた巨勢の邑治は、物を懐に入れなかったが、横領を知りながら見逃した。それで位を二階下して、解任しなさい。しかし置始の多久は、壬申の年の戦いで骨身を惜しまず働いたので赦せ。ただし盗った物は法に従って取り上げなさい」と詔勅した。五月の己丑が朔の日に、吉野の宮に行幸した。乙未の日に、天皇は、吉野の宮から帰った。癸卯の日に、だれにでも財施・法施を行う大法会を内裏で開いた。】とあり、二月庚申は1月30日で五月己丑は4月30日で前月が小の月なら標準陰暦と合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。

ここに出現する葛原朝臣大嶋は天武天皇十年「大山上中臣連大嶋・・・授小錦下位」、天武天皇十二年「小錦下中臣連大嶋并判官」、天武天皇十四年「藤原朝臣大嶋・・・賜御衣袴」、朱鳥元年「直大肆藤原朝臣大嶋誄兵政官事」、持統元年「直大肆藤原朝臣大嶋」、持統二年「藤原朝臣大嶋誄焉」、持統四年・持統五年「神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞」、持統七年「賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物」、『続日本紀』文武二年「藤原朝臣所賜之姓宜令其子不比等承之但意美麻呂等者縁供神事宜復舊姓焉」、715年『粟原寺鑪盤銘』「仲臣朝臣大嶋・・・甲午年始至和銅八年」と685から688年で、ある天皇の末の2年間とある天皇の始まりの2年間のみ藤原姓を名乗っている。

これは、天智八年「授大織冠與大臣位仍賜姓爲藤原氏」が天武十三年にあたり、実際は692年に相当し、この年は「鎭祭藤原宮地」と藤原宮を建設し始め、この時に危篤の鎌足に新しく建設する宮地の名前を与え、大化2年の698年まで大嶋も藤原姓を使用し、698年の中臣姓に復帰したが、『続日本紀』の701年「山背國葛野郡月讀神樺井神木嶋神波都賀志神等神稻自今以後給中臣氏」の時葛原姓を使用して同年大化7年701年に薨じ、715年の『粟原寺鑪盤銘』に中臣一門の姓で記述したと考えられる。

天皇の継承は父系の中臣氏ではなく母系の物部系の春日日爪臣と蘇我稲目の血を引く宗賀倉王の媛の子の菟野皇女の皇子の日並および、日並の妻で稲目の媛の額田姫、すなわち、豐御氣炊屋比賣と同系の媛の子である。


2021年3月19日金曜日

最終兵器の目 持統天皇11

  日本書紀 慶長版は

「閏五月乙未朔丁酉大水遣使修行郡國禀貸灾害不能自存者令得漁採山林池澤詔令京師及四畿內講說金光明經戊戌賜沙門觀成絁十五匹綿三屯布五十端美其所造鈆粉丁未伊勢太神奏天皇曰免伊勢國今年調役然輸其二神郡赤引絲參拾伍斤於來年當折其代乙酉詔筑紫大宰率河內王等曰冝遣沙門於大隅與阿多可傳佛教復上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿弥陀像六月甲子朔壬申勅郡國長吏各禱名山岳瀆甲戌遣大夫謁者詣四畿內請雨甲申賜直丁八人官位美其造大內陵時勤而不懈癸已天皇觀藤原宮地秋七月甲午朔乙未大赦天下伹十惡盜賊不在赦例賜相模國司布勢朝臣色布智等御浦郡少領(闕姓名)與獲赤烏者鹿嶋臣櫲樟位及祿服御浦郡三年調役庚子宴公卿壬寅幸吉野宮甲辰遣使者祀廣瀬與龍田辛酉車駕還宮是夜熒惑與歳星於一步內乍光乍沒相近相避四遍八月癸亥朔乙丒赦罪巳夘幸飛鳥皇女田莊即日還宮九月癸巳朔辛丑遣班田大夫等於四畿內丙午神祇官奏上神寶書四卷鑰九箇木印一箇癸丑伊勢國司獻嘉禾二本越前國司獻白蛾戊午詔曰獲白蛾於角鹿郡浦上之濱故増封笥飯神二十戸通前冬十月壬戌朔壬申授山田史御形務廣肆前爲沙門學問新羅癸酉幸吉野宮庚辰車駕還宮十一月辛夘朔戊戌新羅遣級飡朴億德金深薩等進調賜擬遣新羅使直廣肆息長真人老務大貳川內忌寸連等祿各有差辛丒饗祿新羅朴憶德於難波館十二月辛酉朔甲戌賜音博士續守言薩弘恪水田人四町甲申遣大夫等奉新羅調於五社伊勢住吉紀伊大倭菟名足」

【閏五月の乙未が朔の丁酉の日に、洪水があった。使者を派遣して郡国を巡回して、災害で生活できない者に扶持を貸し付け、山林池沢で漁や山菜取りを許した。詔勅して京および畿内4国で、金光明経を読経させた。戊戌の日に、僧侶の觀成に、太絹十五匹・綿三十屯・布五十端を与え、その作ったおしろいをほめた。丁未の日に、伊勢の大神が、天皇に「伊勢国の今年の強制労働を免除したが、その代わりに二つの神の郡から運ぶ、神御衣のための糸三十伍斤は、来年と折半してほしい」と奏上した。己酉の日に、筑紫の大宰の率の河内王達に「僧侶を大隅と阿多に派遣して、佛教を伝えなさい。また、大唐の大使の郭務悰が近江大津宮天皇の為に造った阿彌陀像を上送しなさい」と詔勅した。六月の甲子が朔の壬申の日に、郡国の長官に詔勅して、各々の名のある山岳や用水で祈祷させた。甲戌の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、四国の畿内に詣でて雨乞いした。甲申の日に、大内陵を造った時に怠らないで勤めたことをほめて雑役八人に官位を与えた。癸巳の日に、天皇は、藤原の宮地を観た。秋七月の甲午が朔の乙未の日に、天下に大赦を発令した。ただし大罪の者や盗賊は赦さなかった。相模の国司の布勢の朝臣の色布智達・御浦の郡の少領と、赤い烏を獲た鹿嶋の臣の櫲樟とに、位及び俸禄を与えた。御浦の郡の三年の強制労働を許した。庚子の日に、公卿のために宴会を開いた。壬寅の日に、吉野の宮に行幸した。甲辰の日に、使者を派遣して、廣瀬と龍田とをお祭りさせた。辛酉の日に、天皇は宮に帰った。この夜、火星と木星が、一歩以内で、光ったり消えたり近づいたり遠ざかったりを4回繰り返した。八月の癸亥が朔の乙丑の日に、罪を赦した。己卯の日に、飛鳥皇女の領地に行幸した。その日に、宮に帰った。九月の癸巳が朔の辛丑の日に、班田の高官達を四の畿内に派遣した。丙午の日に、神祇官が、奏上して神寶書(?所蔵物目録)四卷・鍵(?所蔵庫のカギ)九箇・木の印一箇を上納した。癸丑の日に、伊勢の国司は、穂がたくさんついた優良な稲二本を献上した。越前の国司が白い蛾・蝶を献上した。戊午の日に、「白い蛾・蝶が角鹿の郡の浦上の浜でとれた。それで笥飯の神に二十戸を、前からの封に追加する」と詔勅した。冬十月の壬戌が朔の壬申の日に、山田の史の御形に務廣肆を授けた。前に僧となって、新羅で学んだ。癸酉の日に、吉野の宮に行幸した。庚辰の日に、天皇は宮に帰った。十一月の辛卯が朔の戊戌の日に、新羅は級飡の朴億徳・金深薩達を派遣して年貢を進上した。新羅に派遣する使者の直廣肆の息長の眞人の老・務大貳の川内の忌寸の連達に各々差をつけて俸禄を与えた。辛丑の日に、新羅の朴憶徳を難波館で饗応した。十二月の辛酉が朔の甲戌の日に、音の博士の續守言と薩弘恪人毎に四町の水田を与えた。甲申の日に、高官達を派遣して、新羅の年貢を、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足の五社に奉納した。】とあり、十一月辛卯朔は10月30日で10月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。

「『持統天皇5』で河内王の子が『続日本紀』に記述されない恵まれない地位にあまんじた」と記述したが『新唐書』に「子總持立・・・咸亨元年・・・使者不以情故疑焉又妄夸其國都方數千里」と總持天皇の王朝は唐朝が協力して蘇我倭国をクーデターで排して新羅との友好国俀国を日本の朝廷と認めた恩義を忘れて唐の意向に反し、数千Km四方の領地・日本列島と朝鮮半島を領土と疑いたくなる主張をしたと述べているが。

『続日本紀』に704年慶雲元年に「正四位下粟田朝臣眞人自唐國至初至唐時『唐人謂我使曰亟聞海東有大倭國謂之君子國人民豊樂禮義敦行今看使人儀容大淨豈不信乎語畢而去』」、これは『舊唐書』の貞觀五年631年に「遣使獻方物」とあり、この時遣って来た使者君子の国ではなく「君子国」と『山海經』に記述される 君子国が使者の出発した大倭国と述べ、それを引き継いだのが701年に開いた粟田眞人が仕える朝廷だと述べ、總持天皇の朝廷との立場と分けている。

『那須国造碑』に「永昌元年己丑・・・評督被賜歳次庚子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘」と789年に評督を拝命して碑を700年に建てて、700年まで評督として勤めたことを示し、評督の上部組織の筑紫都督府が700年まで有り、それ以降評が出現せず、都督府がなくなったことが解り、その結果が唐朝の不以情故疑焉」の原因ではないだろうか。

それに対して、文武朝は粟田眞人を唐に「正六位上幡文通爲遣新羅大使」と新羅に派遣して『続日本紀』に698年文武二年の「新羅使一吉飡金弼徳等貢調物」と698年以降、文武朝が遷都した後の705年慶雲二年「新羅貢調使一吉飡金儒吉等來獻」まで新羅が年貢を持ってこなかったが年貢を再開したは大長年号が始まった總持天皇の時である。

685年天武天皇十四年「直大肆粟田朝臣眞人」と15位が700年文武四年「直大貳粟田朝臣眞人」と11位に出世するのに15年かかっていたのに、704年には8位に大出世して唐と新羅との外交に対して評価され、新王朝設立に活躍したことを示している。

『淮南子』の墬形訓の「自東南至東北方有大人國君子國」や『山海經』の「海外東經」の「君子國在其北衣冠帶劍」の君子国の有った大倭国と唐や元明朝まで継承され、『三国史記』では新羅の417年即位の訥祇麻立干が「形神爽雅有君子之風」、737年即位の孝成王に「新羅號爲君子之國・・・使知大國儒敎之盛」と儒教の君子を想定しており、中国では『春秋左傳』の桓公に「君子不欲多上人況敢陵天子乎」王は天子で、『莊子』の內篇 の大宗師に「故曰天之小人人之君子人之君子天之小人也」と天→天子→天の小人含む君子→君子の小人の序列だ。

2021年3月17日水曜日

最終兵器の目 持統天皇10

  日本書紀 慶長版は

「六年春正月丁夘朔庚午増封皇子髙市二千戸通前五千戸癸酉饗公卿等仍賜衣裳戊寅天皇觀新益京路壬午饗公卿以下至初位以上癸巳天皇幸髙宮甲午天皇至髙宮二月丁酉朔丁未詔諸官曰當以三月三日將幸伊勢冝知此意備諸衣物陰陽博士沙門法藏道基銀人二十兩乙夘詔刑部省赦輕繋是日中納言直大貳三輪朝臣髙市麿上表敢直言諫爭天皇欲幸伊勢妨於農時三月丙寅朔戊辰以淨廣肆廣瀬王直廣參當麻真人智德直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官於是中納言三輪朝臣髙市麿脱其冠位擎上於朝重諫曰農作之節車駕未可以動辛未天皇不從諫遂幸伊勢壬午賜所過神郡及伊賀伊勢志摩國造等冠位幷免今年調役復免供奉騎士諸司荷丁造行宮丁今年調役大赦天下伹盜賊不在赦例甲申賜所過志摩百姓男女年八十以上稻人五十束乙酉車駕還宮毎到行輙會郡縣吏民務勞賜作樂甲午詔免近江美濃尾張參河遠江等國供奉騎士戸及諸國荷丁造行宮丁今年調役詔令天下百姓困乏窮者稻男三束女二束夏四月丙申朔丁酉贈大伴宿祢友國直大貳幷賜賻物庚子除四畿內百姓爲荷丁者今年調役甲寅遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神丙辰賜有位親王以下至進廣肆難波大藏鍬各有差庚申詔曰凢繋囚見一皆原散五月乙丒朔庚午御阿胡行宮時進贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麿等兄弟三戸服十年調役雜傜復免挾杪八人今年調役辛未相摸國司獻赤鳥鶵二隻言獲於御浦郡丙子幸吉野宮庚辰車駕還宮辛巳遣大夫謁者祠名山岳瀆請雨甲申贈文忌寸智德直大壹幷賜賻物丁亥遣淨廣肆難波王等鎮祭藤原宮地庚寅遣使者奉幣于四所伊勢大倭住吉紀伊大神告以新宮」

【六年の春正月の丁卯が朔の庚午の日に、皇子の高市に二千戸、以前と併せて五千戸に増封した。癸酉の日に、公卿達を饗応して衣物を与えた。戊寅の日に、天皇は、条坊制の京の道路を観た。壬午の日に、公卿以下、初位以上に至るまでに饗応した。癸巳の日に、天皇は、高宮に行幸した。甲午の日に、天皇は、高宮から帰った。二月の丁酉が朔の丁未の日に、役人に、「丁度、三月三日に、伊勢に行幸しようと思う。この決意を知って、諸々の衣物を備えなさい」と詔勅した。陰陽道の博士の僧侶の法藏・道基に銀二十両を与えた。乙卯の日に、刑部省に詔勅して、軽罪の囚人を赦した。この日に、中納言の直大貳の三輪の朝臣の高市麻呂が、「天皇が、伊勢に行幸しようとして、農繁期の妨げになる」と、上表を敢えて直言して、面と向かって諌めた。三月の丙寅が朔の戊辰の日に、淨廣肆の廣瀬王・直廣參の當摩の眞人の智徳・直廣肆の紀の朝臣の弓張達を、留守官にした。そこで、中納言の大三輪の朝臣の高市麻呂はその位冠を脱いで、天皇に突き挙げて、重ねて、「農繁期に、行幸の際に乗るくるまを動かしてはなりません」と諌めた。辛未の日に、天皇は、諫言に従わないで、とうとう伊勢に行幸した。壬午の日に、通り過ぎる神郡、および伊賀・伊勢・志摩の国造達に冠位を与えあはせて今年の強制労働を免除し、また、おともの行列に加わる騎士・役人の荷物持ち・行宮を造る人足の今年の強制労働を免除して、天下に大赦を公布した。ただし盜賊は赦さなかった。甲申の日に、通り過ぎる志摩の百姓の男女の年齢八十以上に、稲を、人毎に五十束を与えた。乙酉の日に、行幸の際に乗るくるまが宮に帰った。行き到る毎に、郡縣の役人と人民を集めて、つとめをねぎらって、物を与え、歌と舞を行った。甲午の日に、詔勅して、近江・美濃・尾張・參河・遠江等の国のおともの行列に加わった騎士、及び諸国の荷物持ち・行宮を造った人足の今年の追加の強制労働を元に戻した。詔勅して、天下の百姓の、困窮者に稲を男には三束、女には二束与えた。夏四月の丙申が朔の丁酉の日に大伴の宿禰の友國に直大貳を贈ってあはせてその遺族に物を贈った。庚子の日に、四の畿内の百姓の荷物持ちの今年の強制労働をやめた。甲寅の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神のお祭りをさせた。丙辰の日に、位が有る者で、親王以下進廣肆までに、難波の大藏の鍬を各々差をつけて与えた。庚申の日に、「全ての囚人・見つけた罪人は、皆一斉に野に放ちなさい」と詔勅した。五月の乙丑が朔の庚午の日に、阿胡の行宮に滞在した時に、物産を献上した紀伊の国の牟婁の郡の人で阿古志の海部の河瀬麻呂達は、兄弟の三家に、十年間の強制労働・雑役を免除する。また、船員八人に、今年の追加の強制労働を元に戻した。辛未の日に、相模の国司が、赤い烏の雛二隻を献上した。「御浦の郡で獲た」と言った。丙子の日に、吉野の宮に行幸した。庚辰の日に、天皇が宮に帰った。辛巳の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、名のある山岳や用水の祠で雨乞いをした。甲申の日に、文の忌寸の智徳に直大壹を贈ってあはせてその遺族に物を贈った。丁亥の日に、淨廣肆の難波王達を派遣して、藤原の宮地の地鎮祭を行った。庚寅の日に、使者を派遣して、ごへいを伊勢・大倭・住吉・紀伊の四所の大神に奉納した。新しい宮のことを告げた。】とあり、三月丙寅は2月30日、五月乙丑は4月30日でともに前月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。

伊勢旅行は『万葉集』の柿本人麻呂の歌が有名で、実際に伊勢旅行を行ったことが証明されているが、実際の旅行が692年だったのか疑問である。

それは、『万葉集』では人麻呂が明日香皇女・高市皇子・日並皇子が「殯宮之時」の歌で生前の歌が無く、705年死亡の忍壁皇子以降の軽皇子・長皇子・新田部皇子・泊瀬部皇女に「殯宮之時」の歌が無い。

日並皇子は『粟原寺鑪盤銘』に「日並御宇東宮・・・以甲午年始」と694年は東宮で、東宮は敏達天皇五年「菟道貝鮹皇女是嫁於東宮聖徳」、舒明天皇十三年「是時東宮開別皇子年十六而誄之」、天智天皇八年「天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家」と、聖徳・開別・大皇弟(?大海)のように推古天皇の甥、孝徳天皇の甥、天智天皇の弟で直系でない人物が跡継ぎに指名された人物の呼び名で、日並は天武天皇の子草壁皇子と確定するのは難しい。

すなわち、『新唐書』の「天智死子天武立」と天智天皇の子の天武が即位して大化年号を建元して、天智の叔父若しくは弟が日並で人麻呂は「軽皇子宿于安騎野時」の歌に「吾大王 高照 日之皇子」と軽皇子を大王と呼び695年以降705年までに文武天皇に仕えた歌人で、日並が東宮から廃位されて只の「皇子」と呼ばれ、天皇御遊雷岳之時の歌に「皇者神二四座者天雲之雷之上尓」、高市皇子尊城上殯宮之時「鼓之音者雷之聲登聞麻弖吹響流」と『古事記』上卷序に「曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世濳龍體元洊雷應期」、「皇輿忽駕淩渡山川六師雷震三軍電逝」がよく合致している。

すなわち、この伊勢旅行は大化6年700年の説話の可能性が有り、天智天皇の子の天武が農繁期に遊び惚けて散財し、廃位した日並や高市皇子がクーデターを起こして薨去し、軽皇子が文武天皇として即位して『新唐書』「長安元年其王文武立改元曰太寶」、『続日本紀』701年大宝元年三月「建元爲大寶元年」と現代まで続く元号を発布した。

2021年3月15日月曜日

最終兵器の目 持統天皇9

  日本書紀 慶長版は

七月庚午朔壬申天皇幸吉野宮是日伊豫國司田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀(銅)三斤八兩?(金非)一籠丙子宴公卿仍賜朝服辛巳天皇至自吉野甲申遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神八月巳亥朔辛亥詔十八氏(大三輪雀部石上藤原石川巨勢膳部春日上毛野大伴紀阿倍佐伯采女穗積阿曇伊平群羽田)上進其祖等墓記辛酉遣使者祭龍田風神信濃湏波水內等神九月己巳朔壬申賜音博士大唐續守言薩弘恪書博士百濟末士善信銀人二十兩丁丒淨大參皇子川嶋薨辛夘以直大貳贈佐伯宿祢大目幷賜賻物冬十月戊戌朔日有蝕之乙巳詔曰凢先皇陵戸者置五戸以上自餘王等有功者置三戸若陵戸不足以百姓?(`死:充)免其傜役三年一替庚戌畿內及諸國置長生地各一千步是日天皇幸吉野宮丁巳天皇至自吉野甲子遣使者鎮祭新益京十一月戊辰大嘗神祗伯中臣朝臣大嶋讀天神壽詞壬辰賜公卿衾乙未饗公卿以下至主典幷賜絹等各有差丁酉饗神祗官長上以下至神部等及供奉播磨國因幡國郡司以下至百姓男女幷賜絹等各有差十二月戊戌朔巳亥賜醫博士務大參德自珍呪禁博士木素丁武沙宅万首銀人二十兩乙巳詔曰賜右大臣宅地四町直廣貳以上二町大參以下一町勤以下至無位隨其戸口其上戸一町中戸半町下戸四分之一王等亦准此

【秋七月の庚午が朔の壬申の日に、天皇は、吉野の宮に行幸した。この日に、伊豫の国司の田中の朝臣の法麻呂達が、宇和の郡の御馬山の白銀三斤八両・鉱石一篭を献上した。丙子の日に、公卿の為に宴会を開いた。それで朝服を与えた。辛巳の日に、天皇は、吉野から帰った。甲申の日に、使者を派遣して廣瀬の大忌神と龍田の風神とをお祭りした。八月の己亥が朔の辛亥の日に、十八の氏(大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇)に詔勅して、その先代達の墓記を上進させた。辛酉の日に、使者を派遣して龍田の風神、信濃の須波、水内等の神をお祭りさせた。九月の己巳が朔の壬申の日に、音の博士の大唐の續守言・薩弘恪、書の博士の百済の末子の善信に、銀、人毎ごとに二十両与えた。丁丑の日に、淨大參の皇子の川嶋が薨じた。辛卯の日に、直大貳を、佐伯の宿禰の大目に贈った。あはせて弔って、その遺族に物を贈った。冬十月の戊戌が朔の日に、日蝕があった。乙巳の日に、「全ての先皇の陵墓の保守は、五戸以上を置きなさい。これ以外の王達の、功績が有った者には三戸を置き、もし陵墓の保守が足りなかったら、百姓を充て、その強制労働を免除し、三年に一度交代させなさい」と詔勅した。庚戌の日に、畿内及び諸国に、禁漁地を、各々千歩を置きなさい。この日に、天皇は、吉野の宮に行幸した。丁巳の日に、天皇が吉野から帰った。甲子の日に、使者を派遣して条坊制の京の地鎮祭を行った。十一月の戊辰の日に、大嘗祭を行った。神祇伯の中臣の朝臣の大嶋は、天神の祝いの言葉を読んだ。壬辰の日に、公卿に衣食を与えた。乙未の日に、公卿より下主典までを饗応した。あわせて絹等を各々差をつけて与えた。丁酉の日に、神祇官の年長者以下、神部達まで、および、お供の行列に加わる播磨・因幡の国の郡司以下、百姓の男女に至るまで饗応し、あわせて絹等を各々差をつけて与えた。十二月の戊戌が朔の己亥の日に、薬草の博士の務大參の徳自珍・まじないの博士の木素丁武・沙宅の萬首に、銀、人毎に二十両与えた。乙巳の日に「右大臣に邸宅の土地四町。直廣貳以上には二町。大參以下には一町。勤以下、無位に至るまでは、その戸数にしたがって、その上戸には一町、中戸には半町、下戸には四分の一、王達もこれにならって与えよ」と詔勅した。】とあり、十二月戊戌は12月2日で前月が小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

十八氏の墓記を収集したと記述しているが、その片鱗を見せるのが『先代舊事本紀』で、「物部雄君連公・・・飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位」は天武天皇五年に「物部雄君連忽發病而卒」と、君は守屋の子で、御狩の子の同世代の物部大人に雄君の娘が嫁ぎ、守屋の死亡が630年頃30代位でないと計算が合わず、守屋が587年に死亡したことが否定される

また、「孫物部連公麻侶・・・淨御原朝御世天下万姓改定八色之日改連公賜物部朝臣姓同御世改賜石上朝臣姓」と合致するが、『続日本紀』に717年養老元年「左大臣正二位石上朝臣麻呂薨。年七十八・・・難波朝衛部大華上宇麻乃之子也」と矛盾がなさそうだが、『先代舊事本紀』に「物部連公麻侶馬古連公之子」、「孫物部馬古連公目大連之子」、「物部雄君・・・物部目大連女豊媛爲妻生二兒」と記述されたように、雄君と馬古連が同年代と考えられ、淨御原朝と難波朝はもっと接近した年代ということが解る。

同じ事が、『続日本紀』の713年和銅六年に「石川朝臣宮麻呂薨近江朝大臣大紫連子之第五男也」の記事が有るが、初出が703年大宝三年「正五位下石川朝臣宮麻呂」で宮麻呂が660年頃の生まれで、連子は天智天皇三年「大紫蘇我連大臣薨」と30歳代と考えられ、連子は20代で紫冠と大臣を得ている考えられ、まさに入鹿である。

以前、蘇我連大臣は『先代舊事本紀』に「妹物部鎌媛大刀自連公・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」、皇極天皇二年「私授紫冠於子入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣大臣之祖母物部弓削大連之妹」と記述されていて、(蘇我)物部連大臣と呼んでいたと証明した。

連子の兄弟と言われる赤兄が天智天皇一〇年「大錦上蘇我赤兄臣・・・蘇我赤兄臣爲左大臣」でも約40歳程度の親子差で、赤兄の兄弟連子なら50歳程度の親子差でかなり違和感を感じさせ、赤兄と連子が兄弟でなく、連子が入鹿で、蝦夷大臣が子の入鹿を若くして大紫の大臣と下のならよく合致し、『続日本紀』がそれを追認した、すなわち、蝦夷が大臣を指名する天皇だったことを認めて、乙巳の変が664年にあったことを示している。