2020年6月29日月曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第二十 敏達天皇 1

 『日本書紀』慶長版は

渟中倉太珠敷天皇天國排開廣庭天皇第二子也母曰石姫皇后天皇不信佛法而愛文史二十九年立爲皇太子三十二年四月天國排開廣庭天皇崩元年夏四月壬申朔甲戌皇太子即天皇位尊

皇后曰皇太后是月宮于百濟大井以物部弓削守屋大連爲大連如故以蘇我馬子宿祢爲大臣五月壬寅朔天皇問皇子與大臣曰髙麗使人今何在大臣奉對曰在於相樂館天皇聞之傷惻極甚愀然而歎曰悲哉此使人等名既奏聞於先考天皇矣乃遣群臣相樂館撿錄所獻調物令送京師丙辰天皇執髙麗表䟽授於大臣召聚諸史令讀解之是時諸史於三日內皆不能讀爰有舩史祖王辰尓能奉讀釋由是天皇與大臣倶爲讚美曰勤乎辰爾懿哉辰爾汝若不愛於學誰能讀解冝從今始近侍殿中既而詔東西諸史曰汝等所習之業何故不就汝等雖衆不及辰爾又髙麗上表䟽書于烏羽

字隨羽黒既無識者辰爾乃蒸羽於飯氣以帛印羽悉寫其字朝庭悉異之六月髙麗大使謂副使等曰磯城嶋天皇時汝等違吾所議被欺於他?()分國調輙與微者豈非汝等過歟其若我國?()聞必誅汝等副使等自相謂之曰若吾等至國時大使顯噵吾過是下祥事也思欲偸殺而斷其口是夕謀泄大使知之裝束衣帶獨自潛行立館中庭不知所計時有賊一人以杖出來打大使頭而退次有賊一人直向大使打頭與手而退大使尚嘿然立地而拭面血更有賊一人執刀急來刺大使腹而退是時大使恐伏地拜後有賊一人既殺而去明旦領客東漢坂上直子麻呂等推問其由副使等乃作矯詐曰天皇賜妻於大使大使違勅不受無禮茲甚是以臣等爲天皇殺焉有司以禮收葬秋七月

髙麗使人罷歸是年也太歲壬辰

渟中倉太珠敷天皇は、天國排開廣庭天皇の第二子だ。母を石姫皇后という。天皇は、佛法を信じないで、学問や歴史が好きだった。二十九年に、皇太子となった。三十二年の四月に、天國排開廣庭天皇が崩じた。元年の夏四月の朔が壬申の甲戌の日に、皇太子は、天皇に即位した。皇后を尊んで皇太后と言った。この月に、百濟の大井に宮を造った。物部の弓削の守屋大連を大連にしたのは前のとおりだ。蘇我の馬子の宿禰を大臣にした。五月の壬寅が朔の日に、天皇は、皇子と大臣に「高麗の使者は、今、どこにいる」と聞いた。大臣は「相樂の館に居ます」と答えた。天皇は聞いて、悲しみ痛ましい事極まりない。憂い嘆いて、「残念だ、この使者達の名はもう亡父の天皇から聞いている」と言った。それで群臣を相樂の館に派遣して、献上された租税の品物を調べて記録し、都に送った。丙辰の日に、天皇は、高麗の上表文を取り上げて、大臣に渡した。諸々の通訳を呼んで読み解かせた。この時に、諸々の通訳が、三日以内に、読むことが出来なかった。そこに船の史の祖の王辰爾がいて、上手く読み解いて奏上した。そのため、天皇と大臣二人とも褒め称えて、「良く務めたな辰爾。立派だっぞ辰爾。お前がもし学問を好かなければ、他の誰が上手く読み解けただろう。今から殿中に従事しなさい」と言った。それで、東から西の全国の諸々の専門家に「お前たちが習っている技術は、何に役立った。お前たちはこんなにいるのに、辰爾におよぶものがいない」と詔勅した。また高麗の上表の文書は、烏の羽に字を書いている。羽が黒いのでで解る者が居なかった。辰爾はそれで羽をご飯を炊く蒸気で羽を蒸らして白色の厚手の絹に押し付けて、残らずその字を写した。朝庭は全てに不思議に思った。六月に、高麗の大使は、副使達に「磯城嶋の天皇の時に、お前たちは、私が思っていることを間違えて、ひとに欺されて、でたらめに国の年貢を分けて、簡単に小者に与えた。それでもお前たちの間違いではないが、これがもし私たちの国王に聞かれたら、きっと私たちを誅殺する」と言った。副使達は、「もし私たちが国に帰った時に、大使が、私達の失敗をあらいざらい教えたら、これは大変な事になる。こっそり殺してその口を塞ごうか」と相談した。その夕方には、陰謀が漏れた。大使がそれを知って、衣装を整えて、一人だけで隠れようと館の中庭に立って、右往左往していた。その時、賊が一人居て、杖を持って出てきて、大使の頭を打って逃げた。次にまた賊が一人いて、大使の正面に立って、頭と手を打って逃げた。大使は、まだ呆然と立ち尽くして、顔の血を拭った。また賊が一人いて、刀を持って急にやって来て、大使の腹を刺して逃げた。この時に、大使は、恐れて土下座して許しを願った。その後で賊が一人いて、とうとう殺し去った。翌朝、客をもてなす責任者の東漢の坂上の直の子麻呂達が、その訳を考えて問いかけた。副使達は、それで「天皇が、妻を大使に与えた。大使は、詔勅を間違えて受けなかった。無礼なこと甚だしくて、私達は、天皇の為に殺した」とでっち上げた。役人たちは、儀礼に従って葬った。秋七月に、高麗の使者が帰った。この歳は、太歳が壬辰だった。】とあり標準陰暦と合致する。

守屋大連が前のとうり大連にしたというのは奇妙で、敏達紀が初出で『舊事本紀』では「池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲」、「弟物部守屋大連公子日弓削大連此連公池身雙槻宮御宇天皇御世爲大連」と用明天皇の大連となっている。

これは、用明天皇の記事で、敏達天皇の時に皇太子の大臣になったことを示しているのであって、目天皇が若くて長男が太子に就任できる年齢に達していなかったため、倭古連が皇太子弓削となり、弓削が敏達天皇として即位した為、守屋が弓削を襲名して皇太子になったことを表している。

そして、敏達紀の王達と一緒に馬子(初代)も敏達天皇として記述され、馬子は次代の天皇として皇太子大臣と記述され、皇太后も以前述べたように筑紫の磐の地の出身の皇后の石姫が皇太后となって畿内の都に移ってもらい、磐の地の王者馬子が物部弓削王朝の後ろ盾となった。

そのため、高麗の使者は馬子の迎賓館で過ごし、接待役は東漢直、磐井の子か孫で、畿内の天皇なら高句麗と同盟関係だったので上表文の解読など何の造作も無いが、馬子たちは百済と同盟関係で高句麗のことはよくわかっていないので、王辰爾が必要だったということだ。

そうでなければ、使者が天皇から妻が与えられたと言われて信じるはずが無いが、物部天皇がどんな約束をしていたか知らない馬子達は信じてしまったのだろう。

また、舩史祖の王辰爾と記述しているが欽明天皇十四年に「王辰爾爲船長因賜姓爲船史今般連之先也」と既に船史を賜姓されていて、558年欽明天皇十四年が敏達元年で欽明天皇十五年に「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と倭国王渟中倉太珠敷(馬子)が皇太子になったことを示していて、「廿九年立爲皇太子」は俀国の王朝交代(俀国王の弟若しくは叔父が皇太子になった)があったことを示している。

2020年6月26日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 19

  『日本書紀』慶長版は

「三十一年春三月甲申朔蘇我大臣稻目宿祢薨夏四月甲申朔乙酉幸泊瀬柴籬宮越人江渟臣裾代詣京奏曰髙麗使人辛苦風浪迷失浦津任水漂流忽到着岸郡司隱匿故臣顯奏詔曰朕承帝業若干年髙麗迷路始到越岸雖苦漂溺尚全性命豈非徽猷廣被至德魏魏仁化傍通洪恩蕩蕩者哉有司冝於山城國相樂郡起館淨治厚相資養是月乗輿至自泊瀬柴籬宮遣東漢氏直糠兒葛城直難波迎召髙麗使人五月遣膳臣傾子於越饗髙麗使大使審知膳臣是皇華使乃謂道君曰汝非天皇果如我疑汝既伏拜膳臣倍復足知百姓而前詐余取調入巳冝速還之莫煩飾語膳臣聞之使人探索其調具爲與之還京復命秋七月壬子朔髙麗使到于近江是月遣許勢臣猿與吉士赤鳩發自難波津控引舩於狹狹波山而裝飾舩乃往迎於近江北山遂引入山背髙楲館則遣東漢坂上直子麻呂錦部首大石以爲守護更饗髙麗使者於相樂館三十二年春三月戊申朔壬子遣坂田耳子郎君使於新羅問任那滅由是月髙麗獻物幷表未得呈奏經歷數旬占待良日夏四月戊寅朔壬辰天皇寢疾不豫皇太子向外不在驛馬召到引入臥內執其手詔曰朕疾甚以後事属汝汝湏打新羅封建任那更造夫婦惟如舊曰死無恨之是月天皇遂崩于內寢時年若干五月殯于河內古市秋八月丙子朔新羅遣予(弔)使未叱号失消等奉哀於殯是月未叱号失消等罷九月葬于檜隈坂合陵

【三十一年の春三月の甲申が朔の日に、蘇我の大臣の稻目の宿禰が薨じた。夏四月の甲申が朔の乙酉の日に、泊瀬の柴籬の宮に行幸した。越の人の江渟の臣の裙代が、京に参上して「高麗の使人が、風浪で難儀して、迷って浦の津が見つからず、潮の流れのまゝに漂流して、知らず知らずに岸に漂着した。これを郡司が隱匿した。それで、私がそれを報告しようとした」と奏上した。「私は、国を治める事業を受け継いで、さほど経ってはいない。高麗は、海路に迷って、はじめて越の海岸にやってきた。漂流して溺れ苦しんでもなお命を全うしようとしている。どうして何も考えないでひろく知れわたって高く大きな徳を備えめぐみを施して敎化して、傍から見てはてしなく広い大恩となるのだろうか。役人は、山城の国の相樂の郡に、館を建てて、浄めて治療して、手厚く互いに元手を集めて助け養いなさい」と詔勅した。この月に、天皇は輿に乗って泊瀬の柴籬の宮から戻った。東の漢氏の直の糠兒と葛城の直の難波を派遣して、高麗の使者を迎て召かせた。

五月に、膳の臣の傾子を越に派遣して、高麗の使者を饗応した。大使は、調べて膳の臣が勅使であることを知った。それで道の君に「お前は、天皇では無い、やはり私が疑った通りだ。お前は膳の臣に頭を下げて礼拝しているではないか。益々やはりお前が百姓だと言うことが解った。それなのに以前、私をだまして、年貢を取って懐に入れた。すぐに返しなさい。へたな言い訳は不要だ」と言った。膳の臣は、それを聞いて、証拠を探し求めさせて、京に帰るためによく調べて復命した。秋七月の壬子が朔の日に、高麗の使者が、近江に着いた。この月に、許勢の臣の猿と吉士の赤鳩とを派遣して、難波の津を発って、船を狹狹波山に引き上げた、船に飾を施して、それで近江の北の山に迎に行った。それで山背の高楲館に引き入れて、それで東の漢の坂上の直の子麻呂と錦部の首の大石を派遣して、守護にした。また、高麗の使者を相樂の館で饗応した。三十二年の春三月の朔が戊申の壬子の日に、坂田の耳子の郎君を派遣して、新羅への使者として、任那を滅ぼした理由を問いたださせた。この月に、高麗の献上物と上表文がまだ上程出来てなかった。しばらく経って、吉日を占って待った。夏四月の朔が戊寅の壬辰の日に、天皇は、病気で寝込んでしまった。皇太子は、都の外に出ていて不在だった。早馬で呼び寄せて寝所に引き入れて、その手を取って「私の、病はひどい。後の事はお前に継がせる。お前は、新羅を打ち、任那を諸侯に配分しなさい。もういちど夫婦のようになって、昔のようになれば、死んでも心残りは無い」と詔勅した。この月に、天皇は、とうとう寝室で崩じた。この時、在位年数はほんの少しだった。五月に、河内の古市に遺体を置いて祈った。秋八月の丙子が朔の日に、新羅は、弔使の未叱子と失消等を派遣して、遺体に哀悼を奉じた。この月に、末叱子と失消等が帰った。九月に、桧隈の坂合の陵に葬った。】とあり、標準陰暦と合致する。

朕承帝業若干年」と皇位を受け継いで少ししかたっていないと述べているが、欽明天皇31年なのだから、この即位してから若干年で死亡時の年齢も若干の天皇は欽明天皇では無く、稲目は薨去して1ヶ月で若干年どころか若干月とも言えず、欽明天皇は3代程度継承されている。

当然、次代の敏達天皇はこの崩じた天皇の子ではなく、弟若しくは叔父となり、『舊事本紀』に「孫物部荒山連公目大連之子・・・物部尾輿連公荒山太連之子・・・弓削連祖倭古連女子阿佐姫次加波流姫各兄生四兒・・・孫物部麻佐良連公・・・弟物部目連公此連公継體天皇御世為大・・・物部大市御狩連公尾輿大連之子・・・弟物部守屋大連公子日弓削大連・・・物部大人連公御狩大連之子・・・弟物部目連公・・・此連公磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連」と目大連の子が荒山、その子が尾輿、尾輿の義父倭古が弓削連の祖、守屋が弓削連で、尾輿と御狩の子が目大連で世代的に尾輿の子の目大連がここで崩じた天皇で叔父の弓削連の祖の倭古が皇位を得て、太子が守屋だと考えられ、大臣と記述された。

『舊事本紀』の目大連は「継體天皇御世」、「磯城嶋宮御宇天皇御世」と記述しているが、継体から欽明朝の間襲名し、欽明朝で襲名が終わった事を表している。

『舊事本紀』欽明天皇に物部尾輿連公為大連物部目連公為大臣」、用明天皇に「池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と目王朝の最後の皇太子が目大連で、弓削王朝の最後の皇太子が守屋であることを示している。

この天皇の配下の東漢直は「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と漢直と東漢直の記述は記述する王朝の違いで、「東漢直駒東漢直磐井子也」と倭国王・筑紫国造の氏姓と証明した。

欽明天皇十六年「遣蘇我大臣稻目宿禰穗積磐弓臣等使于吉備五郡置白猪屯倉」、欽明天皇三十年「膽津檢閲白猪田部丁者依詔定籍果成田戸天皇嘉膽津定籍之功賜姓爲白猪史」、敏達天皇三年「遣蘇我馬子大臣於吉備國増益白猪屯倉與田部即以田部名籍授于白猪史膽津」と稲目の支配下だった吉備白猪が馬子の支配下になった。

すなわち、稲目が薨去した後、糟屋郡から吉備・山背・近江までが馬子の勢力下に入ったが、船を「舩於狹狹波山而裝飾舩」と狹狹波山で迎えの船に飾りなおしていて、天皇なら最初から賓客を迎える船で迎えればよいのだから、実際は天皇をかたっていることが解り、実際の天皇は目大連である。

2020年6月24日水曜日

最終兵器の目 欽明天皇 18

 『日本書紀』慶長版は

八月天皇遣大將軍大伴連狹手彥領兵數萬伐于髙麗狹手彥乃用百濟計打破髙麗其王踰墻而逃狹手彥遂乗勝以入宮盡得珍寶?()賂七織帳鐵屋還來以七織帳奉獻於天皇以甲二領金

飾刀二口銅鏤鍾三口五色幡二竿美女媛幷其從女吾田子送於蘇我稻目宿祢大臣於是大臣遂納二女以爲妻居輕曲殿冬十一月新羅遣使獻幷貢調賦使人悉知國家憤新羅滅任那不敢請羅恐致刑戮不歸本土例同百姓今攝津國三嶋郡埴廬新羅人之先祖也二十六年夏五月髙麗人頭霧唎耶陛等投化於筑紫置山背國今畝原奈羅山村髙麗人之先祖也二十八年郡國大水飢或人相食轉傍郡穀以相救三十年春正月辛卯朔詔曰量置田部其來尚矣年甫十餘脱籍兔課者衆宜遣膽津撿定白猪田部丁籍夏四月膽津撿閲白猪田部丁者依詔定籍果成田戸天皇嘉膽津定籍之功賜姓爲白猪史尋拜田令爲瑞子之副

八月に、天皇は、大將軍の大伴の連の狹手彦派遣して、兵士数万人を率いて、高麗を伐った。狹手彦は、それで百済の計略を使って、高麗を打ち破った。その王は、塀を飛び越えて逃げた。狹手彦は、とうとう勝ち名乗りを上げて宮殿に入城し、ありったけの珍宝、金銭、宝石、七織の帳、鉄も屋根板を得て帰った。七織の帳を、天皇に奉献した。甲二領と金飾りの刀二口と銅製の飾り鐘三口と五色の幡二竿と美女の媛、併せてその侍女の吾田子を、蘇我の稻目の宿禰の大臣に送った。そこで、大臣は、とうとう二人の女を後宮に入れて、妃として、輕の曲殿に住まわせた。冬十一月に、新羅は、使者を派遣して献上し、併せて年貢も貢上した。使者は、新羅が任那を滅ぼしたことを朝廷が怒っていることを良く知って、怖くて帰ると願わなかった。た、帰っても刑罰に処されること恐れて本国に帰らず、我が国の百姓と同じように過ごした。今の攝津の国の三嶋の郡の埴廬の新羅人の先祖だ。二十六年の夏五月に、高麗人の頭霧の唎耶陛が、筑紫に帰化して、山背国に置いた。今の畝原・奈羅・山村の高麗の人の先祖だ。二十八年に、郡国で、洪水が発生して飢饉になって、ある者は人食いをしたが、隣の郡の穀物を轉んで助け合った。三十年の春正月の辛卯が朔の日に、「田部を調べたが、それからだいぶ経った。年齢が14・5才になっても、籍からもれて課役を逃れる者が多い。膽津を派遣して、白猪の田部の働き盛りの者の戸籍を調べて決めなさい」と詔勅した。夏四月に、膽津は、白猪の田部の青年を調べて数え、詔勅のとうりに家族構成がある戸籍を決めた。それで、田を持つ家の構成人員を記載して戸籍とした。天皇は、膽津が籍を定めた功績を喜んで、姓を与えて白猪の史として用いて田令を拝命し瑞子が次席となった。】とあり、標準陰暦と合致する。

『三国史記』で高句麗が領内に攻め込まれたのは550年の陽原王六年「春正月百濟來侵陷道薩城三月攻百濟金城新羅人乘間取二城」だけで、それ以前なら502年文咨明王十一年「冬十一月百濟犯境」、503年文咨明王十二年「冬十一月百濟遣達率優永率兵五千來侵水谷城」だが崇峻天皇三年「度尼大伴狭手彦連女善徳」と整合性が無くなる。

そして、戦利品も天皇に対する献上品と比べると稲目への献上品の豪華さが際立ち、推古天皇十年「大伴連囓坂本臣糖手共至自百濟」と妻を見捨てた河邊臣の義父も大伴連も百済に滞在し、稲目もやはり一時百済に滞在した可能性が有る。

また、膽津が白猪史の賜姓をされ、欽明天皇十四年「王辰爾爲船長因賜姓爲船史」、敏達天皇三年「船史王辰爾弟牛賜姓爲津史」と同族が賜姓されて、王辰爾は辰斯王の子の辰孫王の後裔とされて、君の氏姓を得たとされているが、膽津も牛も君が付加されず、王辰爾も辰孫王のように辰爾王や辰爾君と記述されるべきだが記述されず、百済の官僚のように思われる。

朝鮮では中国や日本とちがい、皇太子ではなく『三国史記』新羅眞興王二一十七年「立王子銅輪爲王太子」、高句麗慕本王元年「立王子翊爲王太子」と王太子、百済は義慈王四年「立王子隆爲太子」とただの太子で百済は名目上独立国ではなく国王ではなく従属した王のようで、皇太子は皇帝の太子、王の中の王である皇帝の太子を意味していて、百済王は君だが、それ以外の百済人が君と呼ばれることはなく、新羅と高句麗は独立した王だがその王に従属する王はいないようだ。   

2020年6月22日月曜日

最終兵器の目 欽明天皇 17

  『日本書紀』慶長版は

秋七月巳巳朔新羅遣使獻調賦其使人知新羅滅任那恥背國恩不敢請罷遂留不歸本土例同國家百姓今河內國更荒郡鸕鷀野邑新羅人之先也是月遣大將軍紀男麻呂宿祢將兵出哆唎副將河邊臣瓊?(征・缶)出居曾山而欲問新羅攻任那之狀遂到任那以薦集部道(首)登弭遣於百濟約束軍計登弭仍宿妻家落印書弓箭於路新羅具知軍計卒起大兵尋属敗亡乞降歸附紀男麻呂宿祢取勝旋師入百濟營令軍中曰夫勝不忘敗安必慮危古之善教也今處疆畔豺狼交接而可輕忽不思變難哉況復平安之世刀剱不離於身蓋君子之武備不以巳冝深警戒務崇斯令士卒皆委心而服事焉河邊臣瓊?(征・缶)獨進轉鬪所向皆拔新羅更舉白旗投兵隆首河邊臣瓊?(征・缶)元不曉兵對舉白旗空示獨進新羅鬪將曰將軍河邊臣今欲降矣乃進軍逆戰盡鋭遄攻破之前鋒所破甚衆倭國造手彥自知難救棄軍遁逃新羅鬪將手持鈎戟追至城洫運戟擊之手彥因騎駿馬超渡城洫僅以身免鬪將臨城洫而歎曰久湏尼自利(此新羅語未詳也)於是河邊臣遂引兵退急營於野於是士卒盡相欺蔑莫有遵承鬪將自就營中悉生虜河邊臣瓊?(征・缶)等及其隨婦于時父子夫婦不能相恤鬪將問河邊臣曰汝命與婦孰與尤愛荅曰何愛一女以取禍乎如何不過命也遂許爲妾鬪將遂於露地姧其婦女婦女後還河邊臣欲就談之婦人甚以慚恨而不隨曰昔君輕賣妾身今何面目以相遇遂不肯言是婦人者坂本臣女曰甘美媛同時所虜調吉士伊企儺爲人勇烈終不降服新羅鬪將拔刀欲斬逼而脱褌追令以尻臀向日本大號叫曰日本將嚙我臗脽即号叫曰新羅王㗖我臗脽雖被苦逼尚如前叫由是見殺其子舅子亦抱其父而死伊企儺辭旨難奪皆如此由此特爲諸將帥所痛惜昔妻大葉子亦並見禽愴然而歌曰柯羅倶爾能基能陪伱陀致底於譜磨故幡比例甫囉湏母耶魔等陛武岐底或有和曰柯羅倶尓能基能陪伱陀陀志於譜磨故幡比禮甫羅湏?()喩那伱婆陛武岐底

秋七月の己巳が朔の日に、新羅は、使者を派遣して年貢を献上した。その使者は、新羅が、任那を滅ぼしたと知って、国から受けた恩に背いたことを恥じて、怖くて帰ると願わなかった。それで留って本国に帰らず、我が国の百姓と同じように過ごした。今の河内国の更荒の郡の鸕鷀野の邑の新羅人の先祖だ。この月に、大將軍の紀の男麻呂の宿禰を派遣して、軍を率いて哆唎を(?)出兵した。副將の河邊の臣の瓊缶は、居曾山に出兵した。それで新羅が、任那を攻めた状況を調べさせた。それで任那に着いて、薦集部の首の登弭を、百済に派遣して、軍略を約束した。

登弭は、そのあとで妻の家に泊ったが、約束通り、押印のある公文書と弓箭を路に落した。新羅は、詳しい軍略を知った。すぐに大軍を起兵したが、罠にはまって負けて逃げることが何度も続いて、降伏して従うことを求めた。紀の男麻呂の宿禰は、勝利を得て凱旋して、百済の陣営に入って「勝って兜の緒を締めて、平和な時こそ絶対に危機のことを忘れるなというのは、昔からの優れた教えだ。今居る所は境界でむごたらしい者と隣り合っている。それを簡単に疎かにして、苦しくなると思わないのはだめだ。まして、また平安な世の中でも刀や剣を離さない。だから君子の備えをやめてはならない。心から用心して、この掟を敬って努めなければならない」と全軍に命じた。兵士は皆、紀の臣の考えに従った。河邊の臣の瓊缶だけは、どんどん進軍して戦った。どこへ行っても連戦連勝だった。新羅は、またもや白旗を上げて、武器を投げ棄てて降伏したと見せかけた。首の河邊の臣の瓊缶は、もともと、軍のことを良く知らず、白旗を上げた者に対しても無駄に単独で進軍した。新羅の闘将が「將軍の河邊の臣は、今、投降しようとしている」と言った。

それで進軍して抗戦した。(武器を捨てていなかった?)早く先鋭に絶えず素早く最後まで攻めて破って、先鋒の兵が多く撃破された。倭の国造の手彦は、身が危ないと知り、軍を棄てて遁走した。新羅の闘将は、手に鉤がついた矛を持って、城の濠まで追ってきて、矛を振り回して撃った。手彦は、それで駿馬で駆けて、城の濠を跳び越して渡って、なんとか無事だった。闘将は、城の濠の向こうを見て、「久須尼自利(?自分が良ければいいのか)」と嘆いた。そこに、河邊の臣が、とうとう軍を引いて退き、急遽、野営をした。そこで、兵士が、みんな愛想を尽かして、命令に従わなかった。闘将自らが、野営の中に赴いて、河邊の臣の瓊缶達と瓊缶についてきている婦人も残らず殺さず捕虜にした。その時、父子夫婦みな離れ離れで抱き合って悲しむこともできなかった。闘将は、河邊の臣に「お前の命と妻とどちらが大事で惜しい」と問いかけた。「どうして一人の女ぐらいで自分の命を捨てられるか。なんと言っても命が一番大事だ」と答えた。それで瓊缶を許して妻を妾にした。闘将はそれで皆が見ている所で瓊缶の妻や娘を強姦した。妻や娘は後に帰った。河邊の臣は、妻子と話しに行った。妻は、とても恥ずかしめを受けたことを恨み、言いたい放題に「あの時あなたは、簡単に私の体を売った。今になってどの面下げて会いに来たか」と言った。とうとう返す言葉が無かった。この婦人は、坂本の臣の娘で、甘美媛と言う。同じ時に捕虜になった。調の吉士の伊企儺は、生まれつきいさましくて激しくして、とうとう降伏しなかった。新羅の闘将は、刀を抜いて斬ろうと迫り、褌を脱ぎ、追って尻を日本に向けて大声で、「日本の將軍よ、私の尻を噛め」と命じた。間髪を入れずに言い返して、「新羅の王よ、私の尻をついばめ」と叫んだ。苦しめようと迫って来てもまだ同じく叫んだため、その子の舅子を見殺しにして父と抱き合って死んだ。伊企儺の拒絶の叫びを止められず、皆もこのようにあるべきと、この一人の為に諸将は痛み惜しんだ。その妻の大葉子もまた一緒に、捕えられようとして、悲嘆にくれて歌った()とある人が同調して歌った()】とあり、標準陰暦と合致する。

任那の滅亡記事が『三国史記』眞興王二十三年の「秋七月百濟侵掠邊戶王出師拒之殺獲一千餘人九月加耶叛王命異斯夫討之斯多含副之斯多含領五千騎先馳・・・論功斯多含爲最王賞以良田及所虜二百口斯多含三讓王强之乃受其生口放爲良人田分與戰士國人美之」と記述し、大勝利で戦利品を大盤振る舞いしている。

それに対して日本側は密約で勝利を装い、無謀な将軍が敗北したと記述しているが、やはり、任那滅亡で負けた事実は隠せず、それに対して、『三国史記』564年眞興王二十五年に「遣使北齊朝貢」と初めて訪中して朝貢し、中国の援助が有った可能性が有る。

みじめな負け方をした、河邊臣も推古天皇二六年「遣河邊臣於安藝國令造舶」、推古天皇三一年に「小徳河邊臣禰受」とやはり稲目の領地で船を造って出世していて、蘇我氏の配下の可能性が高く、密約をしたのは蘇我氏ではなく俀国の側と推測でき、この後、新羅は698年孝昭王七年に「三月日本國使至王引見於崇禮殿」との記述まで無く、百済は608年武王九年「春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路」と隋の倭使を通好させ、653年義慈王十三年「秋八月王與倭國通好」、そして白村江での共同戦線と推移し、蘇我氏倭国が百済、天氏(『隋書』「俀王姓阿毎字多利思北孤)俀国が新羅と関係を深めたようだ。

2020年6月19日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 16

 『日本書紀』慶長版は

二十二年新羅遣久禮叱及伐干貢調賦司賓饗遇禮數減常及伐干忿恨而罷是歲復遣奴氐大舍(陀嵯)獻前調賦於難波大郡次序諸蕃掌客額田部連葛城直等使列于百濟之下而引導大舍怒還不入館舍乗舩歸至穴門於是修治穴門館大舍問曰爲誰客造工匠河內馬飼首押勝欺紿曰遣問西方無禮使者之所停宿處也大舍還國告其所言故新羅築城於阿羅波斯山以?()日本二十三年春正月新羅打滅任那官家夏六月詔曰新羅西羌小醜逆天無狀違我恩義破我官家毒害我黎民誅殘我郡縣我氣長足姫尊靈聖聰明周行天下劬勞群庶饗育萬民哀新羅所窮見歸全新羅王將戮之首授新羅要害之地崇新羅非次之榮我氣長足姫尊於新羅何薄我百姓於新羅何怨而新羅長戟強弩凌戚任那距牙鈎爪殘虐含靈刳肝斮趾不厭其快曝骨焚屍不謂其酷任那族姓百姓以還窮刀極爼既屠且膾豈有卒土(国内)之賓謂爲王臣乍食人之禾飲人之水熟忍聞此而不憚心況乎太子大臣處趺蕚之親泣血銜寃寄當蕃屏之任摩頂至踵之恩世受前朝之德身當後代之位而不能瀝膽抽腸共誅姧逆雪天地之痛酷報君父之仇讎則死有恨臣子之道不成是月或有譖讃(?)馬飼首歌依曰歌依之妻逢臣讃岐鞍韉有異熟而熟視皇后御鞍也即收廷尉鞫問極切馬飼首歌依乃揚言誓曰虛也非實若是實者必被天灾遂因苦問伏地而死死未經時急灾於殿廷尉收縛其子守石與名瀬氷(守石名瀬氷皆名也)將投火中(投火爲刑蓋古之制也)咒曰非吾手投咒訖欲投火守石之母祈請曰投兒火裏天灾果臻請付祝人使作神奴乃依母請許沒神奴

二十二年に、新羅は、久禮叱の及伐干を派遣して、年貢を貢上した。客人の役人と面会してお辞儀の数がいつもより少なかった。及伐干は、腹を立てんで席を立って帰った。この歳に、また、奴氐大舍を派遣して、前回持って来た年貢を献上した。難波の大郡に、諸蕃の拝謁の順が、

掌客の額田部連・葛城と続き、百済より後に一緒に導き入れた。大舍は怒って帰った。館舍に入ら、船に乗ってに帰った。そこでは、穴門館を修繕していた。大舍が、「どの客のために造っているのか」と問いかけた。大工の棟梁の河内馬飼の首の押勝がいじめて「西の方面の無礼なことを問いかける派遣された使者が泊るところだ」とだました。大舍は、国に帰って、この話を告げた。それで、新羅は城を阿羅波斯山に築いて、日本に備えた。二十三年の春正月に、新羅は、任那の官家を撃ち滅ぼした。夏六月に、「新羅は西の野蛮人小さくて醜い。天に逆らい無作法だ。私の報いるべき義理を欠き、私の官家を破った。私の庶民を毒殺して、私の郡縣の民を傷つけ殺した。私国の氣長足姫の尊は、計り知れない王で判断力がすぐれて、天下の大道を進んで、人々のために苦労して働き、万民をもてなしはぐくんだ。新羅が困って帰るところを見て哀れんで、新羅の王の打ち首を止めて命を全うさせ、新羅に要害の地を授けて、新羅の繁栄がこれ以上ない高さになった。私の国の氣長足姫の尊に、新羅はどんな粗末な扱いをされたか。

私の百姓に、新羅は何の怨みがあるのか。それなのに新羅は、長い戟と強力な石弓は、任那の物を凌いで、長い牙や曲がった爪のようで、意識或るものにむごたらしい。内臓をえぐり、足を叩ききり、それに酔いしれて飽くことが無かった。骨を曝し屍を焼き、その酷さは任那の同族や百姓が帰るに帰れず俎板の上の刀で家畜をさばいたりなますにきざむようで言葉が無かった。国の果ての客人が、他人の稲を食べ、他人の水を飲みながら忍んでいる、これを聞いて心配しないでいられようか。まして、太子や大臣は、殿の縁続きで、血の涙を流し、濡れ衣を心にかみしめて身を寄せ、国の守りの役目にあたって、(孟子:盡心上・・摩頂於踵利天下為之子莫)頭の先から足のかかとまですり減らすほど、自分を顧みず、他人のために努力した。情け深い世は前の朝廷の人徳を受けて、あなたは後代の位になって、内臓に水を注ぎはらわたを抜き出して一緒に逆らいだました者を殺して、天地の酷く苦しい思いを拭い去り、父君の仇に報いなければ、家来や子の身分である者の道が達成できなければ、寿命が尽きて死ぬときの、最後の瞬間は恨みが有るだけだ」と詔勅した。この月に、ある人が、馬飼の首歌依を「歌依の妻が逢の臣の讚岐の鞍の下鞍にはおかしいところが有った。よくよく見たら、皇后の鞍だった」と中傷した。それですぐに捕えて廷尉(刑罰を司る官僚)に任せて、罪を問いただして極刑がピッタリとした。馬飼の首の歌依は、

それで「嘘だ。真実でない。もしこれが本当ならきっとばちが当たる」と大声で神仏に約束した。

拷問で首を差し出して死んだ。死後時を経ずすぐに御殿で火災が有った。廷尉はその子の守石と名瀬氷を捕縛して火の中に投げ込もうとした。「私の罰で投るのではなく呪ったからだ。」と神仏に祈った。祈り終わって火に投げようとした。守石の母は、「私の子を火の中に投るのは、誤審のばちが当たったからだ。お願いです。神職に付けて雑役になることで許してください」と祈り願った。それで母の願いどうりに神職の雑役にした。】とある。

新羅の王が大臣や太子と縁続きと言っているが、大臣が稲目としても、太子は敏達天皇で母石姫は宣化天皇の娘で、縁を述べるなら義理とはいえ兄弟や叔父甥で、血縁ではなにかぼけている。

石姫は名前から言えば、馬子や磐井と縁続きで、合わないわけではないが、前項まででも述べたように、欽明紀は倭国と俀国の説話を含む可能性が高く、ここでの天皇は稲目の可能性が高く、2代目稲目も馬子大臣も血縁で、安芸に朝廷があって、新羅に帰るのに穴門で船に乗るのはとても自然だ。

そして、神功皇后の新羅遠征は仲哀天皇二年「興宮室于穴門而居之是謂穴門豐浦宮」、神功皇后摂政元年「移于穴門豐浦宮即收天皇之喪」と穴門に宮があったと記述し、祖父の韓子が雄略天皇九年に「天皇欲親伐新羅・・・蘇我韓子宿禰」と新羅に出撃し、名前から韓地で生まれた可能性が高く、子が高麗とやはり韓地で生まれているようだ。

『広開土王碑文』の「而倭以辛卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」すなわち391年に神功皇后の征韓、390年(396)即位の応神天皇十四年403年(409)に「弓月君自百濟來歸」、405年(411)に応神天皇十六年「木菟宿禰等進精兵莅于新羅之境・・・乃率弓月之人夫與襲津彦共來焉」、「的戸田宿禰於加羅仍授精兵詔之曰襲津彦久之不還」と広開土王と同時代で、324年仁徳天皇十二年「的臣祖盾人宿禰」、「美盾人宿禰而賜名曰的戸田宿禰」と的臣も共に戦っている。

仁徳12年は実際はもっと後年、木菟宿禰と名前を取り換えたのだから、仁徳元年も390年頃と考えられ、的臣が賜姓されるのが雄略天皇の時と考えられので仁徳12年は402年頃で賜姓される前の的臣が広開土王と戦ったと考えられる。 

この頃に390年(396)即位の392年(398)応神天皇三年「是歳百濟辰斯王立之失禮・・・石川宿禰木菟宿禰紀角宿禰等便立阿花爲王而歸」と石川宿禰が韓地に滞在して帰った様子が無い。

的臣が韓地で中心的存在であって、蘇我氏が何も無しにいつの間にか大臣を名乗るというのは奇妙で、韓地で的臣以上の地位で倭国と共闘していた可能性が高く、その間に新羅と血縁になり、稲目が朝廷、長男が太子そして馬子大臣と関連付けられ、弓月君などは日本の氏姓で、関連するのかもしれない。


2020年6月17日水曜日

最終兵器の目 欽明天皇 15

 『日本書紀』慶長版は

十七年春正月百濟王子惠請罷仍賜兵仗良馬甚多亦頻賞祿衆所欽歎於是遣阿倍臣佐伯連播磨直卒筑紫國舟師衞送達國別遣筑紫火君卒勇士一千衞送?()弖因令守津路要害之地焉秋七月甲戌朔巳卯遣蘇我大臣稻目宿祢等於備前兒嶋郡置屯倉以葛城山田直瑞子爲田令冬十月遣蘇我大臣稻目宿祢等於倭國髙市郡置韓人大身狹屯倉髙麗人小身狹屯倉紀國置海部屯倉十八年春三月庚子朔百濟王子餘昌嗣立是爲威德王二十一年秋九月新羅遣?()至己知奈末獻調賦饗賜邁常奈末喜歡而罷曰調賦使者國家之所貴重而私議之所輕賤行李者百姓之所懸命而選用之所卑下王政之弊未必不由此也請差良家子爲使者不可以卑賤爲使

十七年の春正月に、百済の王子の惠が、帰りたいと願い出た。それで武器と良馬をたくさん与えた。また何度もほうびとして禄を与え、人々は称賛した。それで、阿倍の臣と佐伯の連と播磨の直を派遣して、筑紫国の海軍を率いて、護衛して送り届けた。特に筑紫の火の君を派遣して、勇士千人を率いて、護衛して弥弖に送らせた。それで港につながる路の要害の地を守った。秋七月の朔が甲戌の己卯の日に、蘇我の大臣の稻目の宿禰を備前の兒嶋の郡に派遣して、屯倉を置かせた。葛城の山田の直の瑞子を田令にした。冬十月に、蘇我の大臣の稻目の宿禰達を倭國の高市の郡に派遣して、韓人の大身狹の屯倉と高麗人の小身狹の屯倉を置かせた。紀國に海部の屯倉を置いた。十八年の春三月の庚子が朔の日に、百済の王子の餘昌が、跡を継いだ。

威徳王という。二十一年の秋九月に、新羅は、彌至己知の奈末を派遣して年貢を献上した。饗応していつもより多く返礼を与えた。奈末は、喜歡して帰ろうとして、「年貢の使者は、国家にきわめて大切な者を就任させるけれど、私の考えでは、軽んじられて卑しい。百姓が使者になると全力を尽くすが、選んで用いるとへりくだる。王の政策が疲弊するのは卑しい年貢の使者でなければ疲弊はしない。出来ましたら良家の子供を使者にして、身分や地位が低い者を年貢の使者にしてはいけない」と言った。】とあり、七月甲戌朔は閏6月2日で6月は小の月でほゞ合致する。

筑紫君が糟屋の屯倉を献上した同じ時期に、佐伯連も欽明天皇十五年「筑紫諮內臣佐伯連等」と葛子と行動を共にし、佐伯氏は仁徳天皇四十年「播磨佐伯直阿俄能胡曰」と播磨国造で伊勢遺跡の女王の雌鳥皇女の天皇の璽を奪った氏族で「射殺市邊押磐皇子皇子帳内佐伯部賣輪」と巨勢氏の仁賢・顕宗兄弟を救って、顕宗天皇即位前紀「遁入播磨縮見山石室」と播磨に隠れていて、仁賢天皇五年「以佐伯部仲子之後爲佐伯造」となった家系と関係が有りそうで、崇峻天皇即位前紀「佐伯連丹經手等圍穴穗部皇子宮」とやはり馬子の配下として活躍している。

すなわち、巨勢氏の領域だった備前は稲目が領有し、播磨は馬子の影響下になった事を示し、『梁書』の大漢国と扶桑国の国境間が「扶桑在大漢國東二萬餘里」とあり広島・岡山間が当たると述べたが、その国境を越えて大漢国王の稲目が巨勢氏の王朝の扶桑国の旧領の岡山の備前を領有したというのだ。

そして、文身国王の馬子が糟屋を手に入れて倭国王となり、『隋書』に大漢国が記載されていないのだから、同じ蘇我氏の馬子の国の倭国に吸収されたと考えられ、「筑紫火君百濟本記云筑紫君兒火中君弟」と俀国王の筑紫君葛子の子の筑紫火君と行動を共にし、白雉四年に「巨勢臣藥藥豐足臣之子」と倭国の旧領の豊国を治める王となっていて、倭国人脈が播磨以西の大きな領域を形成した。

『舊事本紀』の欽明天皇の項は830文字、『日本書紀』は約1300文字と雲泥の差の文字数を記述しているが、これは、俀国倭国の記事が記述され、この朝廷も大漢国稲目の可能性を否定できず、なぜなら、『隋書』には俀国は大枠の国、倭国はまだ未承認の国、秦王国は筑紫国と同等の枠の中の国として記述しているからだ。


2020年6月15日月曜日

最終兵器の目 欽明天皇 14

 『日本書紀』慶長版は

十六年春二月百濟王子餘昌遣王子惠奏曰聖明王爲賊見殺天皇聞而傷恨廼遣使者迎津慰問於是許勢臣問王子惠曰爲當欲留此間爲當欲向本鄕惠荅曰依憑天皇之德冀報考王之讎若垂哀憐多賜兵革雪垢復讎臣之願也臣之去留敢不唯命是從俄而蘇我臣問訊曰聖王妙達天道地理名流四表八方意謂永保安寧統領海西蕃國千年萬歲奉事天皇豈圖一旦眇然昇遐與水無歸即安玄室何痛之酷何悲之哀凢在含情誰不傷憚當復何咎致茲禍也今復何術用鎮國家惠報荅之曰臣禀性愚蒙不知大計何況禍福所倚國家存亡者乎蘇我卿曰昔在天皇大泊瀬之世汝國爲髙麗所逼危甚累卵於是天皇命神祇伯敬受策於神祇祝者廼託神語報曰屈請建邦之神往救將亡之主必當國家謐靖人物又(乂)安由是請神往救所以社稷安寧原夫建邦神者天地割(?)之代草木言語之時自天降來造立國家之神也頃聞汝國輟而不祀方今悛悔前過脩理神宮奉祭神靈國可昌盛汝當莫忘秋七月己卯朔壬午遣蘇我大臣稻目宿祢穗積磐弓臣等使于吉備五郡置白猪屯倉八月百濟餘昌謂臣等曰少子今願奉爲考王出家修道諸臣百姓報言今君王欲得出家修道者旦(?)奉教也嗟夫前慮不定後有大患誰之過歟夫百濟國者髙麗新羅之所爭欲滅自始開國迄于是歲今此國宗將授何國要湏道理分明應教縱使能用耆老之言豈至於此請悛前過無勞出俗如欲果願湏度國民餘昌對曰諾即就圖於臣下臣下遂用相議爲度百人多造幡蓋種種攻(?)德云云

十六年の春二月に、百済の王子の餘昌が、王子の惠を派遣して「聖明王は、賊の為に殺された」と奏上した。天皇はそれを聞いて無念さをにじませて、それで使者を派遣して、港で迎えさせて見舞った。そこで、許勢臣が、王子の惠に「とりあえず、この部屋で休みたいか、はたまた、生まれ故郷に帰りたいか」と問いかけた。惠が、「天皇の徳によって、亡き王の仇を取りたい。もし不憫に思ってもらえるのなら、多くの武器や甲冑を与えてもらって、受けた恥をそそいで仇を取ることが私の願いです。私の進退はただ命ぜられるまゝ従うのみです」と答えた。間もなくして蘇我の臣が、「聖王は、不思議なほどすぐれて自然に定まっている道理と土地の事情を知っていて、名は四方八方に知れ渡っていた。おもうに、永く無事でやすらかな世を保って、海の西の隣国を統治して、千年も万年も天皇に奉公しようとした。ところが考えもしないことに、一寸の隙に、取るに足りないことで登遐してしまい、水が帰らないように棺を納める部屋で安らかにある。なんと痛ましく酷い事か。なんと悲しくて哀れなことか。心ある人でいたみ傷つかない人がいないはずが無い。そして何の咎でこんなことになったのか。今となってどのようにして国家を鎮めるのか」と尋ねかけた。惠は、「私は、生まれつきおろかで道理がわからず、国の計画の事はよくわからない。どうしたらよいのか、幸か不幸かが頼りの国家の存亡をどうしたらよいのか」と答えた。蘇我卿は「昔こんなことが有った。天皇が大泊瀬の時代に、お前の国が、高麗に攻められて、卵を積み重ねたようにとても危なかった。そこで、天皇は、神祇伯に命じて、神を敬って方策の神託を受けた。神官は、それで神が『建国した神が降りることを願って、出かけて行って滅びそうな主を救い国家をなだめ人々も安らかにしなければならない』と神託したと報告した。これで、神を頼んで行って救った。それで、国家は安泰となった。それは建国した神と言うのは、天と地が別れた時代の草や木が話しかけた頃に、天降って国家を造った神だからだ。最近聞いたところ、お前の国は、祀ることを止めたと。今こそ、以前に犯した過ちを悔い改めて、神の宮をつくろいなおして、神のみたまをお祀りすれば、国は栄えることが出来る。お前は絶対に忘れてはいけない」と言った。秋七月の朔が己卯の壬午の日に、蘇我の大臣の稻目の宿禰と穗積の磐弓の臣達を派遣して、吉備の五つの郡に、白猪の屯倉を置いた。八月に、百済の餘昌が、諸臣達に「私が、今願っているのは、父王の為に、出家して道を修めたい」と言った。諸臣や百姓が、「今、王が、出家して道を修めることが出来ると思うのは、ほんの少し教えを受けたからだ。ああ。前々から用心して決めなかったのに、後になって大事になったのは誰の過ちですか。この百済国は、高麗と新羅と争って滅ぶところだった。初めて国を開いてから是年の今になるまで、この国家宗廟がどこかの国に授けられようとしたか。欠かせない正しい道をはっきりと見極めて教えてほしい。長老の言葉をよく聞き入れていればこんなことにならなかった。お願いですから以前の過ちを正して、出家などしないでほしい。もし願いを果たそうと思うのなら、国民を出家させなさい」と答えた。餘昌は「解った」と答て、それで臣下の考えに従った。臣下は、よく相談して、それで百人を出家させて、多くの堂に飾る旗と天蓋を造って、種々の善行をした云々。】とあり、標準陰暦と合致する。

ここで、突如、蘇我卿が登場するが、前項で葛子が筑紫君に出世し、糟屋の屯倉を蘇我氏に献上することで倭国を引き継いだ蘇我氏が任那や百済に口出ししてきたのであり、筑紫君は俀国王として有明海を拠点に新羅と暗躍したのだろう。

また、餘昌が闘った相手が新羅となっているが『三国史記』には威德王元年「冬十月高句麗大擧兵來攻熊川城敗衄而歸 」、高句麗陽原王十年「冬攻百濟熊川城不克」、聖王三十二年「秋七月王欲襲新羅親帥步騎五十夜至狗川新羅伏兵發與戰爲亂兵所害薨」と餘昌が闘った相手は高句麗で、その隙に聖王が新羅を裏切って出撃し、逆に新羅が待ち伏せして聖王が急襲されて崩じた。

前年の聖王三十一年「秋七月新羅取東北鄙置新州冬十月王女歸于新羅」、眞興王十四年「秋七月取百濟東北鄙置新州以阿飡武力爲軍主冬十月娶百濟王女爲小妃」と聖王が新羅に負けたので王女を差し出して和睦していたから、新羅が安心しているだろうと新羅に向かったが新羅も裏切り急襲して聖王を殺害した。

新羅は高句麗に対しても550年陽原王六年「春正月百濟來侵陷道薩城三月攻百濟金城新羅人乘間取二城」、551年陽原王七年「秋九月突厥來圍新城不克移攻白巖城王遣將軍高領兵一萬 拒克之殺獲一千餘級新羅來攻取十城」と混乱の隙に乗じて漁夫の利を得ていて、百済に内通者が居ないと準備が出来ない。

その内通者が俀国王と考えられ、500年智證麻立干立二十二年「春三月倭人攻陷長峰鎭」以降、665年文武王交五年「通倭國」まで倭が出現せず、その間、新羅と同盟していたのが俀国で、糟屋郡を奪った蘇我氏の倭国が664年に滅ぶまで新羅は表向きは倭国に臣従していたが、俀国とともに隙をを伺い、唐を引き込んで倭国を滅ぼしたようだ。

2020年6月12日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 13


   『日本書紀』慶長版は

二月百濟遣下部杆率將軍三貴上部奈卒物部烏等乞救兵仍貢德卒東城子莫古代前番奈卒東城子言五經博士王柳貴代固德馬丁安僧曇恵等九人代僧道深等七人別奉勅貢易博士施德王道良曆博士固德王保孫醫博士奈卒王有㥄陀採藥師施德潘量豊固德丁有陀樂人德三斤季德巳麻次季德進奴對德進陀皆依請代之三月丁亥朔百濟使人中部木?()施德文次等罷歸夏五月丙戌朔代(戊)子內臣卒舟師詣于百濟冬十二月百濟遣下部杆卒汶斯干奴上表曰百濟王臣明及在安羅諸倭臣等任那諸國旱岐等奏以斯羅無道不畏天皇與?()同心欲殘滅海北?(:+尓)移居遣有至臣等共議臣等仰乞軍士征伐斯羅而天皇遣有至臣帥軍以六月至來臣等深用歡喜以十二月九日遣攻斯羅臣先遣東方領物部莫哥武連領其方軍士攻函山城有至臣所將來民筑紫物部莫竒委沙竒能射火箭蒙天皇威靈以月九日酉時焚城拔之故遣單使馳舩奏聞別奏若但斯羅者有至臣所將軍士亦可足矣今?()與斯羅同心戮力難可成功伏願速遣竹斯嶋上諸軍士來助臣國又助任那則事可成又奏臣別遣軍士萬人助任那幷以奏聞今事方急草舩遣奏伹奉好錦二疋毾㲪一領斧三百口及所獲城民男二女五輕薄追用悚懼餘昌謀伐新羅耆老諫曰天未與懼禍及餘昌曰老矣何怯也我事大國有何懼也遂入新羅國築久陀牟羅塞其父明王憂慮餘昌長苦行陳久廢眠食父慈多闕子孝希成乃自往迎慰勞新羅聞明王親來悉發國中兵斷道擊破是時新羅謂佐知村飼馬奴苦都曰苦都賤奴也明王名主也今使賤奴殺名主冀傳後世莫忌於口巳卯苦都乃獲明王再拜曰請斬王首明王對曰王頭不合受奴手苦都曰我國法違背所盟雖曰國王當受奴手明王仰天大息涕泣許諾曰寡人毎念常痛入骨髄願計不可苟活乃延首受斬苦都斬首而殺掘坎而埋餘昌遂見圍繞欲出不得士卒遑駭不知所圖有能射人筑紫國造進而彎弓占擬射落新羅騎卒最勇壯者發箭之利通所乗鞍前後橋及其被甲領會也復續發箭如雨?()厲不懈射却圍軍由是餘昌及諸將等得從間道逃歸餘昌讚國造射却圍軍尊而名曰鞍橋君於是新羅將等具知百濟疲盡遂欲謀滅無餘有一將云不可日本天皇以任那事屢責吾國況復謀滅百濟官家必招後患故止之

二月に、百済は、下部の杆率の將軍の三貴と上部の奈卒の物部の烏達を派遣して、援軍を要請した。それで徳卒の東城子の莫古を献上して、前の順の奈卒の東城子の言に交代した。五経の博士の王柳貴を、固徳の馬丁の安に代えた。僧の曇慧等九人を、僧の道深等七人に交代した。別に詔勅を聞いて、易の博士の施徳の王道良と暦の博士の固徳の王保孫と医療の博士の奈卒の王有㥄陀と採藥師(薬草の専門家)の施徳の潘量豐と固徳の丁有陀と・楽師の施徳の三斤と季徳の己麻次と季徳の進奴と對徳の進陀を貢上した。みな言う通りに交代した。三月の丁亥が朔の日に、百済の使者の中部の木刕の施徳の文次等が帰った。夏五月の朔が丙戌の戊子の日に、内の臣が、海軍を率いて、百済に行った。冬十二月に、百済は、下部の杆卒の汶斯干奴を派遣して、「百済の王で天皇の臣下の明と、安羅に居る諸々の倭の臣達が、任那の諸国の旱岐達が、『新羅の無道は、天皇を畏れず、狛と一体になって、海北の彌移居を殲滅しようとしている。私達は一緒に話し合って、有至の臣達を派遣して、あがめて軍隊の覇権をお願いして、斯羅を征伐しよう』と奏上した。それで天皇の派遣した有至(?)の臣が、軍隊を率いて、六月にやってきた。私達は、心底喜んだ。十二月九日に、斯羅を攻撃しようと派遣した。私は、まず東方の頭領の物部の莫奇武の連を派遣して、東方の軍隊を率いて、函山の城を攻めさせた。有至(?)臣が將いて来た人民の竹斯の物部の莫奇委沙奇が、上手に火矢を射た。天皇の威光を背に、この月の九日の酉の時に、城を焼いて手に入れた。それで、一人の使者を急ぎの船で派遣して奏上した」と上表文で奏上した。それとは別に「もし斯羅だけ単独なら、有至(?)臣が率いてきた軍隊で足りるだろう。今回は狛と斯羅とが、一つになって全員の力を結集した。勝利するのは難しい。

土下座してお願いしますのは、すぐに竹斯の嶋に湊の諸々の軍隊を派遣して、私の国にやって来て助けてください。また任那を助ければ、再建できます」と奏上した。さらに「私は、それとは別に軍隊を一万人派遣して、任那を助けましょう。さらに奏上します。今は急を要します。草(?)(草で作った様に急ごしらえの船)で派遣して奏上します。ただし上等な錦を二匹と毾㲪(撚り糸?)一領と斧三百口、及び獲得した城の人民の男二人と女五人を献上します。些少で申し訳ありませんが追加分と考えてください」と奏上した。餘昌は、新羅を伐とうと考えた。長老が「天がまだ早い、恐ろしいことが起こると言っている」と諌めた。餘昌は、「年寄り達よ、何を怯える。私は大国に仕えているのだから、何で懼れる必要がる」と言った。とうとう新羅の国に押し入って、久陀の牟羅に要塞を築いた。その父の明王は、餘昌が長い行軍に苦しんで寝食もままならないことを心配した。父の慈愛が行き届かず、子が父の思いに叶わないと思った。それで王自ら子を出迎えて慰労した。新羅は、明王自らやってきたと聞いて、全ての国中の軍を発して、帰路で待ち伏せて撃破した。この時、新羅は、佐知の村の馬の世話をする下男の苦都に「苦都は身分の低い下男です。明王は名の通った主だ。今、身分の低い下男に名が通った主を殺させた。後世、口々に噂となって、忘れられない」と言った。もう苦都は、明王を捕まえ、 二礼して、「王の首を斬らさせてもらいます」と言った。明王は「王の頭を下男の手で受けてはいけない」と答えた。苦都が「私の国の法では、約束したことを守らなければ、国王と言えども、下男の手で受けることが出来る」と言った。

明王は、天を仰いで、大きくため息をついて涙を流して泣いた。「私はいつも思っているが、骨髄に刀が入ったらきっと痛い。生き残らないように頼むぞ」と受け入れて言って、それで首を伸ばして斬られた。苦都は、首を斬って殺して、穴を掘って埋めた。餘昌はとうとうとり囲まれて、出るに出られなかった。士官と兵卒はあわてふためいて、どうしたらよいか解らなかった。弓打ち名人の、

筑紫の国造がいて。進み出て弓を引いて、おおよそに判断して新羅の騎兵の最も勇敢な者を射落した。放った矢は鋭く、乗った鞍の前と後の橋を貫いて、鎧で覆われた襟首の喉元を貫いた。

そして、次々に矢は雨あられと放って、いよいよ激しく、休むことが無く、包囲軍は退却した。これで、餘昌とその諸將等は、抜け道を使って逃げ帰ることが出来た。餘昌は、国造が、包囲軍を退却させたことを褒めて、貴んで鞍橋君と名付けた。ここで、新羅の將軍達は、百済の疲れ尽きた様子を知り、全滅させようとした。ある将軍がいて「それはだめだ。日本の天皇は、任那の事で、たびたび私の国を責める。ましてまた、百済の官家を滅ぼそうとした、きっと後で悪い事を招く」と言ったので止めた。】とあり、標準陰暦と合致する。

筑紫国造が君を賜姓されて筑紫君鞍橋と名乗った述べているが、継体天皇二二年に「筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉求贖死罪」と筑紫君となっていて矛盾があるが、これは、磐井の反乱が553年まで続いていたことを示し、554年に葛子が「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と筑紫国造に即位して12月に筑紫君に出世したことになる。

592年の崇峻天皇五年記事の「東漢直駒東漢直磐井子也」と馬子の義子で有るとともに磐井の子で馬子は推古天皇三四年「大臣薨仍葬于桃原墓大臣則稻目宿禰之子也」と一代だったら化け物のなで襲名しているが、磐井は確実に554年正月に死んでいるので、葛子20代で駒は十代と想像される。

立太子は554年以前は仁賢天皇七年494年にあり、この時倭王武から磐井すなわち、磐の地(?筑後の八女)に筑紫国造王朝の宮が変わり、『広開土王碑文』の「而倭以辛卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」すなわち391年に豊国と倭の連合軍が三韓に攻めたが敗れ、409年か415年に「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と扶桑国に、421年『宋書』「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と中国に臣従して後代まで生き延びた。