2019年12月30日月曜日

最終兵器の目 履中天皇2

 『日本書紀』慶長版は
當是時倭直吾子籠素好仲皇子預知其謀密聚精兵數百於攪食栗林爲仲皇子將拒太子時太子不知兵塞而出山行數里兵衆多塞不得進行乃遣使者問曰誰人也對曰倭直吾子籠也便還問使者曰誰使焉曰皇太子之使時吾子籠憚其軍衆多在乃謂使者曰傳聞皇太子有非常之事將助以備兵待之然太子疑其心欲殺則吾子籠愕之獻己妹日之媛仍請赦死罪乃免之其倭直等貢采女蓋始于此時歟太子便居於石上振神宮於是瑞齒別皇子知太子不在尋之追詣然太子疑弟王之心而不喚時瑞齒別皇子令謁曰僕無黑心唯愁太子不在而參起耳爰太子傳告弟王曰我畏仲皇子之逆獨避至於此何且非疑汝耶其仲皇子在之獨猶爲我病遂欲除故汝寔勿黒心更返難波而殺仲皇子然後乃見焉瑞齒別皇子啓太子曰大人何憂之甚也今仲皇子無道群臣及百姓共惡怨之復其門下人皆叛爲賊獨居之無與誰議臣雖知其逆未受太子命之故獨慷慨之耳今既被命豈難於殺仲皇子乎唯獨懼之既殺仲皇子猶旦疑臣歟冀見得忠直者欲明臣之不欺太子則副木菟宿祢而遣焉爰瑞齒別皇子歎之曰今太子與仲皇子並兄也誰從矣誰乖矣然亡無道就有道其誰疑我則詣于難波伺仲皇子之消息仲皇子思太子巳逃亡而無備時有近習隼人曰刺領巾瑞齒別皇子陰喚刺領巾而誂之曰爲我殺皇子吾必敦報汝乃脱錦衣褌與之刺領巾恃其誂言獨執矛以伺仲皇子入厠而刺殺即隸于瑞齒別皇子於是木菟宿祢啓於瑞齒別皇子曰刺領巾爲人殺己君其爲我雖有大功於巳君無慈之甚矣豈得生乎乃殺刺領巾即日向倭也夜半臻於石上而復命於是喚弟王以敦寵仍賜村合屯倉是日捉阿曇連濱子
【この時に、倭直の吾子篭が、日ごろから仲皇子と親しくしていた。前々からそのもくろみを知っていて、密かに精兵数百人を撹食の栗林に集めて、仲の皇子の為に、太子をこばもうとした。その時太子は、兵を妨げることを知らないで、山を数里出て来た。軍勢の多くが邪魔をされ、進むこと出来ない。それで使者を派遣して、「誰だ」と問いかけると、「倭直の吾子篭だ」と答えた。それで再び使者に「誰の死者だ」と問いかけ、「皇太子の使者です」といった。その時、吾子篭は、その軍勢がたくさんいることにためらって、使者に「伝え聞いたところ、皇太子が、非常事態と聞き、助けようと兵を準備して待っていました」と言った。しかし太子は、その心根を疑って殺そうとした。それで吾子篭は怯えて、妹の日之媛を献上した。それで死罪を許してほしいと願った。それで免じた。倭直等が、采女を献上するのは、思うにこれが始まりだろうか。太子は、石上の振神の宮に居た。ここに、瑞齒別の皇子は、太子がいないことを知って、追いかけておとずれた。しかし太子は、弟王の心根を疑って声をかけなかった。その時、瑞齒別の皇子は、お目通りして、「私は、悪い考えは無い。ただ太子が居ないこと愁いて、やってきただけです」と言った。そこで太子は、弟王に伝えて「私は、仲の皇子の反逆を畏れて、一人で逃げてここに来た。どうしても、お前を疑わずにいられない。仲の皇子がいるだけが、私の苦労の種だ。絶対に取り除きたい。それで、お前が、本当に反逆心が無いのなら、難波に帰って、仲の皇子を殺せ。そうしたら、会見しよう」と告げた。瑞齒別の皇子は、太子に「お大人様、何をそんなに心配しているのです。今、仲の皇子は、非道で、群臣や百姓共に、許しがたく不満に思っている。また、その食客も、皆、叛いて敵となっている。孤独で誰も相談に乗らない。私は、その反逆を知っていても、まだ、太子に命令されていなかった。だから、一人で激しくいきどおり嘆いていました。今、やっと命令された。どうして仲の皇子を殺さないはずが有りましょうか。だだ一つ気がかりなのは、仲皇子を殺しても、それでもなお、私を疑わないですか。できましたら、忠義で正直に見て仕える人物をつけてわたしがあざむかないことを明らかにしたい。」と表明した。太子は、木菟の宿禰を見届けに派遣した。瑞齒別の皇子は、「今、太子と仲の皇子共に兄だ。どちらかに従い、どちらかに叛く。だから、道理に従わない者を亡し、道理が有る者につけば、誰が私を疑うだろうか」といった。そして難波に行き、仲の皇子の様子を探った。仲の皇子は、太子がすでに逃亡したと思って、何も備え無かった。その時、近習の隼人がいた。刺領巾と言った。瑞齒別の皇子は、ひそかに刺領巾を呼んで、「私の為に皇子を殺してくれ。私は、必ず手厚くお前に報いよう」と頼んだ。それで、錦の衣と褌を脱いで与えた。刺領巾は、その頼まれた約束を頼りに、一本の矛をとって、仲の皇子が廁に入ったすきまをねらって刺し殺し、瑞齒別の皇子につきしたがった。そこで、木菟の宿禰は、瑞齒別の皇子に「刺領巾は、人の為に自分の主君を殺した。それは、私の為に大変功績があったと言っても、自分の主君にいつくしむことが無い事甚だしい。どうして生かしておけようか」話した。それで刺領巾を殺した。その日すぐに、倭へ向った。夜半に、石上に来て復命した。そこで、弟王を呼んでとても手厚い待遇で村合の屯倉を与えた。この日、阿曇の連の濱子を捕まえた。】とある。
『日本書紀』の仁徳天皇即位前紀に吾子篭は額田の大中彦皇子が、倭の屯田や屯倉を淤宇の宿禰に渡さないで、すなわち、大山守の土地だから額田の大中彦が支配すると渡さなかったので、吾子篭がその実情を知っているからということで聞くと、この土地は垂仁天皇の時代から天皇の領地で天皇のものということで、額田の大中彦に伝えたと記述して、大山守が皇太子になれなかったのが不満だったと記述して終わっている。
これは、額田の大中彦が仲足彦の皇子またはその上司の大足彦の皇子だったので、額田の大中彦が後継天皇になるのだから、倭の屯田や屯倉が自分のものと納得した可能性が高い。
そして吾子篭が大井河に引っ掛っていた木で船を造った年に額田の大中彦が氷室を見つけた記事もあり、大中彦と吾子篭が同世代だが、履中前期の記述からこの吾子篭が仲皇子と親密としていて、どうやら、額田の大中彦皇子が実際の建内の宿禰の継承者でその子が仲皇子となり皇太子とすると世代的にも説話の意味が良く通り、吾子篭が韓地に行っていたのは葛城の襲津彦と共に出国していたことがわかる。
吾子篭は雄略天皇二年まで記述されていて、大鷦鷯が400年即位の履中天皇なら吾子篭が455年以降まで生存していても矛盾がなく、雄略天皇二年には大倭の國造吾子篭の宿禰と倭直で逆臣だったものが雄略紀には出世しており、吾子篭を許すように尽力したのだろう。
また、瑞齒別は隼人の刺領巾を配下にしているようで、葛城氏の支配地日向との関係が解り、阿曇の連も『古事記』に「綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也故阿曇連等者其綿津見神之子宇都志日金析命之子孫也其底箇之男命中箇之男命上箇之男命三柱神者墨江之三前大神」と九州の氏族で墨江の大神と「墨江之中津王」の配下と矛盾が無く、『舊事本紀』に「天造日女命阿曇連等祖」と阿曇連は天国の王の家系で、葛城氏が『三国志』の投馬國や邪馬壹國との繋がりが認められる。
そして、『後漢書』辰韓に「國出鐵濊倭馬韓并从市之凡諸貿易皆以鐵為貨」、『三國志』弁辰傳に「國出鐵韓濊倭皆從取之諸巿買皆用鐵如中國用錢」、倭人伝に「竹箭或鐵鏃或骨鏃」、『晋書』倭人に「有刀楯弓箭以鐵爲鏃」と倭には鉄が豊富に輸入され、北部九州には鉄製品が多く出土するが、畿内では出土数が少なく、『梁書』扶桑國に「多蒲桃其地無鐵有銅」と対応している。
九州や畿内の砥石を研究されている新潟大学の森貴教氏は古代学研究会での発表で、砥石の目の粗さが細かいものが鉄器用に用いられ、畿内は遺跡に雑多の砥石が出土するのに対して、九州は地域で別れて分業されていていると報告され、すなわち、分業するほど鉄器生産が盛んな九州と片手間の畿内が見て取れ、この豊富な鉄器によって倭国と葛城氏の連合に尾張王朝は敗れ去ったようだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿