2019年12月16日月曜日

最終兵器の目 仁徳天皇7

 冬十月甲申朔遣的臣祖口持臣喚皇后爰口持臣至筒城宮雖謁皇后而默之不荅時口持臣沾雪雨以經日夜伏于皇后殿前而不避於是口持臣之妹國依媛仕于皇后適是時侍皇后之側見其兄沾雨而流涕之歌曰揶莽辭呂能菟菟紀能瀰揶珥茂能莽烏輸和餓齊烏瀰例麼那瀰多遇摩辭茂時皇后謂國依媛曰何爾泣之對言今伏庭請謁者妾兄也沾雨不避猶伏將謁是以泣悲耳時皇后謂之曰告汝兄令速還吾遂不返焉口持則返之復奏于天皇十一月甲寅朔庚申天皇浮江幸山背時桑枝江水而流之天皇視桑枝歌之曰菟怒瑳破赴以破能臂謎餓飫朋呂伽珥枳許瑳怒于羅遇破能紀豫屢麻志枳箇破能區莽愚莽豫呂明譬喩玖伽茂于羅愚破能紀明日乗輿詣于筒城宮喚皇后皇后不參見時天皇歌曰菟藝埿赴揶摩之呂謎能許久波茂知于智辭於朋泥佐和佐和珥儺餓伊弊齊虛曾于知和多湏椰餓波曳儺湏企以利摩韋區例亦歌曰菟藝泥赴夜莽之呂謎能許玖波茂知于智辭於朋泥泥士漏能辭漏多娜武枳摩箇儒鶏麼虛曾辭羅儒等茂伊波梅時皇后令奏言陛下納八田皇女爲妃其不欲副皇女而爲后遂不奉見乃車駕還宮天皇於是恨皇后大忿而猶有戀思三十一年春正月癸丑朔丁卯立大兄去來穗別尊爲皇太子三十五年夏六月皇后磐之媛命薨於筒城宮三十七年冬十一月甲戌朔乙酉葬皇后於那羅山十八年春正月癸酉朔戊寅立八田皇女爲皇后
冬十月の朔が甲申の日に、的臣の祖の口持臣を派遣して皇后呼び寄せようとした。そこで口持臣は、筒城の宮に着いて、皇后にお目通しても、押し黙って返答が無かった。その時、口持臣は、降る雪に濡れて昼から夜まで、皇后の御殿の前に土下座して雨を避けようとしなかった。そこで、口持臣の妹の国依媛が、皇后に仕えていた。この時に、皇后の側近くつかえていた。その兄が雨に濡れているのを見て、涙を流して歌った()。その時、皇后は、国依媛に「どうしてお前が泣いている」と言った。それに、「今、庭で土下座して 伏して面会を願っているのは、私の兄です。雨に濡れても避けようともしない。さらに土下座してお目通りを待っている。それで、何もできないので、泣き悲しんでいます」と答えた。その時、皇后は、「お前の兄に早く帰るように告げなさい。わたしは絶対帰らない」と言った。口持は、それで返って、天皇に復命を奏上した。十一月の朔が甲寅の庚申の日に、天皇は、桟橋から山背に行幸した。その時、桑の枝を水滴が滴となって流れた。天皇は、桑の枝を視て歌った()。輿に乗って、筒城の宮に着いて、皇后を呼んだ。皇后は、天皇の前に会いに来なかった。その時天皇が歌った()。また歌った()それで皇后は、「陛下は、八田皇女を妃にした。それは皇女の中の一人ではなく皇后にしたいのでしょう」と奏上して、とうとう奉見しなかった。それで車駕に乗って、宮に帰った。天皇は、皇后がとても怒って許さなかったことを恨んだ。そのためまだ恋しい気持ちが無くならなかった。三十一年の春正月の朔が癸丑の丁卯の日に、大兄の去來穗別の尊を皇太子に立てた。三十五年の夏六月に、皇后の磐之媛の命が、筒城の宮で薨じた。三十七年の冬十一月の朔が甲戌の乙酉の日に、皇后を乃羅の山に葬むった。三十八年の春正月の朔が癸酉の戊寅の日に、八田皇女を皇后に立てた。】とあり、十月甲申は9月30日で9月が小の月なら合致し、その他は標準陰暦と合致する。
ここも尾張王朝の説話で、ここでの皇后は宇遅之若郎女で伊勢遺跡の別朝廷の王女の八田姫を皇后に迎えて朝廷を統一しようとした説話である。
宮主矢河枝比賣の子の八田は皇后である宮主の妹の袁那辨の郎女の娘の宇遅之若郎女とでは格が八田姫が高く、皇后の悔しい思いが想像に難くなく、また、天皇としても、伊勢遺跡の王朝のもう一方の後継者を皇后として迎え入れなければ、伊勢遺跡の王朝の配下が臣従しないことが解っているので引くに引けないと思われる。
そして、伊勢遺跡の王朝の終焉が『舊事本紀』に「以大鷦鷯尊為太子輔之令知國事矣以物部
斤葉連公為大臣」と印葉大臣(皇太子)が存在し、仁徳朝の初期ではなく、342年もしくは八田皇后の就任時の350年の可能性が有り、菟道の稚郎子と譲り合っている時に既に難波の宮が有ったこともそれをうかがわせる。
ここで、遣的臣祖口持臣に関して「一云和珥臣祖口子臣」とあるが、これまで、一云を後代に挿入したものだから無視をしてきたが、これまでの分析から、後代挿入は本文の中に一云とことわり書き無しに挿入され、日干支の記録があればその日に、無ければ、是年などとして挿入されていた。
そうすると、一云や一書は『日本書紀』を書いた葛城・平群王朝の資料ではない資料が記述された、すなわち別王朝の資料だったと解り、さらに、別王朝で葛城・平群王朝に無い資料に年号と対応させているということは、それまでの『日本書紀』の内容がすでに存在し、一云や一書はその時の天皇の次の世代が追記したものと考えなければ辻褄が合わない。
記述した時に解っていれば、一云や一書などとせず、そのまま書き入れればよいのであり、『日本書紀』の日干支は日記のように日々書き残していたとしなければ、なかなか計算では、これほど標準陰暦と合致しないはずだ。
従って、口持臣の 「一云和珥臣祖口子臣」は尾張王朝が伊勢遺跡の資料をもとに書き加えたと考えるべきで、口子臣は皇后と八田媛の氏族で、氏族の存続を賭けた説得だったのだろう。

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