2019年12月25日水曜日

最終兵器の目 仁徳天皇11

 『日本書紀』慶長版は
六十五年飛騨國有一人曰宿儺其爲人壹體有兩面面各相背頂合無項各有手足其有膝而無膕踵力多以輕捷左右佩剱四手並用弓矢是以不隨皇命掠略人民爲樂於是遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之六十七年冬十月庚辰朔甲申幸河內石津原以定陵地丁酉始築陵是日有鹿忽起野中走之入役氏(民)之中而仆死時異其忽死以探其痍即百舌鳥自耳出之飛去因視耳中悉咋割剥故号其處曰百舌鳥耳原者其是之縁也是歲於吉備中國川嶋河派有大虬令苦人時路人觸其處而行必被其毒以多死亡於是笠臣祖縣守爲人勇捍而強力臨派淵以三全瓠投水曰汝屡吐毒令苦路人余殺汝虬汝沉是瓠則余避之不能沈者仍斬汝身時水虬化鹿以引入瓠瓠不沈即舉剱入水斬虬更求虬之黨類乃諸虬族滿淵底之岫穴悉斬之河水變血故号其水曰縣守淵也當此時妖氣稍動叛者一二始起於是天皇夙興夜寐輕賦薄斂以寛民萌布德施惠以振困窮吊死問疾以養孤孀是以政令流行天下太平二十餘年無事矣八十七年春正月戊子朔癸卯天皇崩冬十月癸未朔己丑葬于百舌鳥野陵
【六十五年に、飛騨国に宿儺という人がいた。そのからだつきは、体が一つで顔が2つ有った。顔はそれぞれ反対を向いていた。頭はつながっているがうなじが無い。それぞれ手足は有った。その人は膝や膝窩(ひかがみ)が有って、踵が無い。多才で軽やかで素早い。左右に剱を差して、四本の手に2本の弓矢を用いる。それで、皇命に隨がわない。人民からかすめとって喜んでいる。そこに、和珥臣の祖の難波根子武振熊を派遣して誅殺させた。六十七年の冬十月の朔が庚辰の甲申の日に、河内の石津の原に行幸して、陵にする土地を定めた。丁酉の日に、陵を築き始めた。この日に、鹿がいて、にわかに野の中から出てきて、走って役に就いた民の中に入ってきて仆れて死んだ。その時、鹿がにわかに死んだことを奇妙に思って、そのきずついた原因を探した。それで百舌鳥が、耳から飛び出して去っていった。それで耳の中を視ると、のこらず咋いさきはぎとっていた。それで、其処を百舌鳥の耳原と名付けたのは、これが由来だ。この歳に、吉備の中国の川嶋河の支流に、大きなみづちがいて人を苦めた。人が歩いて、それに触れていけば、必ずその毒で被害にあって、多くが死亡した。そこで、笠臣の祖の縣守の人柄は、勇敢で力強い。支流の川渕にやって来て、三個の丸のままの瓢箪を川に投げ入れて、「お前はしきりに毒を吐いて、路上の人を苦しめる。私は、お前を殺す。お前がこの瓢箪を沈めることが出来れば、私は立ち去ろう。沈めることが出来なければ、すなわちお前を斬り殺す」と言った。その時、みづちは、鹿に化けて、瓢箪を川に引き入れたが沈まなかった。それで剱を振り上げて水に入って、みづちを斬った。さらにみづちの中間を探した。それで諸々のみづちたちが、川淵の底のくぼみに満ちていた。残らず斬り殺した。河の水が血に染まった。それで、その川を縣守の淵と名付けた。この時に、あやしい気配がだいぶ動き出して、反逆者が一人・二人と出現しだした。そこで、天皇は、早くから起き出し暗くなってから寝て、割り当てを軽くし、とりたてを薄くして、困り苦しんでいたら助ける。死を弔い病を問いただし、一人っきりのやもめを養った。このようにして、まつりごとやいいつけが拡がり、国じゅうが平和に治まり穏やかだった。二十年余り何事もなかった。八十七年の春正月の朔が戊子の癸卯の日に、天皇、が崩じた。冬十月の朔が癸未の己丑の日に、百舌鳥野の陵に葬った。】とあり、六十七年十月庚辰は標準陰暦と合致し、八十七年正月戊子は前年の12月30日で小の月なら朔日になる。
『舊事本紀』では「八十二年春二月乙巳朔詔侍臣物部大別連公・・・改賜矢田部連公姓」と、『日本書紀』の崇神天皇紀に「則遣矢田部造遠祖武諸隅」と物部氏か尾張氏か解らない武諸隅を述べたが、賜姓された物部氏と尾張氏が天皇の家系だったように、矢田部氏は近江の伊勢遺跡の朝廷に対する賜姓の可能性があり、父物部印葉連は「輕嶋豐明宮御宇天皇御世拜為大連」で「以大鷦鷯尊為太子輔之令知國事矣以物部斤葉連公為大臣」と恐らく印葉の子が大臣すなわち没落側の皇太子を示している。
これまで、造陵は元年や末年で、孝元天皇六年の「葬大日本根子彦太瓊天皇于片丘馬坂陵」、開化天皇五年の「葬大日本根子彦國牽天皇于劒池嶋上陵」が長期間造陵にかかったが、それでも、死後に造っている。
ところが、仁徳天皇はすでに即位して67年も経ってから、仁徳陵が正しければ当然作るのに時間がかかるのは当然なので、67年在位した高齢の天皇がまだ20年生きることが解っていたような記述だ。
実際は、この築陵の後20年生存が重要で、だいたい、天皇の一代は20年が平均と言われ、それは当然で、天皇の長男が生まれる時期が20歳頃なので、20年毎に即位する循環が出来、すなわち、何代目かの仁徳天皇が崩じて、長男が仁徳天皇を襲名して、すぐに埋葬し、また、20年後、その天皇が崩じて百舌鳥野陵に葬られたのである。
築陵は竪穴を掘って、石で囲んでお棺を納め、蓋をして土を被せれば埋葬は終わり、祭礼場所が完成すれば天皇陵が出来上がり、短時間で終了するのだから、次の天皇即位前の数か月で終えることが出来る。
そうでなければ、他の天皇も同じように任期中に築陵を始める記事が無ければ理解できない。
そして、この、笠臣の祖も笠臣が出現するのが大化元年の吉備笠臣垂、和珥臣が雄略天皇元年の春日和珥臣深目女で前項の始祖と同じで、武振熊は神功皇后摂政元年に「武内宿禰和珥臣祖武振熊率數萬衆令撃忍熊王」とあるように、武内宿禰と共に出現し、この事件は実際は390年に武内宿禰が即位する前の377年頃がまさによく合い、忍熊王の戦いの結果、難波根子の役職名を得ることが出来た。

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