2019年12月23日月曜日

最終兵器の目 仁徳天皇10

  『日本書紀』慶長版は
五十五年蝦夷叛之遣田道令擊則爲蝦夷所敗以死于伊寺水門時有從者取得田道之手纏與其妻乃抱手纏而縊死時人聞之流涕矣是後蝦夷亦襲之略人民因以掘田道墓則有大虵發瞋目自墓出以咋蝦夷悉被虵毒而多死亡唯一二人得兔耳故時人云田道雖既亡遂報讎何死人之無知耶五十八年夏五月當荒陵松林之南道忽生兩歷木挾路而末合冬十月吳國髙麗國並朝貢六十年冬十月差白鳥陵守等充役丁時天皇臨于役所爰陵守目杵忽化白鹿以走於是天皇詔之曰是陵自本空故欲除其陵守而甫差役丁今視是恠者甚懼之無動陵守者則且授土師連等六十二年夏五月遠江國司表上言有大樹自大井河流之停于河曲其大十圍本一以末兩時遣倭直吾子籠令造舩而自南海運之將來于難波津以?(充)御舩也是歲額田大中彥皇子獵于鬪鶏時皇子自山上望之瞻野中有物其形如廬乃遣使者令視還來之曰窟也因喚鬪鶏稻置大山主問之曰有其野中者何窨矣啓之曰氷室也皇子曰其藏如何亦奚用焉曰掘土丈餘以草蓋其上敦敷茅荻取氷以置其上既經夏月而不泮其用之即當熱月漬水酒以用也皇子則將來其氷獻于御所天皇歡之自是以後毎當季冬必藏氷至春分始散氷也
【五十五年に、蝦夷が、反逆した。田道を派遣して撃たせた。それで蝦夷によって敗れて、伊峙の水門で死んだ。この時に供の者がいて、田道の弓籠手を持ち帰ることが出来て、その妻に渡した。それで弓籠手を抱きしめて首を括って死んだ。当時の人は、それを聞いて涙を流した。この後、蝦夷は、また来襲して人民を略奪した。それで、田道の墓を掘ると、大蛇がいて、かっと目をむいて墓から這い出して蝦夷を噛んでのこらず蛇の毒の被害にあい、たくさんの死者が出た。ほんの一人か二人が免れることが出来ただけだった。それで、当時の人が「田道は、すでに死んだと言っても、かたきにしかえしをなしとげた。どうして、死人が何もできないというのか」と言った。五十八年の夏五月に、ちょうど荒陵の松林の南の道に、急に2本の歴木が生えた。路を挟んで幹の先が合わさっていた。冬十月に、呉国・高麗国が、一緒に朝貢した。六十年の冬十月に、白鳥陵の墓守等を使って役丁に充てた。その時、天皇は、みづから役丁の働く所を臨み見ると、そこの墓守の目杵が、たちまち白鹿になって逃げた。そこで、天皇は、「この陵は、本々、だれも葬っていない。それで、その墓守をなくそうと思って、役丁に充てはじめた。今、このあやしい現象をみると、とても恐ろしい。墓守をそのままにしておけ」と詔勅した。それでまた、土師連等に授けた。六十二年の夏五月に、遠江の國司が、「大きな樹が有って、大井河から流れて、川隈に引っかかった。其の大きさ十かかえで、本々は一本だが途中で二股になっている」と上表した。その時、倭直の吾子篭を派遣してその木で船を造った。それで南の海から運んで、難波津の引いてきて、御用船に充てた。この歳、額田大中彦の皇子が、闘鶏へ狩猟をしに出掛けた。その時、皇子は、山の上から望み見て、野の中をみたら、なにかが有った。其の形は質素な小屋のようだった。それで使者を派遣して調査した。帰って来て「ほらあなでした」と言った。それで闘鶏の稲置の大山主を呼んで、「その野の中に有る洞穴は、何だ」と問いただした。「氷室です」と説明した。皇子は、「それはどのようなものを所蔵するのか。また何に使うのか」と言った。「土を1丈余り掘って、草をその上に覆う。てあつく茅や荻を敷いて、氷を取りだしてその上に置いておく。ひと夏既に経ったのに解けていない。その使い道は、すなわち熱い月になったら、水酒に漬して用います」と言った。皇子は、それでその氷を持って来て、御所に献上した。天皇は、歓んで、これ以後、冬の終わりになる毎に、必ず氷を蔵に収めた。春分になると、氷をばらまき始めた。】とある。
田道は上毛野君の祖竹葉瀬の子供であるが、上毛野君の始祖が崇神天皇四八年に記述される豐城命が始祖、続いて垂仁天皇五年の上毛野君遠祖八綱田、さらに、応神天皇十五年の遣上毛野君祖荒田別、そして、仁徳天皇五三年上毛野君祖竹葉瀬で、上毛野君の初出は安閑天皇元年ある。
木菟の宿禰の「平群臣之始祖也」と平群臣で出現するのが雄略前紀の平群臣眞鳥爲大臣、応神天皇二二年の下道臣の始祖、上道臣の始祖、三野臣之始祖、苑臣之始祖はやはり雄略天皇七年の吉備下道臣前津屋、雄略天皇元年の吉備上道臣女稚媛、三野臣、苑臣は記述されない。
さらに、応神天皇十六年の書首等の始祖は雄略天皇九年の「古市郡人書首加龍之妻」、崇神天皇八年の三輪君等の始祖は雄略天皇即位前紀の「御馬皇子以曾善三輪君身狹」、孝元天皇七年の「大彦命是阿倍臣膳臣阿閇臣狹狹城山君筑紫國造越國造伊賀臣凡七族之始祖」、孝霊天皇二年の「稚武彦命是吉備臣之始祖」、孝昭天皇六八年の「天足彦國押人命此和珥臣等始祖」、安寧天皇十一年の「弟磯城津彦命是猪使連之始祖」、綏靖天皇即位前紀の「神祇者是即多臣之始祖」、神武天皇即位前紀の「名爲井光此則吉野首部始祖」、神話の「火闌降命是隼人等始祖火明命是尾張連等始祖」とすべて、実際に臣や君として出現するのは雄略天皇以降や記述されない。
すなわち、祖と呼ばれる人々は雄略天皇が臣下として認めた人々であり、記述されない氏族が有ると言うことから、やはり、雄略天皇が『日本書紀』の安康天皇まで記述し、これらの始祖と記述される氏族の神話や説話が『日本書紀』に反映されたのである。
そして、仁徳紀末に倭武の白鳥陵の説話を記述し、この田道の対蝦夷の神話を記述したのは、この頃、蝦夷との戦いがあり、建内宿禰の蝦夷説話が360年頃の説話、倭との新羅征伐も『三国史記」の364年の奈勿尼師今「九年夏四月倭兵大至王聞之恐不可敵造草偶人數千衣衣持兵 列立吐含山下伏勇士一千於斧峴東原倭人恃衆直進伏發擊其不意倭人大敗走追擊殺之幾盡 」の可能性がある。
呉・高句麗の朝貢に関して、高句麗は故國原王の十三年343年から小獸林王の七年377年より前まで晋と関係が良好で南朝との交流開始は倭がこれ以降、南朝の将軍に叙せられて、良く理解が出来、これに対して尾張王朝はかなり平和そうだ。

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