2019年12月6日金曜日

最終兵器の目 仁徳天皇3

 日本書紀慶長版
元年春正月丁丑朔己卯大鷦鷯尊即天皇位尊皇后曰皇太后都難波是謂髙津宮即宮垣室屋弗堊色也桷梁柱楹弗藻飾也茅茨之蓋弗割齊也此不以私曲之故留耕續之時者也初天皇生日木菟入于産殿明旦譽田天皇喚大臣武內宿祢語之曰是阿瑞也大臣對言吉祥也復當昨日臣妻産時鷦鷯入于産屋是亦異焉爰天皇曰今朕之子與大臣之子同日共産?(兼?並)有瑞是天之表焉以爲取其鳥名各相易名子爲後葉之?(契)也則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子取木菟名号大臣之子曰木菟宿祢是平群臣之始祖也是年也太歲癸酉二年春三月辛未朔戊寅立磐之媛命爲皇后后生大兄去來穗別天皇住吉仲皇子瑞齒別天皇雄朝津間稚子宿祢天皇又妃日向髮長媛生大草香皇子幡梭皇女
元年の春正月の朔が丁丑の己卯の日に、大鷦鷯尊が、天皇に即位した。皇后を尊びて皇太后という。難波に都を造った。これを高津の宮という。それで宮垣の室屋に、白土を塗らなかった。
垂木も梁も柱も楹(?棟木)も、藻?で飾らず、チガヤとイバラで覆うとき、きれいに分けなかった。これは、自分の為ではなく、耕作を続けようとしたからだ。天皇が産まれた日に、ミミズクが産屋に入ってきた。翌朝、譽田天皇が、大臣の武内宿禰を呼んで、「これは、なんのしるしだ」と語った。大臣は、「吉祥です。また昨日、私の妻が産む時に、ミソサザイが、産屋に入ってきた。これも、またへんだ」と答えた。そこで天皇が「今、我が子と大臣の子と、同日に共に産れた。並んで目出度い兆しだ。これは天神の思し召しだ。それで、その鳥の名を取って、それぞれとりかえて子に名付けて、将来までの友好の約束としよう」と言った。それで鷦鷯の名を取って今の太子に名付けて、大鷦鷯皇子という。木菟の名を取って、大臣の子を、木菟宿禰と名付けたという。是は、平群臣の始祖だ。この年は、太歳が癸酉にあたる。二年の春三月の朔が辛未の戊寅の日に、磐之媛命を皇后に立てた。皇后は、大兄去來穗別天皇と住吉仲皇子と瑞齒別天皇と雄朝津間稚子宿禰天皇を生んだ。また、妃の日向髮長媛は、大草香皇子と幡梭皇女を生んだ。】とあり、元年は標準陰暦と合致し、2年は2月が小の月で辛未は2日だ。
この、名前交換説話は、本来、『古事記』「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢此建内宿」と木の国造の武内の宿禰を継ぐ木菟の宿禰も武内の宿禰で武内の宿禰が葛城王朝の初代譽田天皇の皇太子だったが、やはり、武内の宿禰の子の葛城の国造である荒田皇子の娘の子の葛城の襲津彥と名前ではなく皇太子の座を交換させられたことを述べている。
譽田天皇である武内の宿禰もその子たちの木菟の宿禰や葛城の襲津彥もやはり宮を代表した王名で譽田宮があって、譽田宮の子である分家の大鷦鷯の宮を代表する王名が葛城の襲津彥で武内の宿禰である譽田宮の子が大鷦鷯宮の葛城襲津彥で、東宮の木菟の宿禰も代々皇太子の東宮の木菟の宿禰なのである。
そして、名前を交換したと記述して皇太子木菟の宿禰と葛城の襲津彥とで王朝が交替したとしたのだが、『日本書紀』を記述したのは木菟の宿禰の子孫の平群氏の雄略天皇なのだから、雄略天皇は名目上、本来自家が朝廷の後継者で、自分達は反逆して皇位を奪ったのではなく返してもらったと主張した、勝者の論理なのだろう。
それで、譽田宮の前皇后を大鷦鷯の宮に皇太后として迎え入れて、王朝の正統性を示し、皇后は大鷦鷯の宮の姫の磐之媛と葛城の襲津彥の男系の日向国の宮の髮長媛を妃として、大鷦鷯の宮の背景は葛城氏が後ろ盾となった政権で、5世紀以降の政権で、390年即位の譽田宮天皇なら応神41年は430年、396年即位の譽田宮天皇なら応神41年は436年である。
『日本書紀』の応神天皇「三十九年春二月百濟直支王遣其妹新齊都媛」が『三国史記』の腆支王の「十四年夏遣使倭國送白綿十匹」記事の380年即位の応神天皇もあわせて、10年・6年そして少なくとも25年以上続く宮が有り得るのは、兄弟相続で末の弟の宮が長く続いた王朝で、長男は父からの継承だから20年近く皇位に就くので履中天皇が六年で380年から宮が始まり、実際に武内の宿禰から皇位を得たのが384年、そして、弟の反正天皇が五年、末弟の允恭天皇が親子相続して四二年続いた天皇と重なる。
そして、380年から即位という葛城氏の宮の39年の西暦434年を挟んで453年まで継続した可能性があり、大鷦鷯の宮というのは平群氏で、続いて穴穂とまさしく天皇名でおかしな役職名や別王朝のような「別」や地名が付加されないのは当然で、平群氏の雄略天皇が『日本書紀』という最初の国史を記述し、それが、『古事記』や『舊事本紀』に踏襲され雄略天皇以降は仁賢天皇が記述した『古事記』を踏襲して、役職名が無い天皇名の弘計・億計という名が残されたのである。

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