2019年12月2日月曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十一 仁徳天皇1

 『日本書紀』慶長版は
大鷦鷯天皇譽田天皇之第四子也母曰仲姫命五百城入彥皇子之孫也天皇幼而聰明叡智貌容美麗及壯仁寛慈惠四十一年春二月譽田天皇崩時太子菟道稚郎子讓位于大鷦鷯尊未即帝位仍諮大鷦鷯尊夫君天下以治萬民者蓋之如天容之如地上有驩心以使百姓百姓欣然天下安矣今我也弟之且文獻不足何敢繼嗣位登天業乎大王者風姿岐嶷仁孝遠聆以齒且長足爲天下之君其先帝立我爲太子豈有能才乎唯愛之者也亦奉宗廟社稷重事也僕之不侫不足以稱夫昆上而季下聖君而愚臣古今之常典焉願王勿疑湏即帝位我則爲臣之助耳大鷦鷯尊對言先皇謂皇
位者一日之不可空故預選明德立王爲貳祚之以嗣授之以民崇其寵章令聞於國我雖不賢豈棄先帝之命輙從弟王之願乎固辭不(?)各相讓之是時額田大中彥皇子將掌倭屯田及屯倉而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿祢曰是屯田者自本山守地是以今吾將治矣爾之不可掌時淤宇宿祢啓于皇太子皇太子謂之曰汝便啓大鷦鷯尊於是淤宇宿祢啓大鷦鷯尊曰臣所任屯田者大中彥皇子距不令治大鷦鷯尊問倭直祖麻呂曰倭屯田者元謂山守地是如何對言臣之不知唯臣弟吾子籠知也適是時吾子籠遣於韓國而未還爰大鷦鷯尊謂淤宇曰爾躬往於韓國以喚吾子籠其兼日夜而急往乃差淡路之海人八十爲水手爰淤宇往于韓國即率吾子籠而來之因問倭屯田對言傳聞之於纏向玉城宮御宇天皇之世科太子大足彥尊定倭屯田也是時勅旨凡倭屯田者毎御宇帝皇之屯田也其雖帝皇之子非御宇者不得掌矣是謂山守地非之也時大鷦鷯尊遣吾子籠於額田大中彥皇子而令知狀大中彥皇子更無如何焉乃知其惡而赦之勿罪
【大鷦鷯天皇は譽田天皇の第四子だ。母を仲姫命という。五百城入彦の皇子の孫だ。天皇は、幼い時から聡明で深い知性がありゆとりがあって、容貌は美麗で、成長して、おもいやりが有って慈しみの心をもって施しをした。四十一年の春二月に、譽田天皇が崩じた。その時に太子の菟道の稚郎子は、皇位を大鷦鷯の尊に讓ったといって、いまだに即位していなかった。それで大鷦鷯の尊に、「それは天下の君として、萬民を治める者は、天のように覆い、地のように受け入れる。上は、喜び楽しむ気持ちを持って百姓を使う。百姓も喜べば、天下も平安だ。今、私は弟だ。また知識が足りず、どうして、帝位を継いで登れようか。大王あなたは、風貌は背が高く堂々とし、いつくしみの心があって孝行だと遠くまで聞こえて、年も既に大人になっているので、天下の君と為る要件を満たしている。それに先帝が、私を立てて太子にしたことは、才能が有るからではなく唯愛情からだ。また宗廟社稷に奉仕することはとても重大事だ。私は人におもねらず天皇にあてはまらない。年をたくさん重ねた兄は上、四季を数回重ねただけの弟なら下に、知徳にすぐれた者が君で愚かなるは配下となるのは昔からの変わらないきまりだ。できましたら王よ、なにも疑わないで帝位に即位してください。私は臣下として助けます」と相談した。大鷦鷯の尊は、「先皇が、『皇位は一日も空白が有ってはならない』と言った。それで、あらかじめ、正しく公明な徳を持った人を選んで、王を立てて後継とした。天子の位を受け継がせて、人民を授けようとした。その家来を愛するしるしを国中に伝えてあがめている。私は、賢くないとはいえ、どうして先帝の命令を破棄して、軽々しく弟王の願いに従えましょうか」と答えた。そうして、固辞して承諾しないでそれぞれ譲り合った。この時に、額田の大中彦の皇子が、まさに倭の屯田および屯倉をつかさどろうとして、その屯田の役目の出雲の臣の租の淤宇の宿禰に「この屯田は、元々、山守の領地だ。ここを、今、私が、治めようとしているが、お前はつかさどるな」といった。その時、淤宇の宿禰が、太子に打ち明けた。太子が、「お前は、大鷦鷯の尊に打ち明けろ」と言った。そこで、淤宇の宿禰は、大鷦鷯の尊に、「私が任された屯田は、大中彦の皇子が、拒んで治めさせない」とうちあけた。大鷦鷯の尊は、倭の直の租の麻呂に「倭の屯田は、もともと山守の領地というのは、どうなのか」と問いかけた。「私は知りません。ただし私の弟の吾子篭だけが知っている」と答えた。この時に丁度、吾子篭が、韓国に派遣されてまだ還っていなかった。ここで大鷦鷯の尊は、淤宇に「お前みづから韓国に行って、吾子篭を呼び寄せろ。昼夜を問わず急いで行け」と言った。それで淡路の海人を八十人を差配してかことした。そして淤宇は、韓国に行って、吾子篭を連れて帰ってきた。それで倭の屯田を問うと「聞きづたえに、纏向の玉城の宮で治めた天皇の治世に、太子の大足彦の尊に区分けさせて、倭の屯田を定めた。この時、天皇の意思は、『おおよそ倭の屯田は、いつも治める帝皇の屯田だ。それで帝皇の子と言っても、その治世でなければ、つかさどることは出来ない』ということだ。それを山守の領地というのは、間違いだ」と答えた。それで大鷦鷯の尊は、吾子篭を額田の大中彦の皇子のもとに派遣して、実情を知らせた。】とある。
いままで述べてきたように、皇位に就いていない皇太子の菟道の稚郎子は大王で大鷦鷯は王、すなわち、大王と天皇はイコールではないことが解る。
また、ここの登場人物が淤宇の宿禰すなわち大国王で以前の出雲の臣を滅ぼして葛城王朝のとき出雲の臣となる葛城王朝系の侵略者、倭の直は『日本書紀』「椎根津彥此即倭直部始祖」、「珍彥爲倭國造」、「國神名曰珍彥釣・・・賜名爲椎根津彥」と倭国造の後裔だ。
さらに、珍彥は『古事記』「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢此建内宿」と武内の宿禰の叔父で、吾子篭が韓国にいて帰っておらず、この時期に韓国から長い間帰っていなかったのは『日本書紀』「加羅國爰遣葛城襲津彥而召弓月之人夫於加羅然經三年而襲津彥不來焉」と葛城の襲津彥である。
葛城の襲津彥は田中卓によると『紀氏家牒』に葛城国造荒田彦の娘の葛比売が母親で「葛城長江曽都毗古」と言うように葛城の長江で生まれで、『舊事本紀』は「二年春三月庚戌朔壬子立仲姬命為皇后誕生三兒兒荒田皇子 次大鷦鷯尊 次根鳥皇子也」、「天皇所生皇子十七兒荒田皇子男十二王女五王子」と荒田の皇女ではなく荒田の皇子だけ特別に子の人数を記述している。
ところが、尾張氏の系図には『舊事本紀』「仲姫命立爲皇后誕生二男一女皇子荒田皇女次大萑天皇次根鳥皇子」と皇女であり、尾張王朝の系図が『日本書紀』の系図で物部氏が記述する皇統の応神天皇が武内の宿禰と考えられ、この時、武内の宿禰の子が葛城国造である荒田皇子でその娘の子が葛城の襲津彥と考えられる。
この葛城の系図は、葛城氏が3人目の日向国からの神武東征において珍彥と呼ばれ、すなわち、屋主忍男武雄心命が速水の門の水先案内人の屋島王と推定され、仁徳天皇は皇位を辞退しているにもかかわらず、競争相手、すなわち、本来の倭の支配者大中彦から皇位を奪い、皇位継承者となった菟道の稚郎子からおそらくその叔父の仁徳天皇が政権を奪おうとしていることを記述したようだ。

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