『日本書紀』慶長版は
「三十九年春二月百濟直支王遣其妹新齊都媛以令仕爰新齊都媛率七婦女而來歸焉四十年春正月辛丑朔戊申天皇召大山守命大鷦鷯尊問之曰汝等者愛子耶對言甚愛也亦問之長與少孰尤焉大山守命對言不逮于長子於是天皇有不悅之色時大鷦鷯尊預察天皇之色以對言長者多經寒暑既爲成人更無悒矣唯少子者未知其成不是以少子甚憐之天皇大悅曰汝言寔合朕之心是時天皇常有立菟道稚郎子爲太子之情然欲知二皇子之意故發是問是以不悅大山守命之對言也甲子立菟道稚郎子爲嗣即日任大山守命令掌山川林野以大鷦鷯尊爲太子輔之令知國事
四十一年春二月甲午朔戊申天皇崩于明宮時年一百一十歲是月阿知使主等自吴至筑紫時胸形大神乞工女等故以兄媛奉於胸形大神是則今在筑紫國御使君之祖也既而率其三婦女以至津國及于武庫而天皇崩之不及即獻于大鷦鷯尊是女人等之後今吴衣縫蚊屋衣縫是也」
【三十九年の春二月に、百済の直支王の妹の新齊都媛を派遣して仕えさせた。そこで新齊都媛は、七人の婦女を率いて、来訪した。四十年の春正月の朔が辛丑の戊申の日に、天皇は、大山守命と大鷦鷯尊を呼んで、「お前達は、子が愛しいか」と聞いた。「とても愛しい」と答えた。また「長子と幼少の子とは、どちらがまさっている」と問いかけた。大山守命は、「長子です」と答えた。
これに、天皇は、不快な様子だった。その時に大鷦鷯尊は、あらかじめ天皇の様子を察して、「長子は、多くの夏冬を経て、すでに成人となりうれいが無い。ただ幼少の子は、とてもいじらしい」と答えた。天皇は、とても悦んで、「お前の言うことは、まことにわが心を得ている」と言った。この時、天皇は、いつも菟道稚郎子を太子に立てたいと思っていた。しかし二人の皇子の気持ちを知ろうと思った。それで、この問いかけをしようとした。それで、大山守命の答えた言葉を喜ばなかった。甲子の日に、菟道稚郎子を跡継ぎにした。その日に、大山守命に山川林野をつかさどるよう任命した。大鷦鷯尊を、太子のたすけとして、国政にあたらせた。四十一年の春二月の朔が甲午の戊申の日に、天皇は、明宮で崩じた。その時、年齢は一百一十歳だった。この月に、阿知使主達が、呉から筑紫に着いた。その時、胸形大神が、縫い女達を求めた。それで、兄媛を、胸形大神に献上した。これがすなわち、今の筑紫国にいる、御使君の祖だ。すでに、その三人の婦女を連れて、津国に着いて、武庫(?武器庫)に来たところで、天皇が崩じて間に合わなかった。それで大鷦鷯尊に献上した。この女人達は時がたって、今の呉衣縫・蚊屋衣縫だ。】とあり、甲午は1月30日で1月が小の月なら合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。
なお、『舊事本紀』の「三十年春正月辛丑朔戊申天皇召大山守命大鷦鷯尊問」と大山守説話は卌と卅の十年誤写されているようだ。
菟道稚郎子は物部氏の皇子で、物部多遅麻を襲名した人物が伊勢遺跡の天皇で、忍熊王は「至菟道以屯河北忍熊王出營欲戰」と宇治で最終決戦があり、吉師祖の五十狹茅宿禰と武内宿禰の連合軍に敗退し、五十狹茅宿禰は纏向遺跡の天皇名と同名で、大彦の氏族の可能性が高い。
この忍熊王が戦った土地で生まれた可能性が高い菟道稚郎子が皇太子となり、印葉が大臣となったことから、270年に即位した天皇は物部多遅麻と名乗るが、中心王朝の畿内政権から見れば配下の物部という氏姓をもつ伊勢王朝の終焉を描いている。
そして、御使君の祖が不明で、使主が臣とされるが、実のところ、主は『三国志』「伊都國官曰爾支」と国の官僚の最高位で、各国の王が使主、主を使う王であり、大使主が大王となり、大王はたくさん存在し、皇太子も大王で、大王の一人が天皇となる。
そうすると、使君は使王のことで、王の王が大王でそれとイコールとするには違和感が有り、しかも、これだけ御と敬称が付加され、天皇や天子と考えなければ理に適わない。
すると、胸形大神が後の天皇は意味が通らず、呉の工女も同様で、阿知使主・都加使主親子が御使君としないと理解できず、阿知使主等が胸形大神の地を領有したのであり、この記事を記述した雄略天皇の時代には、『宋書』夷蛮伝倭國 に「二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故」と6国の王となっていて、御使君と呼ぶにふさわしい。
また、この百済の直支王の記事は『三国史記』の腆支王の「十四年夏遣使倭國送白綿十匹」記事の可能性が高く380年即位の応神天皇も存在する。
『宋書』に「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」と自分達衆夷は三韓の三分の二の領域で、『三国志』の「自郡至女王國萬二千餘里」の中の「到其北岸狗邪韓國七千餘里」と前漢時代から変わっておらず、阿知使主は「並率己之黨類十七縣而來歸焉」とその中の十七縣、30国が宋時代に60国、すなわち、伊都国も2国に分国し、その2国が伊都縣で、17縣は34国と考えなければならず、その国々を引き連れて葛城王朝に帰順したのである。
また、応神天皇には『古事記』では「御陵在川内恵賀之裳伏崗也」と墓が記述されるが、『日本書紀』には記述されず、あの巨大古墳を全く記述しないことに違和感を感じるが、もともと、応神天皇も襲名されていて、1つの墓では済まないので陵墓群なのだろうが、あの巨大で立派な墓のことが全く記述されないことはやはり違和感を感じる。
畿内の前方後円墳は竪穴式石室で横穴式石室になるのは6世紀になってから、竪穴式石室は既にある締まった盛り土でないと崩れてしまい、後から上部から穴を掘って石で固めて中にお棺を安置させるもので、計画的に作るのなら、かなりの年月が必要で、老司古墳など同時代の4世紀の福岡市の横穴式石室の石室を造ってから土を盛る墓と意味が異なる。
すなわち、畿内の古墳は元々あった盛り土であり、盛り土は墓にするために計画的に作ったのではないと考えるべきで、畿内では崇神天皇の時代から池をたくさん造成しているが、残土はどうなったかと考えると、その残土を崩れないようにして、池の周りの水田を監視するために使用していたと考えた方が理に適う。
そして、巨大前方後円墳は墓が重要なのではなく、周りの堀が重要で、堀が池の代わりを担い、中央にできた盛り土に、あとから、墓にするため上部から穴を掘ったのであり、百舌鳥にある応神陵は『日本書紀』の応神陵ではなく396年即位の葛城氏の応神陵で『古事記』には履中・反正ともに「御陵在毛受也」とあり、『日本書紀』に埋葬記事がない反正天皇と考えている。
ある説に、盛り土は開墾による残土という人物がいたが、日本には棚田という、高い場所の土を低い場所に移しならして、段を造るという合理的な方法で、残土を発生させないことを見落としていて、この人物は、ただ、天皇が墓を造るだけのために使役したと考えたくないための方便に過ぎず、古墳は山の頂上にも存在し、物見の拠点と考えた方が理に適う。
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