『日本書紀』慶長版は
「五十年春二月荒田別等還之夏五月千熊長彥久氐等至自百濟於是皇太后歡之問久氐曰海西諸韓既賜汝國今何事以頻復來也久氐等奏曰天朝鴻澤遠及弊邑吾王歡喜踊躍不任于心故因還使以致至誠雖逮萬世何年非朝皇太后勅云善哉汝言是朕懷也増賜多沙城爲往還路驛五十一年春三月百濟王亦遣久氐朝貢於是皇太后語太子及武內宿祢曰朕所交親百濟國者是天所致非由人故玩好珍物先所未有不闕歲時常來貢獻朕省此款毎用喜焉如朕存時敦加恩惠即年以千熊長彥副久氐等遣百濟國因以垂大恩曰朕從神所驗始開道路平定海西以賜百濟今復厚結好永寵賞之是時百濟王父子並顙致地啓曰貴國鴻恩重於天地何日何時敢有忘哉聖王在上明如日月今臣在下固如山岳永爲西蕃終無貳心」
【五十年の春二月に、荒田別達が帰った。夏五月に、千熊長彦と久氐達は、百済から着いた。ここで、皇太后は、よろこんで久氐に「海の西の諸々の韓を、もうお前の国に与えた。今何があってしきりに来る」と問いかけた。久氐達が「天皇の政治は庶民を大きく潤し、遠く私どもの卑しい邑に及んでいる。私の王は、踊るように喜んで、どうしようもなく心苦しい。それで、使者が帰って、とても謙虚になって、ずっとと言っても、いつ朝貢すればよいのか」と聞いた。皇太后が「お前の言葉はとてもよろしい。これは私も考えるところだ」と詔勅した。多沙の城を追加して与え、行き来の路の宿駅とした。五十一年の春三月に、百済の王が、また久氐を派遣して朝貢した。そこで、皇太后は、太子と武内宿禰に「私の親しくする百済の国は、天から自然に導かれたもので、人に従ったのではない。手に取る珍しいものは未だ見たことが無い。四季折々間をあけずいつも貢献する。私は、この真心をよく考えると、いつも喜びが沸き起こった。私が存命の時にしたように厚遇しなさい」と語った。その年に、千熊長彦を、久氐達と一緒に百済の国へ派遣した。それで、大恩を受けた心情を、「私は、神のお示しに従って、百済との交易を始めた。海西を平定して、百済に与えた。今また、親密な友好を結んで、永遠にいつくしむ」と表した。この時に百済の王の父子は、並んで土下座して、「貴国の大恩は、天地全てよりも重い。ずっと忘れることが出来ない。聖王が私たちの上にいらっしゃることは、日月があるように当然だ。今私は、山のように堅固な配下となります。ずっと貴国の西の境の国となることに二心を持ちません」と表明した。】とある。
『三国志』には「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」と記述されるように、弁辰の領主の辰王(日本)は自ら王を建てないで馬韓人(百済)に任せ、『晉書』には「弁辰亦十二國合四五萬戶各有渠帥皆屬於辰韓」と前項を証明するように新羅が領有した。
さらに、『
宋書』では「都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王」と倭が主張するが、416年義熙十二に「以百濟王餘映為使持節都督百濟諸軍事鎮東將軍百濟王」と百済の領有を認めず、新羅と加羅諸国は倭領と認めている。
この、倭の領有は、百済が倭の領土でないのに倭が領有を主張したように、新羅も加羅諸国も倭領ではなく、辰国領だったが、倭が辰国も自領と主張しているため、中国が辰国を認めていないので倭領としたのである。
すなわち、中国史書や朝鮮史書と『日本書紀』がかみ合わないのは、中国が認めない敵国の辰国日本が南韓の宗主国で馬韓百済に領有を任せたが、中国が認めない辰国を中国史書や朝鮮史書は記述せず、中国に朝貢する倭のみ記述し、中国は敵対しなくなった時に扶桑国・秦王国と記述し、唐は日本に対する戦勝国となって朝貢が始まったので日本を記述し、朝鮮も対等の倭国日本、俀国日本を記述し、それに対して倭種としか記述されなかった日本が漢王朝と戦った記述は負けたので記述していないのである。
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