2019年11月1日金曜日

最終兵器の目 神功皇后8

 『日本書紀』慶長版は
四十七年夏四月百濟王使久氐弥州流莫古令朝貢時新羅國調使與久氐共詣於是皇太后太子譽田別尊大歡喜之曰先王所望國人今來朝之痛哉不逮于天皇矣群臣皆莫不流涕仍檢校二國之貢物於是新羅貢物者珍異甚多百濟貢物者少賤不良便問久氐等曰百濟貢物不及新羅奈之何對曰臣等失道至沙比新羅則新羅人捕臣等禁囹圄經三月而欲殺時久氐等向天而呪詛之新羅人怖其呪詛而不殺則奪我貢物因以爲己國之貢物以新羅賤物相易爲臣國之貢物謂臣等曰若誤此辭者及于還日當殺汝等故久氐等恐怖而從耳是以僅得達于天朝時皇太后譽田別尊責新羅使者因以祈天神曰當遣誰人於百濟將檢事之虛實當遣誰人於新羅將推問其罪便天神誨之曰令武內宿祢行議因以千熊長彥爲使者當如所願於是遣千熊長彥于新羅責以濫百濟之獻物四十九年春三月以荒田別鹿我別爲將軍則與久氐等共勒兵而度之至卓淳國將襲新羅時或曰兵衆少之不可破新羅更復奉上沙白蓋盧請増軍士即命木羅斤資沙沙奴跪領精兵與沙白蓋盧共遣之倶集于卓淳擊新羅而破之因以平定比自㶱南加羅㖨國安羅多羅卓淳加羅七國仍移兵西𢌞至古爰津屠南蠻忱彌多禮以賜百濟於是其王肖古及王子貴湏亦領軍來會時比利辟中布弥支半古四邑自然降服是以百濟王父子及荒田別木羅斤資等共會意流村相見欣感厚禮送遣之唯千熊長彥與百濟王于百濟國登辟支山盟之復登古沙山共居磐石上時百濟王盟之曰若敷草爲坐恐見火燒且取木爲坐恐爲水流故居磐石而盟者示長遠之不朽者也是以自今以後千秋萬歲無絶無窮常稱西蕃春秋朝貢則將千熊長彥至都下厚加禮遇亦副久氐等而送之
【四十七年の夏四月に、百済の王が久氐彌州流莫古を朝貢させた。その時に新羅の国の年貢の使者が、久氐と一緒に遣ってきた。そこで、皇太后と太子の譽田別の尊が大変喜んで、「前王が望んでいた国の人が、今、来朝した。天皇の存命中に来朝しなかったことは残念だ」と言った。役人は、皆涙を流さない者が無かった。それで二国の貢物調べた。ここで、新羅の貢物は、珍品でとても多かった。百済の貢物は、少く、粗末で良くなかった。それで久氐達に「百済の貢物は新羅に劣るがどうしてだ」と問いかけた。「私達は、道に迷って、沙比の新羅についてしまった。それで新羅の人は、私達を捕えて牢獄に監禁した。三月経って殺そうとした。その時久氐達は、天(?)に向って呪詛した。新羅の人は、その呪詛を怖れて殺さなかった。それで私達の貢物を奪って、それで、自分の国の貢物としてしまった。新羅の見窄らしい物と交換して私の国の貢物とした。私達に『もしこの事をやりそこなったら、国に帰って時にお前たちを殺す』といった。それで、久氐達は、恐れて従った。そのため、やっと天の朝廷に遣ってくることが出来た」と答えた。その時、皇太后と譽田別の尊は、新羅の使者を責めて、それで、天神に「誰を百済に派遣して、事の虚実調べさせるべきか。誰を新羅に派遣して、推し量って罪に問うべきか」と祈った。それで天神が「武内の宿禰と相談して千熊の長彦を使者とすれば、きっと願いどうりになるだろう」と教えた。そこで、千熊の長彦を新羅に派遣して、百済の献上物を力で乱用したことを責めた。四十九年の春三月に、荒田別と鹿我別を將軍とした。それで久氐達と、軍馬と一緒に渡って、卓淳国に着いて、新羅を襲おうとした。その時にある人が、「軍兵が少ないと、新羅を破ることが出来ない。また、沙白と蓋蘆に書状を送って、増軍を要請してほしい」と言った。それで木羅斤資と沙沙奴跪に命じて、精兵を引き連れて、沙白と蓋盧が派遣された。みな卓淳に集まって、新羅を撃破した。それで、比自㶱、南加羅、㖨國、安羅、多羅、卓淳、加羅の七国を平定した。それで軍を移して、西を廻って古奚津に着いて、南蛮の忱彌多禮をさいて、百済に与えた。そこで、その王肖古と王子の貴須が、軍を引き連れて集まってきた。その時に比利と辟中、布彌支、半古の四邑が、自然に降服した。これで、百済の王の父子と荒田別、木羅斤資等が、共に意流村で会って、互いに喜び合い、手厚い礼で見送り派遣した。ただし千熊の長彦と百済の王のみは、百済の国に着いて、辟支の山に登って誓いあった。また古沙の山に登って、ともに岩の上に佇んでいたときに百済の王が、「もし草を敷いて座っていたら、おそらく燒かれるだろ。また木に坐っていたら、恐るらく水に流されるだろう。それで、岩で誓うことは、長く朽ちることが無い事を示す。それで、いま以後、ずっと、永遠に耐えることが無い。いつも西の国と言って、春と秋に朝貢する」と誓った。それで千熊の長彦を引き連れて、都に着いて手厚い礼儀で処遇した。また久氐達を添えて見送った。】とある。
三韓は『後漢書』「韓有三種・・・皆古之辰國也」と辰国領で、百済は『後漢書』や『三国志』では「馬韓」と呼ばれ、『後漢書』「馬韓最大共立其種為辰王都目支國尽王三韓之地其諸國王先皆是馬韓種人焉」と辰国王は王にならないで馬韓に三韓の王を任せた。
そして、新羅は「辰韓」と呼ばれ、『後漢書』「辰韓耆老自言秦之亡人避苦役适韓國馬韓割東界地與之其名國為邦」、『三国志』「辰韓在馬韓之東・・・馬韓割其東界地與之」と百済の東を割いて独立した。
そして、辰国の三韓で特に影響力を持っていたのが弁辰で、『三国志』「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」とやはり、辰王が馬韓人に任せていた。
ところが、『三国史記』新羅本紀の奈解尼師今に「六年春二月加耶國請和・・・十七年 春三月加耶送王子爲質」と後漢末には新羅と伽耶が同盟して、百済の影響力が低下していた。
そして、日本に朝貢する百済は『三国史記』百濟本紀の近肖古王に「二十三年 春三月丁巳朔日有食之遣使新羅送良馬二匹 」と388年に新羅と講和して国を安定させると高句麗と戦って近肖古王は「二十四年秋九月高句麗王斯由帥步騎二萬來屯雉壤分兵侵奪民戶王遣太子以兵徑至雉壤急擊破之獲五千餘級其虜獲分賜將士」、「二十六年高句麗擧兵來王聞之伏兵於浿河上俟其至急擊之高句麗兵敗北冬王與太子帥精兵三萬侵高句麗」と高句麗に勝利した。
また、481年には『三国史記』新羅本紀の炤知麻立干に「炤知麻立干三年三月高句麗與靺鞨入北邊取狐鳴等七城又進軍於彌秩夫我軍與百濟加耶援兵」と百済とともに高句麗と戦い、それに対して『三国遺事』に「第二十一蓋鹵王・・・己未年倭國兵來侵」と倭国が百済を侵略し、新羅と共通の敵となった。
『宋書』に「自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」と百済も新羅も領地と倭が主張し、『日本書紀』継体天皇二一年に「磐井掩據火豐二國勿使修職外逢海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船」と倭王磐井が年貢を治めさせ、それに対して「近江毛野臣率衆六萬欲往任那爲復興建新羅所破南加羅」と畿内日本も加羅に進軍している。
『日本書紀』の記述の神功皇后47、49年は西暦370頃の記事と考えると良く合致し、仲()国王の足仲彦の子譽田別が天皇に即位する前の別王朝の大臣だった時の説話で、5王が百済の領有を主張したり、磐井の年貢の横取りと良く合致し、朝鮮半島で友好的な畿内政権と、そうでない倭の5王と磐井の構図である。

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