『日本書紀』 慶長版は
「五十二年秋九月丁卯朔丙子久氐等從千熊長彥詣之則獻七枝刀一口七子鏡一面及種種重寶仍啓曰臣國以西有水源出自谷那鐵山其邈七日行之不及當飲是水便取是山鐵以永奉聖朝乃謂孫枕流王曰今我所通海東貴國是天所啓是以垂天恩割海西而賜我由是國基永固汝當善脩和好聚歛土物奉貢不絁雖死何恨自是後毎年相續朝貢焉五十五年百濟肖古王薨五十六年百濟王子貴湏立爲王六十二年新羅不朝即年遣襲津彥擊新羅六十四年百濟國貴湏王薨王子枕流王立爲王六十五年百濟枕流王薨王子阿花年少叔父辰斯奪立爲王六十六年(是年晉武帝泰初二年)六十九年夏四月辛酉朔丁丑皇太后崩於稚櫻宮冬十月戊午朔壬申葬狹城盾列陵是日追尊皇太后曰氣長足姫尊是年也太歲己丑」
【五十二年の秋九月の朔が丁卯の丙子の日に、久氐達が千熊長彦に従って参上した。それで七枝刀を一口・七子鏡を一面、そして種々のたいせつな宝物を献上した。それで「私の国の西方に河が有り、水源は谷那の鉄山が水源だ。その距離は遠くて七日行っても着かない。この水を飲んで、この山の鉄を取って、永遠に尊い朝廷に献上する」と説明した。それで孫の枕流王に「今私が交流する海の東にある貴国(尊い国OR国名「貴国」)は、天がひらいた国だ。それで、天恩を人に示し、海西を割いて我々に与えた。これで、国の基礎は永遠に堅固だ。お前は良好な関係をもって、物産を集めて、貢献を絶えなければ、私が死んでも恨みに思うことは無い」と言った。これより後、年毎に王の言う通り朝貢した。五十五年に、百済の肖古王が薨じた。五十六年に、百済の王子の貴須が、王に立った。六十二年に、新羅が朝貢せず、その年に、襲津彦を派遣して新羅を撃たせた。六十四年に、百済国の貴須王が薨じた。王子の枕流王が王に立った。六十五年に、百済の枕流王が薨じた。王子の阿花は年少で。叔父の辰斯が王位を奪って立った。六十六年。(この年、晉の武帝の泰初二年だ。)六十九年の夏四月の朔が辛酉の丁丑の日に、皇太后は、稚櫻宮で崩じた。この時、年齢百歳だった。冬十月の朔が戊午の壬申の日に、狹城の盾列の陵に葬むった。この日に、皇太后を尊んで追号して、氣長足姫尊と言った。是の年、太歳は己丑だった。】とあり、標準陰暦と合致する。
肖古王の薨は『三国史記』に「冬十一月王薨古記云
百濟開國已來未有以文字記事」と375年11月でこの記事が最初の文字で記述したものと述べていて、神功55年が375年で、ある王朝の55年目が375年に当たる321年が元年の王朝を示し、『三国史記』に近仇首王「十年・・・夏四月王薨
」、枕流王「二年・・・冬十一月王薨
」と384年が神功64年、385年が神功65年と同じ王朝の時系列である。
それに対して、『日本書紀』を記述した雄略朝は神功66年が秦初2年、「神功皇后7」で省略した「四十年魏志云正始元年」、「四十三年魏志云正始四年」を含めて201年即位の王朝を当てはめて、年代観が間違っているわけでは無い。
何度も述べるように、『日本書紀』は紀伝体で一人の王(朝)に複数の王(朝)を記述して王朝は長男継承は同じ王の名で継承されていて、ある王をどの畿内王朝に当て嵌めるかによって120年もずれてしまうのである。
それは、おそらく『三国史記』も同じで、『三国史記』の406年の腆支王
二年「二月遣使入晉朝貢
」、416年の腆支王十二年「東晉安帝遣使冊命王爲使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王
」とあるが、416年記事は『宋書』416年の晉義熙十二年「以百濟王餘映為使持節都督百濟諸軍事鎮東將軍百濟王」と合致するが、406年記事は『晉書』386年の太元十一年「夏四月以百濟王世子餘暉爲使持節都督鎮東將軍百濟王」と辰斯王2年に相当し、当て嵌めがズレている。
そういったズレは、『三国史記』阿達羅尼師今に「二十年夏五月倭女王卑彌乎遣使來聘」と173年に記述されるが、実際は「奈解尼師今」二十年で215年の可能性が高く当てはめ間違いが見て取れる。
そして、神功皇后摂政五十二年の「獻七枝刀一口」は『石上神宮伝世の七支刀』と考えられ、倭国に送られた刀をその宗主国の畿内政権に献上したもので、「泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世」(※■は不明文字)と銘があり、
西晋の「泰始四年」268年と東晋の「太和四年」369年と
劉宋の「泰始四年」468年の説があるが、私は、泰■四年は『二中歴』が紀元前53年から元号が始ったと記述している日本の年号(百済は日本が宗主国の立場で元号を持っていないと考えられる)で旧暦372年七月十六日と考えている。
十■の■は七の下棒線が消えたものと考えられ、この372年七月十六日は丙午にあたり、孫の枕流王に皇子阿莘王が生まれた記念の刀を送ったと思われ、枕流王は385年に崩じ、皇太子は「六十五年百濟枕流王薨王子阿花年少叔父辰斯奪立爲王」とまだ13歳で若いため、枕流王の弟辰斯王が即位し、阿莘王が392年20歳で即位している。
これも、321年即位の神功皇后がいて、その52年目で、「五十五年百濟肖古王薨」は375年、「六十四年百濟國貴須王薨王子枕流王立爲王」は384年と裏付けていて、久氐や襲津彦の記事は321年即位の神功皇后の年表で考えなければならない。
4世紀末の年表を裏付けるように、「六十二年新羅不朝即年遣襲津彦撃新羅百濟記云壬午年」と382年は壬午年で、朝鮮半島の南東部に出土する筒型銅器が畿内の南部にも出土し、時期的にはこの頃が全盛である。
また、神功皇后は神功皇后摂政元年に「群臣尊皇后曰皇太后」と、皇太后と呼ばれたにもかかわらず、再度神功皇后摂政六九年に死後に「追尊皇太后」と追号し、二人の神功皇后がいたことを認めている。
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