2019年11月22日金曜日

最終兵器の目 応神天皇5

 『日本書紀』慶長版は
十六年春二月王仁來之則太子菟道稚郎子師之習諸典籍於王仁莫不通達故所謂王仁者是書首等之始祖也是歲百濟阿花王薨天皇召直支王謂之曰汝返於國以嗣位仍且賜東韓之地而遣之八月遣平群木菟宿祢的戸田宿祢於加羅仍授精兵詔之曰襲津彥久之不還必由新羅之拒而滯之汝等急往之擊新羅披其道路於是木菟宿祢等進精兵莅于新羅之境新羅王愕之服其罪乃率弓月之人夫與襲津彥共來焉十九年冬十月戊戌朔幸吉野宮時國樔人來朝之因以醴酒獻于天皇而歌之曰伽辭能輔珥豫區周塢菟區利豫區周珥伽綿蘆淤朋瀰枳宇摩羅珥枳虛之茂知塢勢磨呂俄智歌之既訖則打口以仰咲今國樔獻土毛之日歌訖即擊口仰咲者蓋上古之遣則也夫國樔者其爲人甚淳朴也毎取山菓食亦煮蝦蟆爲上味名曰毛瀰其土自京東南之隔山而居于吉野河上峯嶮谷深道路狹巘故雖不遠於京本希朝來然自此之後屢參赴以獻土毛其土毛者栗菌及年魚之類焉二十秋九月倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉
【十六年の春二月に、王仁が来た。それで太子の菟道の稚郎子は師とした。諸々の典籍を王仁に習い深くその道に達した。所謂、王仁は、書の首達の始祖だ。この歳、百済の阿花王が薨じた。天皇は、直支王を呼び寄せて、「お前は、国に返って王位を嗣ぎなさい」と言った。それでまた、東韓の地を与えて派遣した。八月に、平群の木菟の宿禰と的の戸田の宿禰を加羅に派遣した。やはり精兵を授けて、「襲津彦が、長い間帰還しない。きっと新羅の抵抗のため留まっているのだろう。お前たちは、急いで行って新羅を撃って、新羅への道を確保しろ」と詔勅した。そこで、木菟の宿禰達は、精兵を進軍させ、新羅の境に‎臨んだ。新羅の王は、怯えて其の罪に服した。すなわち弓月の人夫を率いて、襲津彦と一緒に来訪した。十九年の冬十月の朔が戊戌の日に、吉野宮に行幸した。その時に國樔の人が朝廷に来た。それで、天皇に甘酒を献上して、歌って()、歌い終わったら、口を打ち上を見て大笑いしたが、國樔が、国の土産を献上した日に口を打ち上を向いて大笑いしたのは、きっと昔のしきたりだったのだろう。國樔の人となりはとても純朴で、いつも山の木の実を取って食べる。またヒキガエルを煮ておいしくつくる。毛瀰と名付けられた。その国は、京の東南、山を隔てて、吉野の川上にある。峯は険しく谷は深くて、道路は狭くて険しい。それで、京に遠くないが、むかしから来朝することは稀だった。しかし、これ以降、たびたび参上して、国の土産を献上した。その国の土産は、栗やキノコおよびアユの類だ。二十年の秋九月に、倭の漢の直の祖の阿知の使王と、その子の都加の使王が、一緒に二人の配下の十七縣を率いて、帰参した。】とあり、標準陰暦と合致する。
やはり、この、応神16年は390が元年の16年で405年に阿花王が薨去しており、『三国史記』の「六年夏五月王與倭國結好以太子腆支爲質」、百済本記「元年腆支在倭聞訃哭泣請歸倭王以兵士百人衛送」と腆支王が倭の人質となっていたことを記述しており、天皇は倭国から呼び寄せて、領地を与えている。
すなわち、尾張氏の応神天皇が倭王なら288年の記事で辻褄が合わず、405年に 平群木菟宿禰や襲津彦が韓に派遣されて、『三国史記』の「四年夏四月倭兵来攻明活城」と武内宿禰の子たちと倭軍が新羅を攻めて、倭は一連の武内宿禰との共同戦線によって認められたので、葛城氏の配下になった。
後述するが、倭国王の倭漢直の祖が帰属した十七縣は実際は須恵器の分布から福岡平野と考えられ、武内宿禰は尾張氏から受け継いだ関東から畿内、自国の瀬戸内と紀伊・なか国・筑前・豊後・熊襲、倭国と領有し、名実共に氏を持たない天皇譽田となった。

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