『日本書紀』慶長版は
「十一年冬十月作剱池輕池鹿垣池厩坂池是歲有人奏之曰日向國有孃子名髮長媛即諸縣君牛諸井之女也是國色之秀者天皇悅之心裏欲覓十三年春三月天皇遣專使以徵髮長媛秋九月中髮長媛至自日向便安置於桑津邑爰皇子大鷦鷯尊及見髮長媛感其形之美麗常有戀情於是天皇知大鷦鷯尊感髮長媛而欲配是以天皇宴于後宮之日始喚髮長媛因以上坐於宴席時撝大鷦鷯尊以指髮長媛乃歌之曰伊奘阿藝怒珥比蘆菟弥珥比蘆菟瀰珥和餓喩區瀰智珥伽遇破志波那多智麼那辭豆曳羅波比等未那等利保菟曳波等利委餓羅辭瀰菟遇利能那伽菟曳能府保語茂利阿伽例蘆塢等咩伊奘佐伽麼曳那於是大鷦鷯尊蒙御歌便知得賜髮長媛而大悅之報歌曰瀰豆多摩蘆豫佐瀰能伊戒珥奴那波區利破陪鶏區辭羅珥委遇比菟區伽破摩多曳能比辭餓羅能佐辭鶏區辭羅珥阿餓許居呂辭伊夜于古珥辭氐大鷦鷯尊與髮長媛既得交殷勤(慇懃)獨對髮長媛歌之曰彌知能之利古破儾塢等綿塢伽未能語等枳虛曳之介逎阿比摩區羅摩區又歌之曰瀰知能之利古波儾塢等綿阿羅素破儒泥辭區塢之敘于蘆波辭彌茂布十四年春二月百濟王貢縫衣工女曰真毛津是今來目衣縫之始祖也是歲弓月君自百濟來歸因以奏之曰臣領己國之人夫百二十縣而歸化然因新羅人之拒皆留加羅國爰遣葛城襲津彥而召弓月之人夫於加羅然經三年而襲津彥不來焉十五年秋八月壬戌朔丁卯百濟王遣阿直伎貢良馬二匹即養於輕坂上厩因以以阿直岐令掌飼故号其養馬之處曰厩坂也阿直岐亦能讀經典即太子菟道稚郎子師焉於是天皇問阿直岐曰如勝汝博士亦有耶對曰有王仁者是秀也時遣上毛野君祖荒田別巫別於百
濟仍徵王仁也其阿直岐者阿直岐史之始祖也」
【十一年の冬十月に、劒池・輕池・鹿垣池・廐坂池を作った。この歳に、ある人が「日向国に少女がいる。名を髮長媛という。諸縣の君の牛の諸井の娘だ。国中でも秀でて美しい」と奏上した。天皇は、悦んで、探し求めたいと思った。十三年の春三月に、天皇は、使者として身の回りにいる者を派遣して、髮長媛を呼び寄せた。秋九月の中旬に、髮長媛が、日向からやってきた。桑津の邑に丁重に迎え入れた。そこで皇子の大鷦鷯尊が、髮長媛を見かけて、その容姿が美しくあでやかに思い、恋情が頭から離れず何も手に付かなかった。それで、天皇は、大鷦鷯尊の髮長媛への思いを知り、めあわせようと思った。それで、天皇は、後宮での宴の日に、はじめて髮長媛を呼んで、宴の席に座らせた。その時大鷦鷯尊を招いて、髮長媛を指挿して、歌い(略)大鷦鷯尊は、歌をきいて、髮長媛を得ることが出来ると知って、大喜びして、歌を返して(略)大鷦鷯尊は、髮長媛と親しく交わり、髮長媛に対して歌って(略)また、歌った(略)。十四年の春二月に、百済王が、縫衣工女を貢いだ。眞毛津という。これは、いまの来目の衣縫の始祖だ。この歳、弓月の君が、百済から帰って来た。それで「臣は、我が国の人々百二十縣を引き連れて帰化した。しかし新羅人が拒んだため、皆が加羅國に留まっている」と奏上した。それで葛城の襲津彦を派遣して、弓月の国の人々を加羅に集めた。しかし三年経っても、襲津彦から報告がない。十五年の秋八月の朔が壬戌の丁卯の日に、百済王は、阿直伎を派遣して、良馬二匹を貢献した。それで輕の坂上の廐で養わせた。それで阿直岐に馬を飼育させたのでその馬を飼ったところを廐坂と名付けた。阿直岐は、経典を上手く読んだ。それで太子の菟道の稚郎子の先生にした。天皇は、阿直岐に「お前に勝る博士がいるか」と問いかけた。「王仁といふ者がいる。この人物が秀れている」と答えた。その時、上毛野の君の祖の、荒田別と巫別を百済に派遣して、王仁を呼び寄せた。それで阿直岐は、阿知岐の史の始祖だ。】とあり、標準陰暦と合致する。
諸縣君の牛の諸井は続く一書に「一云日向諸縣君牛仕于朝庭」と朝廷に出資していたと記述しているが、本文に記述していない理由は、この応神十一年是年記事は葛城王朝の応神十一年記事で髮長媛の輿入れ記事は別王朝の皇太子への輿入れの可能性が有る。
「今朕之子與大臣之子同日共産並有瑞是天之表焉以爲取其鳥名各相易名子爲後葉之契也則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子取木菟名號大臣之子」と名前を取り換えたと記述するが、実際は当然取り換えてはいなくて違う王朝が記述したから名を取り換えたと述べているのであって、応神十一年の大鷦鷯は『日本書紀』を記述した雄略天皇の王家の皇太子の可能性が高い。
そのため、この記事は『日本書紀』が朝廷の話なのだから朝廷と書く必要がないが、雄略天皇時には、名前を取り換えたことにして、この記事が木菟の話になってしまうので一云で朝廷を記述したのだと考えられる。
十五年の秋八月の朔が壬戌が284年と合致するが、百済に文字が伝わったのが『三国史記』375年の近肖古王三十年「古記云
百濟開國已來 未有以文字記事 至是得博士高興 始有書記
然高興未嘗顯於他書」、百済に仏教が伝わったのは、『三国史記』枕流王の 「近仇首王之元子・・・九月胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮內禮敬焉佛法始於此二年春二月創佛寺於漢山度僧十人冬十一月王薨」
と384年で、『隋書俀国伝』にも「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」と仏教とともに文字を得たと記述して、王仁を呼び寄せたのは405年のことのようだ。
『二中歴』にも「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政継体五年元丁酉」とと517年継体元年より569年前、紀元前53年から刻木で元号公布が始まったと述べ、弥生時代には硯も見つかり、日本では昔から、『三国志』に「男子無大小皆黥面文身」と入れ墨をするように木に溶かした墨を刻み込んだ、いわば、ドットプリンタのような方法で文字を刻み込んだのだろう。
『梁書』にも457年大明二年
に「賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改」、499年永元元年に「有文字以扶桑皮爲紙」と葛城王朝の文字使用や仏教帰依を記述している。
勿論、125年の『室見川銘版』や184年から188年の『中平銘大刀』など、畿内の尾張朝廷の一部や倭国の一部は文字を知っていたので、多数の官僚など知識階級の文字知識のことと思われ、『旧唐書』には631年貞觀五年に「頗有文字俗敬佛法」と仏教が普及して官僚の多くや地方でも帰依して文字を使っていたのが「
頗有文字」だ。
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