2019年11月27日水曜日

最終兵器の目 応神天皇7

 『日本書紀』慶長版は
二十五年百濟直支王薨即子久爾辛立爲王王年幼大倭木滿致執國政與王母相婬多行無禮天皇聞而召之二十八年秋九月髙麗王遣使朝貢因以上表其表曰髙麗王教日本國也時太子菟道稚郎子讀其表怒之責髙麗之使以表狀無禮則破其表三十一年秋八月詔群卿曰官舩名枯野者伊豆國所貢之舩也是朽之不堪用然久爲官用功不可忘何其舩名勿絁而得傳後葉焉群卿便被詔以令有司取其舩材爲薪而燒鹽於是得五百籠鹽則施之周賜諸國因令造舩是以諸國一時貢上五百舩悉集於武庫水門當是時新羅調使共宿武庫爰於新羅停忽失火即引之及于聚舩而多舩見焚由是責新羅人新羅王聞之讋然大驚乃貢能匠者是猪名部等之始祖也初枯野舩爲鹽薪燒之日有餘燼則奇其不燒而獻之天皇異以令作琴其音鏗鏘而遠聆是時天皇歌之曰訶羅怒烏之褒珥椰枳之餓阿摩離虛等珥菟句離訶枳譬句椰由羅能斗能斗那訶能異句離珥敷例多菟那豆能紀能紀佐椰佐椰三十七年春二月戊午朔遣阿知使主都加使主於吳令求縫工女爰阿知使主等渡髙麗國欲達于吴則至髙麗更不知道路乞知道者於髙麗髙麗王乃副久禮波久禮志二人爲導者由是得通吳吴王於是與工女兄媛弟媛吴織穴織四婦女
【二十五年に、百済の直支王が薨じた。それで、子の久爾辛が、立って王と為った。王は、年幼で木滿致が、国政を執った。王の母と密通して、大変無礼であったと天皇は、聞いた。二十八年の秋九月に、高麗王が、使者を派遣して朝貢して書簡を奏上した。その書簡に、「高麗王が、日本国に教てやろう」といった。その時、太子の菟道の稚郎子は、その書簡を読んで、怒って、高麗の使者を責めて、書簡の内容が無礼だとして、その書簡を破り捨てた。三十一年の秋八月に、群卿に「官船を、枯野と名付けたのは、伊豆国から献上された船だからで朽ちて使えなくなった。それでも長く官用となって、功績を忘れられていない。どうにかして其の船の名を絶えることなく、後の世に伝えることが出来ないだろうか」と詔勅した。群卿は、詔勅を受けて、役人に命令して、その船の材料を取って、薪にして塩を焼かせた。そこで、五百篭の塩を得ることができた。それでまわりの諸国に施した。それで船を造らせた。諸国は、一斉に五百の船を献上した。のこらず武庫の水門に集合した。この時に、新羅の年貢を納める使者が、みな武庫に停泊した。新羅が停泊したら、うっかり失火した。そのため引火して、集まった船に及んだ。それで多くの船を焼いた。そのため、新羅人を責めた。新羅の王は、これを聞いて、怖じ気づいて大変驚き、それで有能な職人を献上した。これが、猪名部達の始祖だ。初め枯野の船を、塩の薪にして焼いた日に、燃え残り有った。すなわちその燃えないことを怪しんで献上した。天皇は、奇妙に思って琴を作らせた。その音は、鳴り響いて遠くまで聞こえた。この時、天皇は、歌った()三十七年の春二月の戊午の朔の日に、阿知の使主と都加の使主を呉に派遣して、縫い女を求めさせた。そこで阿知の使主達は、高麗国に渡って、呉に行こうと思った。すなわち高麗に着いたが、それ以降の道を知らなかった。道を知る者を高麗にもとめた。高麗の王は、すなわち久禮波と久禮志の二人をそえて、道案内とした。このため、呉に着くことが出来た。呉の王は、縫い女の兄媛と弟媛、呉織、穴織の四人の婦女を与えた。】とある。
『三国史記』の腆支王「十五年春正月戊戌星孛于大微冬十一月丁亥朔日有食之十六年春三月 王薨」の11月1日は419年で、標準陰暦と合致するするので、この応神25年は420年で、すなわち、396年が元年の応神天皇が存在し、高句麗は『好太王碑文』に西暦404年のことを「十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界・・・刺倭寇潰敗斬殺無數」と倭を撃退し、412年に『三国史記』の 長壽王元年「遣長史高翼入晉奉表獻赭白馬安帝封王高句麗王楽浪郡公 」と楽浪郡公を東晋の安帝から任じられ、葛城王朝に対して高圧的となることはよくわかる。
倭は北朝時代の魏・西晋と朝貢関係にあったが、南部に逃れた東晋では朝貢が出来ず、したたかに、高句麗を頼って南朝と再度朝貢関係を結び、421年に宋が建国すると、『宋書』夷蛮伝倭國に「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授詔曰倭讚遠誠宜甄可賜除授」とすぐに朝貢して南朝との関係が復活できた。
また、この南朝との仲立ち依頼と菟道稚郎子の怒りと話が合わないのは、菟道稚郎子の王朝と阿知使主と都加使主を派遣した王朝が違うためで、『梁書』の扶桑国は「名國王爲乙祁貴人第一者爲大對盧」と高句麗の官名を使用している。
また、菟道稚郎子はまだ立太子していないのに皇太子と呼ばれ、神功皇后の皇太子に続き、ここでも立太子記事が別王朝の記事で、菟道稚郎子も390年以降に元年の王朝の皇太子ではないようだ。

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