『日本書紀』慶長版は
「二十二年春三月甲申朔戊子天皇幸難波居於大隅宮丁酉登髙臺而遠望時妃兄媛侍之望西以大歎於是天皇問兄媛曰何爾歎之甚也對曰近日妾有戀父母之情便因西望而自歎矣冀暫還之得省親歟爰天皇愛兄媛篤温凊之情則謂之曰爾不視二親既經多年還欲定省於理灼然則聽之仍喚淡路御原之海人八十人爲水手送于吉備夏四月兄媛自大津發舩而往之天皇居髙臺望兄媛之舩以歌曰阿波旎辭摩異椰敷多那羅弭阿豆枳辭摩異椰敷多那羅弭豫呂辭枳辭摩之魔儾伽多佐例阿羅智之吉備那流伊慕塢阿比瀰菟流慕能秋九月辛巳朔丙戌天皇狩于淡路嶋是嶋者横海在難波之西峯巖紛錯陵谷相續芳草薈蔚長瀾潺湲亦麋鹿鳧鴈多在其嶋故乗輿屢遊之天皇便自淡路轉以幸吉備遊于小豆嶋庚寅亦移居於葉田葦守宮時御友別參赴之則以其兄弟子孫爲膳夫而奉饗焉天皇於是看御友別謹惶侍奉之狀而有悅情因以割吉備國封其子等也則分川嶋縣封長子稻速別是下道臣之始祖也次以上道縣封中子仲彥是上道臣香屋臣之始祖也次以三野縣封弟彥是三野臣之始祖也復以波區藝縣封御友別弟鴨別是笠田(臣)之始祖也即以苑縣封兄浦凝別是苑?(臣)之始祖也即以織部縣賜兄媛是以其子孫於今在于吉備國是其縁也」
【二十二年の春三月の朔が甲申の戊子の日に、天皇は、難波に行幸して、大隅の宮に居た。丁酉の日に、物見やぐらに登って遠くを望み見た。その時、妃の兄媛が横にいた。兄媛が西を望み見て大変嘆いた。そこで、天皇は、兄媛に「どうしてお前はそんなに大きく嘆くのか」と聞いた。すると、「近ごろ、私は、父母を恋しくてたまらない。それで西の故郷を望み見ると、自然に悲しくなります。出来ましたら暫く還って、親を省みたい」と答えた。そこで天皇は、兄媛が温かく清らかな心情をとても愛らしく思い、それで「お前の両親の地を去って、すでに多くの年を経た。還って親に孝を尽くそうとすることは、道理が明らかだ」と言った。すなわち帰省を許した。それで淡路の御原の海人を八十人を呼んで水手として、吉備に送った。夏四月に、兄媛は、大津から出向して往った。天皇は、物見やぐらにいて、兄媛の船を望み見て、歌った(略)秋九月の朔が辛巳の丙戌の日に、天皇が淡路嶋へ狩に出かけた。この嶋は海に横たわって、難波の西に在る。峯は巖しく入り混じって、陵と谷が交互に続く。芳草がさかんに茂って、大きくなみだち、さらさらそそぎめぐる。また大小の鹿・ちどり・かもなど、多くその嶋にいる。それで、天皇は輿に乗って、時々遊んだ。天皇は、淡路からうつって、吉備に行幸して、小豆嶋に遊んだ。庚寅の日に、亦、葉田の葦守の宮に移っていた。その時に、御友別が参上した。則ちその兄弟子孫を膳夫として饗応した。天皇は、御友別がつつしみ畏まって世話する様子を見て、悦んだ。それで吉備国を割いて、その子等に封じた。すなわち川嶋の縣を分けて、長子の稻速別に封じた。これは、下道の臣の始祖だ。次に上道の縣を中子の仲彦に封じた。これが、上道の臣・香屋の臣の始祖だ。次に三野縣を、弟彦に封じた。これが、三野の臣の始祖だ。また、波區藝の縣を、御友別の弟の鴨別に封じた。これが、笠の臣の始祖だ。すなわち苑の縣を、兄の浦凝別に封じて、是が、苑の臣の始祖だ。即ち、織部の縣を兄媛に与えた。ここで、その子孫が、今の吉備の国にいる。これが、其の由来だ。】とあり、標準陰暦と合致する。
この兄媛は景行天皇四年「八坂入媛爲妃生七男六女第一曰稚足彦天皇第二曰五百城入彦皇子第三曰忍之別皇子第四曰稚倭根子皇子第五曰大酢別皇子第六曰渟熨斗皇女第七曰渟名城皇女第八曰五百城入姫皇女第九曰麛依姫皇女第十曰五十狹城入彦皇子第十一曰吉備兄彦皇子第十二曰高城入姫皇女第十三曰弟姫皇女」の高城入姫のことで、「立仲姫爲皇后后生荒田皇女大鷦鷯天皇根鳥皇子先是天皇以皇后姉高城入姫爲妃」と皇后の姉で八坂入媛の子で、纏向の宮の姫である。
すなわち、兄の吉備兄彦と『古事記』の「大吉備津日子命者(吉備上道臣之祖也)次若日子建吉備津日子命者(吉備上(下)道臣笠臣祖也)」と『舊事本紀』の「次妃吉備上道臣女稚媛生二男長日磐城皇子少日星川稚宮皇子」がゴッチャになっていて、織部の縣は岐阜県土岐市、川嶋の縣は岐阜県羽島郡川島町、三野の縣は岐阜県美濃市で尾張氏天皇がいたところ、兄媛が出発した場所が大津なのだから、この天皇は伊勢遺跡の天皇で「幸近江國居志賀三歳是謂高穴穗宮」の天皇で成務天皇は宮を遷しておらず、忍熊皇太子の討伐で「皇后之船直指難波」と難波を目指している。
そして、妃の里帰りで妃を吉備に送ったのに、天皇が吉備に出かけて妃にあったとも記述せず、明らかに応神天皇の吉備の国の由来に雄略天皇の妃の説話を混ぜ込んだ説話であることがわかる。
0 件のコメント:
コメントを投稿