2019年11月8日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十 応神天皇1

 日本書紀慶長版
譽田天皇足仲彥天皇第四子也母曰氣長足姫尊天皇以皇后討新羅之年歲次庚辰冬十二月生於筑紫之蚊田幼而聰達玄監深遠動容進止聖表有異焉皇太后攝政之三年立爲皇太子初天皇在孕而天神地祇授三韓既産之宍生腕上其形如鞆是肖皇太后爲雄裝之負鞆故稱其名謂譽田天皇攝政六十九年夏四月皇太后崩元年春正月丁亥朔皇太子即位是年也太歲庚寅二年春三月庚戌朔壬子立仲姫爲皇后后生荒田皇女大鷦鷯天皇根鳥皇子先是天皇以皇后姉髙城入姫爲妃生額田大中彥皇子大山守皇子去來真稚皇子大原皇女澇田皇女又妃皇后弟弟姫生阿位皇女淡路御原皇女紀之菟野皇女次妃和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子矢田皇女雌鳥皇女次妃宅媛之小甂媛生菟道稚郎姫皇女次妃河派仲彥女弟媛生稚野毛二派皇子次妃櫻井田部連男鉏之妹糸媛生隼總別皇子次妃日向泉長媛生大葉枝皇子小葉枝皇子凢是天皇男女幷二十王也根鳥皇子是大田君之始祖也大山守皇子是土形君榛原君凢二族之始祖也去來真稚皇子是深河別之始祖也
【誉田天皇は、足仲彦天皇の第四子だ。母を足姫尊という。天皇は、皇后が新羅を討った年、歳次庚辰の冬十二月に、筑紫の蚊田に生まれた。幼い頃から賢くて物事の道理に通じていた。森羅万象を深遠に観察し、たちいふるまいはメリハリが有り、聖なる考えは際立っている。皇太后の攝政三年に、皇太子に立った。その時三歳だった。天皇を妊娠して、天神地祇によって、三韓を授かった。産まれた時の体は、腕が盛り上がり、鞆のような形をしていた。皇太后勇ましい裝いで鞆をつけていたので、その名をたたえて、田天皇という。攝政六十九年の夏四月に、皇太后が崩じた。その時の年齢は百歳だった。元年の春正月の朔の丁亥の日に、皇太子は即位した。この年は太歳庚寅だった。二年の春三月の朔が庚戌の壬子の日に、仲姫を皇后に立てた。后は、荒田皇女・大鷦鷯天皇・根鳥皇子を生んだ。これより前に、天皇は、皇后の姉の高城入姫を妃として、額田大中彦皇子・大山守皇子・去來眞稚皇子・大原皇女・澇來田皇女を生んだ。また妃で、皇后の妹の弟姫は、阿倍皇女・淡路御原皇女・紀菟野皇女を生んだ。次妃は、和珥臣の祖の日觸使の娘の宮主宅媛、菟道稚郎子皇子・矢田皇女・雌鳥皇女を生んだ。次妃の、宅媛の妹の小甂媛は、菟道稚郎姫皇女を生んだ。次妃河派仲彦の娘の弟媛は、稚野毛二派皇子を生んだ。次妃の、櫻井田部男鉏の妹の糸媛は隼總皇子を生んだ。次妃日向泉長媛は、大葉枝皇子・小葉枝皇子を生んだ。凡てでこの天皇は男女あわせて二十王だ。根鳥皇子は、大田君の始祖だ。大山守皇子は、土形君・榛原君の二族の始祖だ。去來眞稚皇子は、深河別の始祖だ。】とあり、元年は標準陰暦と合致するが二年は合致せず、209・266・333・390年の候補が有り、応神天皇八年「遣王子直支于天朝」、『三国史記』百済「六年夏五月王與倭國結好以太子腆支爲質」が392年すなわち390年が元年の応神天皇が存在するので可能性が高い。
誉田王が足仲彦と伊勢遺跡の氏族の息長氏の姫との子で葛城王朝の王であることは確かであるが、実際の270年即位の畿内・近江の応神天皇が誰かは不明であるが、応神の父仲哀の妃で息長の足姫が皇后で大中姫は前皇太子の母だが大足彦の妹で名前が大中姫、大国王の妹なら大国の中姫と考える方が理に適い、尾張氏王朝の皇后は弟媛で皇太子が誉屋別皇子の可能性が高い。
皇太子の誉屋別の誉は『古事記』の「沙本比古王其伊呂妹亦從也故率遊其御子之状者在於尾張之相津二俣椙作二俣小舟」と垂仁天皇が狭穗媛の子の譽津別と遊んだ美濃の相津との関係や倭武の一人とした尾張氏の弟彦の妹『舊事本紀』の「九世孫弟彦命妹日女命」の日女は弟彦と対応させれば弟日女と考えられ、譽屋別が畿内の応神天皇かも知れない。
そして、応神天皇の祖父倭武には『舊事本紀』に「妃穗積氏祖忍山宿祢女弟媛生九男・・・次伊賀彦王次武田王尾張國丹羽建部君祖次佐伯命参川御使連等祖」と物部氏の亜流の穂積氏のやはり「弟媛」の子の中に伊賀彦と丹羽君の祖がいて、「十二世孫建稲種命此命迩波縣君祖大荒田女子玉姫爲妻」 と丹羽君の祖を娶って子の「尾綱根命此命譽田天皇御世爲大臣」と大臣となっている。
応神天皇の項には皇太后とした記述が無いのだから伊賀美濃を基盤とした王朝が継続していることを示していて、建稲種の孫が『舊事本紀』に「此命譽田天皇御世爲大臣供奉妹尾綱真若刀婢命此命嫁五百城入彦命生品色真若王次妹金田屋野姫命此命嫁甥品色真若王生三女王則高城入姫命次仲姫命次弟姫命此三命譽田天皇並爲后妃誕生十三皇子姉髙」と応神天皇の皇后になり、義兄とその子の品色真若王の襲名も記述されている。
そして、その仲姫は荒田皇女・大鷦鷯を生み、大鷦鷯は天皇、荒田皇女は「迩波縣君祖大荒田」と無関係とは思えない。
また、「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛」は『日本書紀』の「和珥臣等始祖天足彥國押人命」とあるが、『古事記』に「天押帯日子命者春日臣大宅臣粟田臣小野臣柿本臣壱比韋臣大坂臣阿那臣多紀臣羽栗臣知多臣牟耶臣都怒山臣伊勢飯高君壹師君近淡海國造之祖也」、「若帯日子天皇坐近淡海之志賀高穴穂宮治天下也此天皇娶穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女生御子和訶奴氣王」と近江の国造、伊勢飯高君の祖、成務天皇の太子の母が穂積氏、穂積氏の祖は内色許男、内色許男の娘が大毗々の皇后の伊迦賀色許賣、大彦は大伊賀彦の可能性が高い。
そして、『舊事本紀』の「忍山宿祢」は『古事記』では「建忍山垂根」と氏は建氏で垂根すなわち足祢は根を統治するという意味で、近江の天皇の皇太子がいる宮は伊勢遺跡の王の可能性があり、『舊事本紀』に「十世孫物部印葉連公多遅麻大連之子此連公輕嶋豐明宮御宇天皇御世拜為大連奉齋神宮姉物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女」とある。
すなわち、「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛」イコール「物部山無媛連」で、『舊事本紀』に「次妃物部多遅麻大連女香室媛生三皇子兒菟道稚郎子皇子尊次矢田皇女仁徳妃次雌鳥皇女」と香室媛とも記述し、多遅麻は武諸遇の子で武諸遇も武氏を名乗り、「矢田部造遠祖武諸遇命使分明檢定獻奉覆命之時乃爲大連奉齋神」と宮主となり、『古事記』に「丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢河枝比賣」と比布礼は大臣、すなわち、前代が天皇だったことを意味し、宮主は伊勢遺跡の宮主で菟道稚郎子は伊勢遺跡の王朝の皇太子の可能性が高く、「物部斤葉連公為大臣」と香室媛の兄が大臣となった。
そして、矢田部造を賜姓されたのが、『舊事本紀』に「矢田皇女・・・而不生皇子之時詔侍臣大別連公為皇子代后號為氏使為氏造改賜矢田部連公姓」と大別連で、『舊事本紀』に仁徳天皇「八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と大別が天皇と記述している。

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