2019年11月11日月曜日

最終兵器の目 応神天皇2

 『日本書紀』慶長版は
三年冬十月辛未朔癸酉東蝦夷悉朝貢即役蝦夷而作厩坂道十一月處處海人訕哤之不從命則遣阿曇連祖大濱宿祢平其訕哤因爲海人之宰故俗人諺曰佐麼阿摩者其是緑也是歲百濟辰斯王失禮於貴國天皇故遣紀角宿祢羽田矢代宿祢石川宿祢木菟宿祢嘖讓其无禮狀由是百濟國殺辰斯王以謝之紀角宿祢等便立阿花爲王而歸五年秋八月庚寅朔壬寅令諸國定海人及山守部冬十月科伊豆國令造舩長十丈舩既成之試浮于海便輕泛疾行如馳故名其舩曰枯野六年春二月天皇幸近江國至菟道野上而歌之曰知婆能伽豆怒塢弥例磨茂茂智儾蘆夜珥波母弥喩區珥能朋母彌喩七年秋九月髙麗人百濟人任那人新羅人並來朝時命武內宿祢領諸韓人等作池因以名池号韓人池八年春三月百濟人來朝
三年の冬十月の朔が辛未の癸酉の日に、東の蝦夷が全て朝貢し蝦夷を使って、廐坂道を作らせた。十一月に、処々の海人が、騒ぎ立てて(?漢字としては誹謗する様子と容姿は口ひげがふさふさしている)命令に従わない。それで、阿曇連の祖の大濱の宿禰を派遣して、その騒ぎを平定した。それで海人を取り仕切らせた。それで、世間の諺で、「さまの海士」というのは、これが縁だ。この歳に、百済の辰斯王が立ったが、貴国の天皇に礼が無かった。それで、紀の角の宿禰と羽田の矢代の宿禰と石川の宿禰と木の菟の宿禰を派遣して、其の無礼を責めた。これで、百済国は、辰斯王を殺して謝罪し。紀の角の宿禰達は、すでに阿花を立てて王にして帰った。五年の秋八月の朔が庚寅の壬寅の日に、諸国に命じて、海人及び山守部を定めた。冬十月に、伊豆国に法に従って割り当てて、船を造らせた。長さ十丈(約18m)の船が既に出来上がった。試しに海に浮かせた。それで軽やかに浮かび馬が走るように早く進んだ。それで、その船を枯野と名付けた。六年の春二月に、天皇は、近江国に行幸して、菟道野辺に着き、歌った()。七年の秋九月に、高麗の人と百済の人と任那の人と新羅の人が一緒に来朝した。その時、武内の宿禰に、諸諸の韓人達を使って池を作るよう命じた。それで、池を韓人の池と名付けた。八年の春三月に、百済の人が来朝した。】とあり、標準陰暦と合致する。
「海人訕哤」と海人の様子を述べているが、『伊未自由来記』に木の葉比等は髪を切らないし、髪も延びたままで、目だけくるくるして恐ろしい姿だったが人柄は良かったと述べていたのを思い出した。
そして、『古事記』は「阿曇連等者其綿津見神之子宇都志日金析命之子孫也其底箇之男命中箇之男命上箇之男命三柱神者墨江之三前大神」、『舊事本紀』は「底津少童命中津少童命表津少童命此三神者阿曇連等齊祠筑紫斯香神・・・天造日女命阿曇連等祖」と阿曇連は志賀島に祀られる神で天国の女王が祖先で綿津見神の末裔とあり合致している。
そして、応神三年に「この年」といかにも後から挿入したように記述する年の実際の年は392年で『三國史記』に辰斯王の「八年夏五月丁卯朔日有食之・・・王薨時年少故叔父辰斯繼位八年薨 卽位」と日干支も合致して、雄略天皇の時代が想定する応神三年が392年だったことが解る。
ちなみに、『三国史記』の日干支も紀元前54年の赫居世四年「夏四月辛丑朔」も 紀元前2年の赫居世五十六年「春正月辛丑朔」 、続いて日干支が解る紀元前34年の赫居世二十四年「夏六月壬申晦」も標準陰暦と合致し、中国が紀元前72年に『漢書』「・・・建太學,修郊祀,定正朔」と朔の基準を決定した以降だが、『三国史記』は中国の干支の決め方が異なっていて、『三国史記』も『日本書紀』と同じく文字で記録した資料を基にした史書であった。
前年の応神二年に『好太王碑文』に「倭以辛卯年來渡海破百残」と辰斯王は倭と葛城王朝との連合軍に敗れ王を挿げ替えられ、当然、畿内政権の日本に朝貢する余裕が無く、畿内政権も百済を助ける力も無かったことが解り、390年即位の応神天皇は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰の父の武内宿禰とわかり、もちろん、武内宿禰一代ではなく武内宿禰家で襲名していて、それ以前にも武内宿禰が存在して数代続くのは当然だ。
また、船の長さの一丈を1.8mとしたが、周時代に身の丈が1.8mとは考えにくくもっと短いと思われ、出土した船の推定値は10mを超えるとされるが、この船が特別言及した船であることからもう少し大きい船で、科の文字を使っていることから、何らかの法令が有ったことが推定される。

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