『日本書紀』慶長版は
「秋七月天皇與皇后居髙臺而避暑時毎夜自菟餓野有聞鹿鳴其聲寥亮而悲之共起可憐之情及月盡以鹿鳴不聆爰天皇語皇后曰當是夕而鹿不鳴其何由焉明日猪名縣佐伯部獻苞苴天皇令膳夫以問曰其苞苴何物也對言牡鹿也問之何處鹿也曰菟餓野時天皇以爲是苞苴者必其鳴鹿也因語皇后曰朕比有懷抱聞鹿聲而慰之今推佐伯部獲鹿之日夜及山野即當鳴鹿其人雖不知朕之愛以適逢獮獲猶不得已而有恨故佐伯部不欲近於皇居乃令有司移鄕于安藝渟田此今渟田佐伯部之祖也俗曰昔有一人往菟餓宿于野中時二鹿臥傍將又鶏鳴牝鹿謂牝鹿曰吾今夜夢之白霜多降之覆吾身是何祥焉牝鹿荅曰汝之出行必爲人見射而死即以白鹽塗其身如霜素之應也時宿人心裏異之未及昧爽有獵人以射牡鹿而殺是以時人諺曰鳴牡鹿矣隨相夢也四十年春二月納雌鳥皇女欲爲妃以隼別皇子爲媒時隼別皇子密親娶而久之不復命於是天皇不知有夫而親臨雌鳥皇女之殿時皇女織縑女人等歌之曰比佐箇多能阿梅箇儺麼多謎廼利餓於瑠箇儺麼多波揶步佐和氣能瀰於湏譬鵝泥爰天皇知隼別皇子密婚而恨之然重皇后之言亦敦于攴之義而忍之勿罪俄而隼別皇子枕皇女之膝以臥乃語之曰孰捷鷦鷯與隼焉曰隼捷也乃皇子曰是我所先也天皇聞是言更亦起恨時隼別皇子之舍人等歌曰破夜步佐波阿梅珥能朋利等弭箇
慨梨伊菟岐餓宇倍能娑弉岐等羅佐泥天皇聞是歌而勃然大怒之曰朕以私恨不欲失親忍之也何舋矣私事將及于社稷則欲殺隼別皇子時皇子率雌鳥皇女欲納伊勢神宮而馳於是天皇聞隼別皇子逃走即遣吉備品遲部雄鯽播磨佐伯直阿俄能胡曰追之所逮即殺爰皇后奏言雌鳥皇女寔當重罪然其殺之日不欲露皇女身乃因勅雄鯽等莫取皇女所齎之足玉手玉雄鯽等追之至菟田迫於素珥山時隱草中僅得兔急走而越山於是皇子歌曰破始多氐能佐餓始枳揶摩茂和藝毛古等赴駄利古喩例麼揶湏武志呂箇茂爰雄鯽等知兔以急追及于伊勢蔣代野而殺之時雄鯽等
探皇女之玉自裳中得之乃以二王屍埋于廬杵河邊而復命皇后令問雄鯽等曰見皇女之玉乎對言不見也是歲當新嘗之月以宴會日賜酒於內外命婦等於是近江山君稚守山妻與采女磐坂媛二女之手有纏良珠皇后見其珠既似雌鳥皇女之珠則疑之命有司問其玉所得之由對言佐伯直阿俄能胡妻之玉也仍推鞫阿俄能胡對曰誅皇女之日探而取之即將殺阿俄能胡於是阿俄能胡乃獻己之私地請免死故納其地赦死罪是以号其地曰玉代」
【秋七月に、天皇と皇后が、物見にでて暑さを避けていた。その時に毎夜、菟餓野から、鹿の鳴き声が聞こえた。その声は、とてもひっそりして悲し気だった。2人ともにかわいそうと思った。晦日になって、鹿の鳴き声が耳をすましても聞こえなかった。そこで天皇は、皇后に「今宵は、鹿が鳴ない。それはどうしてだろうか」と語った。あくる日に、猪名の縣の佐伯部が、わらで束ねて食糧を献上した。天皇は、料理人に命じて「その荒巻はどういう食べ物か」と問いただした。「牡鹿です」と答えた。「何処の鹿だ」と問いかけた。「菟餓野です」と答えた。その時、天皇は、この荒巻にした肉は、きっとあの鳴いていた鹿なのだろうと思った。それで皇后に「私は、ずっと心に有った棘が鹿の声を聞いて慰められた。今、佐伯部が鹿を獲った夜の日にちと山野の場所を推しはかると、あの鳴いていた鹿にちがいない。かの人は、私の可愛がっていた気持ちを知らず、たまたま見つけて得て、やむをえないことといっても恨めしい。それで、佐伯部を皇居に近づようとは思わない」と語った。それで役人に安藝の渟田に領地を遷すよう命じた。これが、今の渟田の佐伯部の祖だ。俗に「むかし、ある人がいて、菟餓に行って、野宿をした。その時、二匹の鹿が、横たわっていた。明け方になろうとした時、牡鹿が、牝鹿に『私は、今夜、夢を見て、白霜がたくさん降りて、私の身を覆ったが、これは、どういうきざしだ』といった。牡鹿は、『お前が、出ていくとき、きっと人にに射殺される。それで塩をその身に塗ったようになる徴しだ』と答えた。その時、野宿した人が、奇妙に感じた。まだ夜明け前に、漁師がやって来て、牡鹿を射殺した。それで、その当時の人が、『鳴く牡鹿が鳴いたら、夢の吉凶のとうりに』と言い伝えた」といった。四十年の春二月に、雌鳥の皇女を妃にしようとして、隼別の皇子にとりもってもらった。その時、隼別の皇子は、密かに自分が娶って、何時まで経っても復命しなかった。そこで、天皇は、夫が有ることを知らないで、自から雌鳥の皇女の御殿に臨んだ。その時、皇女の為にかとりぎぬを織る女等が歌った(略)。そこで天皇は、隼別の皇子の密かに縁を結んだことを知り、恨んだ。しかし、重い皇后の言葉と人のための厚情で忍んで罰しなかった。しばらくして隼別の皇子が、皇女の膝枕で寝ていた。それで「鷦鷯と隼とどちらが速い」と語った。「隼が速い」と言った。それを聞いて皇子が、「これは、わたしが先ということだ」と言った。天皇は、この言葉を聞いて、さらにまた恨んだ。その時、隼別の皇子が召使たちに、歌った(略)。天皇が、この歌を聞いて、顔色を変えて大変怒って「私は、私怨で、親族を失いたくないので、仲たがいという私事を政治に及ばすことが出来ようか我慢したがもう我慢できない。」と言って、隼別の皇子を殺そうとした。その時、皇子は、雌鳥の皇女を連れて、伊勢神宮に奉納しようと馬を走らせた。そこで、天皇は、隼別の皇子が逃走したと聞いて、吉備の品遲部の雄鯽と播磨の佐伯直の阿俄能胡を派遣して「追って捕まえたら直に殺せ」と言った。そこで皇后は、「雌鳥の皇女は、本当に重罪に当たる。しかしながらその殺そうとした日に、皇女は身を隠さなかった」と奏上した。そのため雄鯽達に「皇女のもたらした足玉手玉を取りなさい」と詔勅した。雄鯽たちは、追って菟田に着いて、素珥の山に迫まった。その時に草の中に隱れ、かろうじて免れることが出来た。急いで走って山を越えた。そこで、皇子が歌った(略)。そこで雄鯽達は、免れることを知って、急いで伊勢の蒋代の野で追いついて殺した。その時、雄鯽等は、皇女の玉を探して、腰から下にまとった衣の中から得た。それで二人の王の屍を、廬杵河の辺に埋づめて、復命した。皇后は、雄鯽等に「もしかしたら皇女の玉を見たか」と問いかけた。「見なかった」と答えた。この歳は、新嘗の月に当たって、宴会の日に、酒を全ての女官に与えた。ここに、近江の山君の稚守山の妻と采女の磐坂媛の、二人の女の手に、上等な珠を纏っていた。皇后は、その珠を見て、すでに雌鳥の皇女の珠に似ていると感じた。それで疑って、役人に命令して、その玉を得た出所を推し量るために問わせた。「佐伯直の阿俄能胡が妻の玉だ」と答えた。それで阿俄能胡を聞きただして調べた。「皇女を誅した日に、探がして取った」と答えた。すなわち、ちょうど阿俄能胡を殺そうとした。そこで、阿俄能胡は、すなわち自分の領地を献上して、死罪をあがなうと申し出た。それで、その地を国庫に納めて死罪を赦した。それで、その土地を玉代と名付けた。】とある。
「白霜多降之覆吾身」と白くなった鹿は倭武の「化白鹿立於王前」を連想させ、「角鹿」に対抗勢力が存在し、尾張王朝にとって鹿は敵の象徴で、その鹿に憐れみをもつ余裕が出来たことを示しているように感じる。
そして、雌鳥皇女の「足玉手玉」の足は統治する徴の意味で、宮主の娘の雌鳥の皇女は伊勢遺跡の女王で「櫻井田部連男鋤之妹糸媛」の子の隼総別の皇子が正統な難波宮の天皇だったことが解る。
『舊事本紀』に『日本書紀』で記述されない物部多遅麻の妹が「物部五十琴姫命此命纏向日代宮御宇天皇御世立為皇妃誕生一兒即五十功彦命是也」が景行天皇に記述されたが、景行天皇に「五十八年春二月辛丑朔辛亥幸近江國居志賀三歳是謂高穴穗宮」と近江に宮を造り移ったと記述され、この128年の記事が伊勢遺跡の王朝の始まりで五十功彦がその王なのだろう。
物部印葉の姉「物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎子皇子次矢田皇女次嶋(?雌)鳥皇女」とこの姫も『日本書紀』では宮主宅媛と「和珥臣祖日觸使主之女」で、この項の主人公だ。
さらに、山無媛の弟に「弟物部大別連公此連公難波高津宮御宇天皇御世詔為侍臣」と大別連が存在し、「矢田皇女・・・而不生皇子之時詔侍臣大別連公為皇子代后號為氏使為氏造改賜矢田部連公姓」とこの時矢田部連が賜姓され、仁徳天皇「八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と大別が天皇と記述している。
201年忍熊王によって物部王朝の分派の勢力が衰え、350年に莵道の稚郎子の死によって男王が、そして、352年に女王が薨じ、播磨王が天皇の璽である「足玉」の「手玉」を手に入れたが尾張王朝によって八田皇女という象徴と天皇の璽を奪い、本来は
雌鳥皇女も長男の皇后として迎え入れたなら完璧であったのだろう。
だから、雌鳥皇女の命を助けて、とにかく、天皇の璽の足玉手玉を手に入れたかったと考えられる。
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