『日本書紀』慶長版は
「十一年夏四月戊寅朔甲午詔群臣曰今朕視是國者郊澤曠遠而田圃少乏且河水横逝以流末不駃聊逢霖雨海潮逆上而巷里乗舩道路亦埿故群臣共視之決横源而通海塞逆流以全田宅冬十月掘宮北之郊原引南水以入西海因以号其水曰堀江又將防北河之澇以築茨田堤是時有兩處之築而乃壞之難塞時天皇夢有神誨之曰武藏人強頸河內人茨田連衫子二人以祭於河伯必獲塞則覓二人而得之因以禱于河神爰強頸泣悲之沒水而死乃其堤成焉唯衫子取全匏兩箇臨于難塞水乃取兩箇匏投於水中請之曰河神崇之以吾爲幣是以今吾來也必欲得我者沉是匏而不令泛則吾知真神親入水中若不得沈匏者自知偽神何徒亡吾身於是飄風忽起引匏沒水匏轉浪上而不沈則潝々沉以遠流是以衫子雖不死而其堤旦成也是因衫子之幹其身非亡耳故時人号其兩處曰強頸斷間衫子斷間也是歲新羅人朝貢則勞於是役十二年秋七月辛未朔癸酉髙麗國貢鐵盾鐵的八月庚子朔己酉饗髙麗客於朝是日集群臣及百寮令射髙麗所獻之鐵盾的諸人不得通的唯的臣祖盾人宿祢射鐵的通焉時髙麗客等見之畏其射之勝巧共起以拜朝明日美盾人宿祢而賜名曰的戸田宿祢同日小泊瀬造祖宿祢臣賜名曰賢遺臣也冬十月掘大溝於山背栗隈縣以潤田是以其百姓毎豊年也十三年秋九月始立茨田屯倉因定舂米部冬十月造和珥池是月築横野堤十四年冬十一月爲橋於猪甘津即号其處曰小橋也是歳作大道置於京中自南門直指之至丹比邑又掘大溝於感玖乃引石河水而潤上鈴鹿下鈴鹿上豊浦下豊浦四處郊原以墾之得四萬餘頃之田故其處百姓寛饒之無凶年之患」
【十一年の夏四月の朔が戊寅の甲午の日に、臣下に「今、私が、この国を視ると、町はずれの池は広いが遠く、伝来の畑は小さく乏しい。また河の水は横にそれてて、流れが馬のように速い。ほんの少し、長雨にあえば、海潮は溯上して、住宅に船が乗り上げ、道路は泥まみれだ。それで、お前たちよ、一緒に視て、横にそれる源を探して海に真っすぐ通して、逆流を防いで田宅としての役割を全うさせろ」と詔勅した。冬十月に、宮の北の街はずれの野原を掘って、南側から水を引いて西の海に流した。それで其の用水を名付けて堀江といった。また、北の河の洪水を防ぐため、茨田の堤防を築いた。この時、両所を築くとき、崩れ落ちて漏水を塞ぐことが出来なかった。その時に天皇は、夢見で、神が出てきて「武藏の人の強頚、河内の人の茨田連衫子の二人に、河の長に据えれば、きっと塞ぐことができる」と教えた。それで二人を求めて連れてくることが出来た。それで、河の長にして人柱の役を与えた。すると強頚は、泣き悲んだが、水に沈めて死んだ。それでその堤防が完成した。ただし衫子はまるのままの瓢箪2個を取って、塞ぐことが出来ない水辺を臨み見て、2箇の瓢箪を取り出して、水の中に投げ入れて、「河神よ、祟って、私をお供えとしろ。それで、今、私のところに、やってきて、かならず私を得ようと思うのなら、この瓢箪を沈め泛ばせろ。そうすれば私は、本当の神と解って、自分から水の中に入ろう。もし瓢箪を沈めることが出来なかったら、偽物の神と解る。どうだすぐに私を殺せ」と願い求めた。そこに、つむじかぜが急に起って、瓢箪を水に引き込んで沈めたが、瓢箪は、浪の上で転がって沈まなかった。則ち、どんどんと引き込むように遠くへ流れ去った。それで、衫子は、死ななかったが、その堤防は完成した。それで、衫子は才能で、その身は亡さなかった。それで、その周りの人は、その2か所を、強頚斷間と衫子斷間と名付けた。この歳、新羅の人が朝貢した。それでこの役で働かせた。十二年の秋七月の朔は辛未の癸酉日に、高麗国が、鐵の盾と鐵の的を貢上した。八月の朔が庚子の己酉の日に、高麗の客を宮殿でに饗応した。この日に、群臣及び百寮を集めて、高麗が献上した鐵の盾を的に射させた。諸人は、的を射通すことが出来なかった。ただ的臣の祖の盾人の宿禰だけが、鐵の的を射通した。そのときに高麗の客等が見て、その射ることの勝れた技を畏れて、一緒に起き上がって礼拝した。明日、盾人の宿禰を褒めたたえて、賜名されて的の戸田の宿禰と名乗った。同日に、小泊瀬の造の祖の宿禰の臣に、賜名して賢遺の臣と名乗った。冬十月に、大きな用水を山背の栗隈の縣に掘って田に水を引いて潤した。そのため、そこの百姓は、毎年豊作だった。十三年の秋九月に、はじめて茨田の屯倉を立てた。それで舂米の部を定めた。冬十月に、和珥の池を造った。この月に、横野の堤を築いた。十四年の冬十一月に、猪甘の津に橋を造った。それでそこを、小橋と名付けた。この歳、大道を京の中心に作った。南の門から真っすぐに向って、丹比の邑に至る。また大きな用水を感玖に掘った。それで石河の水を引いて、上鈴鹿と下鈴鹿と上豐浦と下豐浦の4か所の街はずれの野原を潤し、開墾して、四萬余の位いの田を得た。それで、そこの百姓は、ゆとりがあるほど豊饒で、凶作の年の憂いが無かった。】とあり、十一年夏四月戊寅朔は合致せず、354年か447年で324年も含めて十二年秋七月辛未朔が前月が小の月で7月2日にあたり、穴穂と雄朝津間の稚子の宿禰は兄弟なのだから、436年に穴穂が437年に雄朝津間の稚子の宿禰が宮を開いたことは十分にあり得る。
的戸田宿禰が『古事記』の大倭根子日子國玖琉に「葛城長江曽都毗古者(玉手臣的臣生江臣阿藝那臣等之祖也)」と葛城曽都毗古の子孫なのだから、436年までは少なくとも葛城襲津彥が襲名した天皇の可能性が高くそれ以降の447年が正しそうである。
前にも記述したように、茨田の堀のそばにも栗隈縣の久世郡、豊浦にも多くの古墳群があり、用水などの残土の一部は堤防に、一部は盛土として後に古墳になった可能性があり、これだけの用水や池を造れば多くの古墳のもととなる盛り土の背景となる。
前項の高麗国は416年に比定した、高麗国の高飛車な外交は、広開土王の活躍によって、絶好調の時代を背景にした記述と述べたが、この項の高麗国はかなり下手に貢献している。
すなわち、この高麗国は『三国史記』の高麗国の美川王に320年「二十一年冬十二月遣兵寇遼東慕容仁拒戰破之」など中国が五胡十六国時代に突入し合従連衡や主導権を争って、330年にも「三十一年遣使後趙石勒致其矢」と後趙の石勒に貢献して矢を届けていて、まさに、『日本書紀』の記述と似通っていて、北の後趙に対する南の日本との連携を目指していたと考えられる。
それに対して、新羅は『三国史記』の新羅の訖解尼師今に339年「三十六年春正月拜康世爲伊伐飡二月倭王移書絶交」、340年「三十七年倭兵猝至風島抄掠邊戶又進圍金城急攻王欲出兵相戰」と倭と一体になって新羅と戦う平群王朝の不遇時代は新羅と敵対関係で、新羅人を「新羅人朝貢則勞於是役」と労役に使ったと記述することは良く理解できる。
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