2019年12月13日金曜日

最終兵器の目 仁徳天皇6

 日本書紀慶長版
十六年秋七月戊寅朔天皇以宮人桑田玖賀媛示近習舍人等曰朕欲愛是婦女苦皇后之妬不能合以經多年何徒棄其盛年乎即歌曰瀰儺曾虛赴於瀰能烏苫咩烏多例揶始儺播務於是播磨國造祖速待獨進之歌曰瀰箇始報破利摩波揶摩智以播區娜輸伽之古倶等望阿例揶始儺破務即日以玖賀媛賜速待明日之夕速待詣于玖賀媛之家而玖賀媛不和乃強近帷內時玖賀媛曰妾之寡婦以終年何能爲君之妻乎於是天皇聞之欲遂速待之志以玖賀媛副速待送遣於桑田則玖賀媛發病死于道中故於今有玖賀媛之墓也十七年新羅不朝貢秋九月遣的臣祖砥田宿祢小泊瀬造祖賢遺臣而問闕貢之事於是新羅人懼之乃貢獻調絹一千四百六十疋及種種雜物幷八十艘
二十二年春正月天皇語皇后曰納八田皇女將爲妃時皇后不聽爰天皇歌以乞於皇后曰于磨臂苫能多菟屢虛等太氐于磋由豆流多由磨菟餓務珥奈羅陪氐毛餓望皇后荅歌曰虛呂望虛曾赴多弊茂豫耆瑳由廼虛烏那羅陪務耆瀰破箇辭古耆呂介茂天皇又歌曰於辭氐屢那珥破能瑳耆能那羅弭破莽那羅陪務苫虛層曾能古破阿利鶏梅皇后荅歌曰那菟務始能譬務始能虛呂望赴多弊耆氐箇區瀰夜儾利破阿珥豫區望阿羅儒天皇又歌曰阿佐豆磨能避箇能烏瑳箇烏箇多那耆珥瀰致喩區茂能茂多遇譬氐序豫枳皇后遂謂不聽故默之亦不荅言三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀國到熊野岬即取其處之御綱葉而還於是曰天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女而大恨之則其所採御綱葉投於海而不著岸故時人号散葉之海曰葉濟也爰天皇不知皇后忿不著岸親幸大津待皇后之舩而歌曰那珥波譬苫湏儒赴泥苫羅齊許辭那豆瀰曾能赴尼苫羅齊於朋瀰赴泥苫禮時皇后不泊于大津更引之泝江自山背𢌞而向倭明日天皇遣舍人鳥山令還皇后乃歌之曰夜莽之呂珥伊辭鶏苫利夜莽伊辭鶏之鶏阿餓茂赴菟摩珥伊辭枳阿波牟伽茂皇后不還猶行之至山背河而歌曰菟藝泥赴揶莽之呂餓波烏箇破能朋利涴餓能朋例磨箇波區莽珥多知瑳箇踰屢毛毛多羅儒揶素麼能紀破於朋耆瀰呂箇茂即越那羅山望葛城歌之曰菟藝泥赴揶莽之呂餓波烏瀰揶能朋利和餓能朋例麼阿烏珥湏辭儺羅烏輸疑烏陀氐夜莽苫烏輸疑和餓瀰餓朋辭區珥波箇豆羅紀多伽瀰揶和藝弊能阿多利更還山背興宮室於筒城岡南而居之
十六年の秋七月の朔が戊寅の日に、天皇は、宮人の桑田の玖賀媛の、近くで身の回りを担当する雑役達に示して「私は、この婦女をいとしく思っているが、皇后が妬むことが苦になって、いっしょになることができず、多くの年を経てしまった。どうしたらその若い盛りを無駄にしないで済ませるか」と言った。それで歌()で問いかけた。播磨国造の祖の速待が、一人だけ進み出て歌った()その日に、玖賀媛を待に与えた。明日の夕に、速待が、玖賀媛の家に行ったが、玖賀媛は仲違いした。それでむりやりたれぎぬの中に近づいた。その時玖賀媛は、「私は、寡婦のまま終わりたい。どうしてあなたの妻になりましょうか」と言った。そこで、天皇は、速待が思いを遂げたと思って、玖賀媛を、速待に従わせて、桑田へ送るようにした。それで玖賀媛は、発病して道中で死んだ。それで、今でも玖賀媛の墓が有る。十七年に、新羅が、朝貢しなかった。秋九月に、的臣の祖の砥田宿禰と小泊瀬造の祖の賢遺臣を派遣して、朝貢しなかった事を問わせた。それで、新羅の人がびくついて、貢献した。絹を一千四百六十匹、そして種雑多の物を併せて八十艘を納めた。二十二年の春正月に、天皇は、皇后に「もしかしたら八田皇女を妃にするかもしれない」と語った。その時、皇后は聞き入れなかった。そこで天皇は、皇后にねだって歌()った。皇后は、答えて歌った()天皇は、また歌()った。皇后は答えて歌()った。天皇は又歌()った。皇后は、絶対に許さないと言って、ただ黙して答えなかった。三十年の秋九月の朔が乙卯の乙丑の日に、皇后は、紀国に遊行して、熊野の岬に着いて、すなわちそこの御綱の葉を取って還った。そこで、天皇は、皇后の不在を狙って、八田皇女を娶として宮中に呼んだ。
その時、皇后は、難波の渡りに着いて、天皇が、八田皇女を側に迎えたと聞いて、大変恨んだ。それでその採った御綱の葉を海に投げ入れて、著岸しなかった。それで、当時の人は、葉を散した海を葉の渡りと名付けた。ここで天皇は、皇后が怒って着岸しないことを知らなかった。それで自ら大津行幸して、皇后の船を待った。それで歌った()皇后は、大津に停泊せず、さらに引き返して河を遡って、山背を廻って倭に向った。翌日、天皇は、舍人の鳥山を派遣して、皇后を還らせようとした。それで歌った()皇后は、還らずなお遠く行ってしまった。山背河に着いて歌った()それで那羅山を越えて、葛城を望見て歌った()さらに山背に還って、宮室を筒城の岡の南に興して居た。】とあり、十六年七月は6月2日が戊寅で、5月は閏月の小の月で5月が閏月で無かったら合致し、三十年九月朔日は標準陰暦と合致する。
十六年でなかったら302年と395年と426年で、しいて、合致させる意味が見当たらず、尾張王朝が国を統一した余裕が感じられて、否定する必要を感じない。
伊勢遺跡の王朝を倒す忍熊との戦いで、武内の宿禰の力を借りた結果、その子の葛城襲津彥の子の砥田の宿禰や小泊瀬の造は巨勢氏の小泊瀬の稚鷦鷯天皇を、さらに平群氏の大泊瀬の幼武を思わせ、尾張王朝内で武内の宿禰の力が増大した様子がうかがえる。
ところが、『古事記』に「娶丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢河枝比賣生御子宇遅能和紀郎子次妹八田若郎女次女鳥王又娶其矢河枝比賣之弟袁那弁郎女生御子宇遅之若郎女」、「娶庶妹八田若郎女又娶庶妹宇遅能若郎女」と『古事記』のみに妃にしたと記述される宇遅能若郎女が本来の皇后で、磐之媛は雄略天皇によって上書きされた可能性がある。
平群氏や葛城氏の大稚鷦の妃なら隠す必要が無く、両氏に関係が無く、巨勢氏に関係する人物が宇遅能若郎女なのであり、すなわち、尾張朝廷の皇后が宇遅能の若郎女で、もともと、山背の筒城の姫で、木菟の宿禰の名前も関係が有り、主筋のだったから記述しなかった可能性があり、葛城の襲津彥との名前交換だけではなく、菟道の稚郎子との名前交換の可能性がある。
西暦321年を元年とした武内の宿禰の政権を想定すると55年の「百濟肖古王薨」、五十六年の「百濟王子貴須立爲王」、六十四年の「百濟國貴須王薨」、六十五年の「百濟枕流王薨」が合致するように、西暦321年に建国した王権内の政権争奪戦や倭との共同の新羅侵略と尾張朝廷のゆとりある政権運営と新羅援助の見返り要求を背景にした内容だ。

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