『日本書紀』慶長版は
「四十一年春三月遣紀角宿祢於百濟始分國郡壃場具錄鄕土所出是時百濟王之孫酒君无禮由是紀角宿祢訶責百濟王百濟王懼之以鐵鎖縛酒君附襲津彥而進上爰酒君來則逃匿于石川錦織首許呂斯之家則欺之曰天皇既赦臣罪故寄汝而活焉久之天皇遂赦其罪四十三年秋九月庚子朔依網屯倉阿弭古捕異鳥獻於天皇曰臣毎張網捕鳥未曽得是鳥之類故奇而獻之天皇召酒君示鳥曰是何鳥矣酒君對言此鳥類多在百濟得馴而能從人亦捷飛之掠諸鳥百濟俗号此鳥曰倶知乃授酒君令養馴未幾時而得馴酒君則以韋緡著其足以小鈴著其尾居腕上獻于天皇是日幸百舌鳥野而遊獵時雌雉多起乃放鷹令捕忽獲數千雉是月甫定鷹甘部故時人号其養鷹之處曰鷹甘邑也五十年春三月壬辰朔丙申河內人奏言於茨田堤鷹産之即日遣使令視曰既實也天皇於是歌以問武內宿祢曰多莽耆破屢宇知能阿曽儺虛曽破豫能等保臂等儺虛曾波區珥能那餓臂等阿耆豆辭莽揶莽等能區珥珥箇利古武等儺波企箇輸揶武內宿祢荅歌曰夜輸瀰始之和我於朋枳瀰波于陪儺于陪儺和例烏斗波輸儺阿企菟辭摩揶莽等能倶珥珥箇利古武等和例破枳箇儒五十三年新羅不朝貢夏五月遣上毛野君祖竹葉瀬令問其闕貢是道路之間獲白鹿乃還
之獻于天皇更改日而行俄且重遣竹葉瀬之弟田道則詔之日若新羅距者舉兵擊之仍授精兵新羅起兵而距之爰新羅人日日挑戰田道固塞而不出時新羅軍卒一人有放于營外則掠俘之因問消息對曰有強力者曰百衝輕捷猛幹毎爲軍右前鋒故伺之擊左則敗也時新羅空左備右於是田道連精騎擊其左新羅軍潰之因縱兵乗之殺數百人即虜四邑之人民以歸焉」
【四十一年の春三月に、紀角の宿禰を百済に派遣して、はじめて国郡の境を設けて、つぶさに土地の由来を記録した。この時、百済の王の氏族の酒君が無礼で、紀角の宿禰が、百済の王を咎めて責めた。その時、百済王は、びくついて、鉄の鎖で酒君を縛って、襲津彦が引き連れて進上した。そこで酒君が来て、石川の錦織の首の許呂斯の家へ逃げて隠した。それで「天皇は、既に臣の罪を赦した。なので、お前の館に身を寄せて働こう」と欺いた。だいぶ経って天皇が、とうとうその罪を赦した。四十三年の秋九月の朔の庚子の日に、依網の屯倉の阿弭古が、奇妙な鳥を捕えて、天皇に献上して、「私が、いつものように網を張って鳥を捕っていると、いまだかってこのような鳥を捕ったことが無い。それで、奇妙に思って献上した」と言った。天皇は、酒君を呼んで、鳥を示して「これはどういう鳥か」と言った。酒君は、「このような鳥は、たくさん百済にいる。飼いならすことが出来たら人の後をいつもついて回る。また素早く飛んでいろいろな鳥を狩る。百済の人々は、此の鳥を倶知となづけた」と答えた。これが、今の鷹だ。それで酒君に授けて飼いならした。それほど経たないで訓練できた。酒君は、なめし皮の細い縄をその足に、小さな鈴をその尾につけて、腕の上に載せて、天皇に献上した。この日に、百舌鳥野に行幸して狩りをした。その時に雌の雉が、たくさん飛び立った。それで鷹を放って捕らせた。たちまち数十の雉を得ることが出来た。この月に、はじめて鷹甘部を定めた。それで、当時の人は、その鷹を養う所を鷹甘の邑と名付けた。五十年の春三月の朔が壬辰の丙申の日に、河内の人が、「茨田の堤に、鴈が産まれた」と奏上した。その日に、使者を派遣して調べて、「本当です」と言った。天皇はそれで、武内の宿禰に歌で問いかけた(略)。武内の宿禰が答えて歌った(略)。五十三年に、新羅が朝貢しなかった。夏五月に、上毛野の君の祖の竹葉瀬を派遣して、その朝貢しなかったことの理由を問わせた。新羅への行程の途中で、白鹿が獲れた。それで帰って天皇に献上した。さらに日を改めて行った。しばらくして、また竹葉瀬の弟の田道を派遣した。そして「もし新羅が拒んだら、挙兵して討て」と詔勅した。それで選りすぐりの兵士を授けた。新羅は、兵を起して防いだ。そこで新羅人は、毎日戦いを挑んできた。田道は、要塞を固く守って出撃しなかった。ある時、新羅の軍人の一人が、陣営の外に放たれたことが有った。それで捕虜として捕えた。それでなりゆきについての事情を聞いた。「とても力強い者がいる。百衝といいます。簡単に戦に勝ち働きは勇猛だ。いつも軍隊の右翼に配置され、先頭に立って進軍する。それで、ようすをうかがいみて、左翼を撃てば敵軍は敗れる」と答えた。その時に新羅は、左翼を空けて右翼に備えた。そこで、田道は、精鋭の騎馬隊を連ねてその左翼を撃った。新羅の軍は、壊滅した。それで兵を放ってつけこみ、数百人を殺した。それで四邑の民を捕虜にして帰った。】とあり、五十年三月壬辰は標準陰暦と合致するが、四十三年九月庚子は合致せず、386年もしくは453年の日干支である。
『三國史記』の新羅の364年奈勿尼師今九年「夏四月倭兵大至王聞之恐不可敵造草偶人數千衣衣持兵列立吐含山下伏勇士一千於斧峴東原倭人恃衆直進伏發擊其不意倭人大敗走追擊殺之幾盡」とあるように、倭国と戦争を行い、翌年の365年、尾張王朝に朝貢する余裕が有ったのだろうか。
また、葛城王朝と倭国の連合が新羅からの朝貢を遮って、尾張王朝と連合させないようにした可能性も考えられ、友好国の尾張王朝に裏切られた新羅に百済が接近したようで、「十一年春三月百濟人來聘・・・十三年春百濟遣使進良馬二匹」と368年に
遣使を百済が行っている。
その百済は、高句麗が343年故國原王の十三年「春二月王遣其弟稱臣入朝於燕貢珍異以千數燕王乃還其父尸猶留其母爲質秋七月移居平壤東黄城城在今西京東木覓山中遣使如晉朝貢」と晋朝に朝貢していたが、377年小獸林王
七年「冬十月無雪雷民疫百濟將兵三萬來侵平壤城十一月南伐百濟遣使入苻秦朝貢」と百済と戦い南朝の晋朝から北朝の後秦朝に乗り換え、それに対して百済は、384年枕流王の時代のに「秋七月遣使入晉朝貢九月胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮內禮敬焉佛法始於此
」と晋朝に朝貢して仏教まで誘致して、晋と新羅との友好を後ろ盾に倭および葛城王朝と386年から戦った。
386年は建内の宿禰の家系が王で、その子の紀角の宿禰の家系が配下となっていた時代で、『好太王碑文』に391年「倭以辛卯年來渡海破百残」と倭が百済を破ったと記述され、そして、397年に、阿莘王六年「夏五月王與倭國結好以太子腆支爲質」のように倭の軍門に降って皇太子を倭への人質に送った。
この人質のことは以前に応神天皇八年、応神天皇十六年、応神天皇二五年、応神天皇三九年の項で390年即位、396年即位の2人の応神天皇が存在すると記述したが、この項の天皇は390年即位の応神天皇で平群王家の直系の血統の建内の宿禰の説話と解り、応神天皇八年は397年で人質となった翌年の八年春三月に『日本書紀』「百濟記云阿花王立旡禮於貴國故奪我枕彌多禮及峴南支侵谷那東韓之地是以遣王子直支于天朝」、405年、応神天皇十六年に「是歳百濟阿花王薨天皇召直支王謂之曰汝返於國以嗣位仍且賜東韓之地而遣之」となり、その「是年」に『三国史記』「阿莘王十四年春三月白氣自王宮西起如匹練秋九月王薨」と死亡記事が記述される。
『日本書紀』を編年体としてはいけないことをよく示していて、複数の王をまとめて記述した紀伝体の史書として扱わなければならないことを示している。
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