2019年12月9日月曜日

最終兵器の目 仁徳天皇4

 『日本書紀』慶長版は
四年春二月己未朔甲子詔群臣曰朕登髙臺以遠望之烟氣不起於域中以爲百姓既貧而家無炊者朕聞古聖王之世人人誦詠德之音家家有康哉歌今朕臨億兆於茲三年頌音不聆炊烟轉踈即知五穀不登百姓窮乏也封畿之內尚有不給者況乎畿外諸國耶三月己丑朔己酉詔曰自今以後至于三載悉除課役息百姓之苦是日始之黼衣絓履不弊盡不更爲也温飯煖羹不酸鯘不易也削心約志以從事乎無爲是以宮垣崩而不造茅茨壞以不葺風雨入隙而沾衣被星辰漏壞而露床蓐是後風雨順時五穀豊穰三稔之間百姓富寛頌德既滿炊烟亦繁七年夏四月辛未朔天皇居臺上而遠望之烟氣多起是日語皇后曰朕既富矣豈有愁乎皇后對諮何謂富焉天皇曰烟氣滿國百姓自富歟皇后旦言宮垣壞而不得脩殿屋破之衣被露何謂富乎天皇曰其天之立君是爲百姓然則君以百姓爲本是以古聖王者一人飢寒顧之責身今百姓貧之則朕貧也百姓富之則朕富也未之有百姓富之君貧矣秋八月己巳朔丁丑爲大兄去來穗別皇子定壬生部亦爲皇后定葛城部九月諸國悉請之曰課役並免既經三年因此以宮殿朽壞府庫已空今黔首富饒而不拾遺是以里無鰥寡家有餘儲若當此時非貢税調以脩理宮室者懼之其獲罪于天乎然猶忍之不聽矣十年冬十月甫科課役以構造宮室於是百姓之不領而扶老携幼運材負簣不問日夜竭力争作是以未經幾時而宮室悉成故於今稱聖帝也
【四年の春二月の朔が己未の甲子の日に、群臣に「私が、高台に登って、遠くを望み見ると、煮炊きの烟が領域内に発たない。今、百姓が貧しくて、家で食料を煮炊きする者がいないからなのだろう。私は「古く、聖王の時代には、人々が、教えを歌声で唱えて家毎に無事を祝う歌が聞こえた。」と聞いた。今、私は、万民の前にして三年経った。 功績や人柄をほめたたえることばが耳を澄ましても聞こえてこない。 煮炊きする烟はどんどんまばらになった。それでわかって、五穀を納められないのは、百姓が窮乏しているからだ。邦畿の内にさえ、足りないことが有るのだから、畿外諸国はなおさら不足しているだろう」と詔勅した。三月の朔が己丑の己酉の日に、「今から後、三年の間、全て課役を取り払い、百姓の苦難をやすませなさい」と詔勅した。この日から始めて、絹糸で縫った衣服や編んだはきものが破れ尽くすまで新たに作らない。焚いたご飯やおかずは腐って酸っぱくなければ変わりなく食べよう。本心を我慢して政策目標も簡素にして、出来事にただ対応して余分なことはしない。それで、宮垣が崩れても造らず、茅や茨が崩れ落ちても葺かないで、風雨が隙間から入り、服を頭に被って凌いだ。星が隙間から漏れ差し、床は被いが破れてむしろがあらわになった。この後、季節が過ぎて、五穀が豊かに実った。三回実り三年の間に、百姓は富んでくつろぎ、徳をたたえる声が満ち、煮炊きの煙が盛んになった。七年の夏四月の朔が辛未の日に、天皇は、物見の上にいて、遠くをに望見したところ、煮炊きの煙が多く立ち上っていた。その日、皇后に「私は、すでに富んだ。もう愁いは無い」と語った。皇后は、「何が富んだというのです」と答えた。天皇は「煮炊きの烟が、国に満ち、百姓が、自然に富めると言うのか」と言った。皇后はまた、「宮垣が崩れ、直すことが出来ない。宮殿が壊れて、衣を被って露をしのいでいる。何を富んだというのですか」と言った。天皇は、「天君に立つのは、百姓の為だ。それなら君子は百姓を大本とするべきだ。それで、昔の聖王は、一人が飢え寒がるときは、反省して自分を責めた。今、百姓が貧しいのは、私が貧しいのだ。百姓が富んだら、私が富んだことになる。百姓が富んで君子が貧しといふことは未だかってない」と言った。秋八月の朔が己巳の丁丑の日に、大兄去來穗別皇子の為に、壬生部を定めた。また皇后の為に、葛城部を定めた。九月、諸国全てが、「課役を諸国一緒に免ぜられて、すでに三年経った。それで、宮殿が朽ちて壊れ、朝廷の蔵は既に空だ。今では庶民が富んで有り余る程で、残り物を拾おうともしない。そして、里には夫や妻を戦下でなくした人も無く、家には余った儲けが有る。もしこの時に、租税を納めさせて、宮室を修繕しなければ、おそらく、天罰が下る」と請い願った。しかしそれでもなほ、我慢して聞き入れなかった。十年の冬十月に、やっと課役を科して、宮室全体を造った。そこで、百姓は、取り締まらなくても、老人を扶け、幼子を背負って、資材を運び、もっこを背負った。日夜を問わず、力を尽くして競って作った。それで、それほど月日を経ないで、宮室が完成した。それで、現在に至るまで聖帝と賞賛されている。】とあり、四年二月己未朔、三月己丑朔は標準陰暦と合致するが、七年四月辛未朔は3月30日、八月己巳朔は合致せず、443年ならどちらも日干支が合致し、439年に即位した安康天皇が454年に正式に皇位に就いて首都を変えた可能性が有る。
『三国史記』に新羅の312年即位の訖解尼師の今項には「三年春三月倭國王遣使爲子求婚以阿飡急利女送之」 、新羅の440年は訥祇麻立干に「二十四年倭人侵南邊掠取生口而去夏六月又侵東邊」と440年は戦乱で余裕がなさそうで、嫁取りを行う平和な時代である尾張王朝のことと考えるべきで、聖王は『日本書紀』の垂仁2年に「于斯岐阿利叱智于岐傳聞日本國有聖皇」と聖王と呼ばれているのは尾張王朝である。
そして、『日本書紀』の仲哀天皇二年に「聖王所賞之魚焉」、神功皇后摂政前紀に新羅王波沙寐錦が記述された部分に「吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇」と景行天皇と思われる時期の聖王がいる。
さらに、神功摂政五十一年の「百濟王父子並致地啓曰貴國鴻恩重於天地何日何時敢有忘哉聖王在上」の聖王は久氐が記述され、「七枝刀一口」を献上された時期、すなわち、372年と証明した時期で、380年に葛城王朝が始まったのだから、372年の時期の聖王を平群氏の大鷦鷯が聖王と述べている可能性が高く、雄略天皇は372年の頃の聖王を手本として統治すると言っているのだ。
尾張王朝は伊勢遺跡の王朝との戦いで農民が疲弊し、戦勝の財を我が物にして課税しなくても余裕があったと考えられるが、440年は允恭天皇、すなわち平群氏から王位を奪った葛城王朝の時代で、平群氏が天皇を讃える理由がない。
尾張氏の宮殿跡の纏向遺跡は方角も一定に整然と作られていることから、税制も支配法も中国を手本に整備されている可能性が高く、纏向遺跡から出土した桃の種のC14年代測定では西暦135年から230年の値が得られ、成務天皇が『日本書紀』に「令諸國以國郡立造長縣邑置稻置並賜楯矛以爲表則隔山河而分國縣隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横山陽曰影面山陰曰背面是以百姓安居天下無事焉」とまさに国境を決めるのに日で東西南北を定め、造長・縣・邑・を定めて稻置を置いて国家の体制を定めて、徴税の倉庫を造っている。
日によって区画するのに影を使うと労力が必要だが、鏡を使えば簡単で、三角縁神獣鏡が国産なのだから、卑弥呼以降にする必要が無く、多紐文鏡のように鏡を造る技術を持ち、多数の銅鐸から分かるように、材料も含めて、多くの鏡を作成する能力を持つのであるから、纏向遺跡の頃に三角縁神獣鏡があったとしても矛盾が無く、それで、国境を決めればよく、国境の整備が終わったら鏡は不要なので墓に埋納してもよいのである。
それに対して、纏向遺跡と同じように整備された伊勢遺跡の地域では、大国と同様に銅鐸と銅剣が埋納され、纏向遺跡には初期の前方後円墳が有り、祭祀が異なることを示し、古墳時代が始まる纏向遺跡、弥生時代の終わりの伊勢遺跡で、古墳時代は尾張氏の政権で弥生時代は物部氏の政権である。
すなわち、纏向遺跡も卑弥呼の呪縛が解けるのであるから、紀元前28年から尾張王朝が存在し、ここから古墳時代が始まったと考えればよく、箸墓は崇神天皇が池や用水を造った結果出来た盛り土で作った墓で、古墳時代が始まるきっかけであったと思われる。

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