2019年12月27日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十一 履中天皇1

 『日本書紀』慶長版は
去來穗別天皇大鷦鷯天皇太子也母曰磐之媛命葛城襲津彥女也大鷦鷯天皇三十一年春正月立爲皇太子八十七年春正月大鷦鷯天皇崩皇太子自諒闇出之未即尊位之間以羽田矢代宿祢之女黑媛欲爲妃納采既訖遣住吉仲皇子而告吉日時仲皇子冒太子名以姧黑媛是夜仲皇子忘手鈴於黑媛之家而歸焉明日之夜太子不知仲皇子自姦而到之乃入室開帳居於玉床時床頭有鈴音太子異之問黑媛曰何鈴也對曰昨夜之非太子所齎鈴乎何更問妾太子自知仲皇子冒名以姦黑媛則默之避也爰仲皇子畏有事將殺太子密興兵圍太子宮時平群木菟宿祢物部大前宿祢漢直祖阿知使主三人啓於太子太子不信故三人扶太子令乗馬而逃之仲皇子不知太子不在而焚太子宮通夜火不滅太子到河內國埴生坂而醒之顧望難波見火光而大驚則急馳之自大坂向倭至于飛鳥山遇少女於山口問之曰此山有人乎對曰執兵者多滿山中宜𢌞自當摩侄踰之太子於是以爲聆少女言而得免難則歌之曰於朋佐箇珥阿布夜烏等謎烏瀰知度沛麼哆駄珥破能邏孺哆摩知烏能流則更還之發當縣兵令從身自龍田山踰之時有數十人執兵追來者太子遠望之曰其彼來者誰人也何步行急之若賊人乎因隱山中而待之近則遣一人問曰曷人且何處往矣對曰淡路野嶋之海人也阿曇連濱子爲仲皇子令追太子於是出伏兵圍之悉得捕
【去來穗別天皇は、大鷦鷯天皇の太子だ。母は磐之媛命という。葛城の襲津彦の娘だ。大鷦鷯天皇の三十一年の春正月に、皇太子となった。八十七年の春正月に、大鷦鷯天皇が崩じた。太子は、喪に服する期間が明けて、まだ皇位に就いていない時に、羽田の矢代の宿禰の娘の黒媛を妃にしようと思った。結納を取り交わして、住吉の仲皇子を派遣して、吉日を告げる時に仲皇子は、太子の名を名のって、黒媛を犯した。この夜、仲皇子は、手に飾る鈴を黒媛の家に忘れて帰った。翌日の夜に、太子が、仲皇子が姦淫したことを知らないで媛の元に赴いて、部屋に入ってたれぎぬをあけると、媛は寝床にいた。その時、床の上部で鈴の音が鳴った。太子は、奇妙に思って、黒媛に「どういう鈴だ」と問いかけた。「昨夜、太子が持って来た鈴ではありませんか。どうして今更私に聞くのですか」と答えた。太子は、仲皇子が、名をかたって黒媛を犯したことを知って、黙って去った。そこで仲皇子は、太子が武力に訴えることを畏れて、太子を殺そうとした。秘密裡に挙兵して、太子の宮を囲んだ。その時に平群の木菟の宿禰と物部の大前の宿禰と漢の直の祖の阿知使主の三人が、太子に教えたが、太子は、信んじなかった。それで、三人は、太子をたすけて、馬に乘せて逃げた。仲皇子は、太子がいいない事を知らないで、太子の宮を焚いた。夜どうし、火が消えなかった。太子は、河内国の埴生の坂について目が醒めた。難波を振り返って臨み見た。炎が放つ光を見て大変驚いた。それで急いで馬を走らせて、大坂から倭へ向った。飛鳥山についた時、少女に山の入口で遇った。「この山に誰かいるか」と問いかけた。「軍を指揮して、山中に満ちています。遠回りして當摩の小道を越すといい」と答えた。太子は、少女の言葉を聞けば、難を免れることが出来ると思って、歌った()。それで、さらに進んで倭に帰って、倭の縣の兵を起こして従わせ、龍田の山を越した。その時、数十人の、兵を従えて追ってくる者があった。太子は、遠くを望み見て「その向こうから来るのは、誰だ。どうして急いで歩いて来る。若しかした盗賊か」と言った。それで山中に隱れて待ち伏せした。近づいてきた時、一人を派遣して、「何者だ。そしてどこへ行く」と問いかけた。「淡路の野嶋の海人です。阿曇の連の濱子といい、仲皇子の爲に、太子を追いかけている」と答えた。そこで、伏兵を出撃して取り囲んだ。残らず捕えることが出来た。】とある。
去來穗別は氏姓がなく天皇の名前には違いがないが、別が不満で、最初の天皇名を持つ応神天皇は『日本書紀』応神天皇即位前紀に「譽田天皇足仲彦天皇第四子也」と記述されて別がつかない。
雄略天皇が記述した一書に「大神本名譽田別神太子元名去來紗別尊然無所見也未詳」と幼名が定かでないと述べるが、天皇の名を譽田と呼ぶのだから、幼名が譽田別なら定かでなければ理に適わない。
すなわち、雄略天皇にとっての血縁の天皇は譽田で譽田別や去來紗別などの別がつく跡取りでない分家の皇子が他の氏族の文献に残っていたと考えられる。
すなわち、雄略天皇は譽田天皇の血統だが、皇位継承権が無い木菟の宿禰という木国の王の地位で、『日本書紀』仁徳元年に「則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子取木菟名號大臣之子曰木菟宿禰」と仁徳天皇の血統と主張しなければならなかった。
『舊事本紀』に「十三世孫尾綱根命此命譽田天皇御世爲大臣・・・品太天皇御世賜尾治連姓」、「意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣供奉」と尾綱根が390年即位の応神天皇の時の実際の天皇で実質は譽田天皇建内の宿禰が力を持っていて、尾張氏の髙城入姫の命と建内の宿禰の子の家系の葛城の襲津彦(大鷦鷯)の家系が天皇の地位を得る血統の人間となり、尾綱根が皇位を奪われて尾張氏を名乗り皇太子の意乎巳も大臣となった。
大鷦鷯は建内の宿禰の子ではあるが、実際の建内の宿禰の後継者の羽田の矢代の宿禰の媛を得ることで盤石な血統を得られるため、大鷦鷯の正当な後継者の仲皇子がその媛を得てしまったため、分家の去來穗別が横やりで政権を奪ったのが実情で、勝った天皇は正義で負けた王は逆賊だ。
去來穗別は難波に出仕していたが、地元の倭に戻って挙兵するのであるが、難波から飛鳥山までは仲皇子の領域だったことを記述している。
『古事記』にも「本坐難波宮之時坐大嘗而爲豊明之時」と難波で大嘗が行われており、難波の朝廷が皇位継承の儀式を行っている。

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